2022年10月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マラキ書3章23〜24
    ヨハネによる福音書5章24〜30
●説教 「被告席」

 
   最後の審判
 
 私が伝道者となって最初の任地でのことです。教会に通う高齢のご婦人が、ある時こんなことを言いました。‥‥「私が子どもの頃は、お寺で御坊様(和尚さんの尊称)が、まるで見てきたかのような地獄の話をしてくれて怖かった」と。たしかに、死んでから三途の川を渡り、閻魔大王などの裁きを受けて、嘘をついた者は舌を引き抜かれ、火の燃え盛る地獄に落とされる‥‥というような話は子供には恐ろしいものに違いありません。そして彼女は続けて、「最近の御坊様はあまり地獄の話をしなくなった」と言いました。
 しかしこれは、キリスト教会も同じかもしれません。教会でも、いわゆる地獄の話をあまりしなくなった。聖書で言えば、最後の審判のあとに苦しみが待ち受けている場所、それが地獄ということになるのですが、そういう話をあまりしなくなったのは、キリスト教も同じかもしれません。どうしてあまりそういう話をしなくなったのか分かりませんが、あんまり一般受けが良くないからかもしれません。
 ところで今日の使徒信条は、それに関するところを扱います。"かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。" これは使徒信条の、イエス・キリストについての項のうち、一番最後のところです。これはキリストの再臨と最後の審判について述べています。
 
   再臨と審判
 
 これまで使徒信条のイエス・キリストの項目について学んできました。十字架で死なれたキリストが陰府に行かれたこと、そして十字架の死から3日目によみがえられ、そののち天に上られたということが述べられていました。きょうはその続きです。
 天に上られ、父なる神の右の座に着かれたキリストが、再びこの世に来られる日が来る。それが世の終わりの時です。そのことについて、新約聖書はいたる所で述べています。たとえば、復活されたイエスさまが天に上られたあと、弟子たちは天を見上げていました。そのとき神の御使いが現れて弟子たちに語りました。
 (使徒 1:11)「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
 天に上げられたイエスさまは、またお出でになると言われています。これをキリストの再臨と言います。「マラナタ」という言葉がコリントの信徒への第一の手紙(16:22)にあります。コロナ禍になる前に、聖餐式の時に歌っていた賛美歌の歌詞でもあります。この「マラナタ」という言葉は、「主よ、来てください」という意味で、キリストが再臨されることを祈る言葉です。
 この礼拝で3月はじめまでずっと続けて読んできたマタイによる福音書でも、終わりの時の出来事として、イエスさまご自身が次のように弟子たちに対して語っておられました。
 (マタイ 24:30〜31)「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 ここでも「人の子」、すなわちイエスさまの再臨について語っておられます。また新約聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後はどのような言葉で終わっているか、皆さんご存じですか? 次のように新約聖書は締めくくられています。
 (黙示録 22:20〜21)以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
 すなわち、イエスさまが「しかり、わたしはすぐに来る」とおっしゃり、それに対して「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉で答えています。そして祝祷で終わっている。すなわち新約聖書、もっと言えば全聖書の終わりは、キリストの再臨を待ち望むことで終わっているのです。それはすなわち、キリストの再臨をもって聖書は完結するということになります。
 今申し上げましたように、イエス・キリストの再臨は、すなわちこの世の歴史の終わりを意味します。それは自然に世界が終わるというのではありません。あるいは人間が終わらせるというのでもありません。神が終わらせるということです。それを終末と呼びます。そして終末は同時に、神による審判の時です。先ほどの使徒信条の「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言うのがその審判を指しています。そして、その審判を経て、新しい世界へ移ることが聖書に書かれています。すなわちそれは、救いの完成の時となります。
 
   ヨハネ5:24〜30
 
 ヨハネによる福音書5章24節〜30節から恵みを分かち合いましょう。まず24節です。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と。これはイエスさまの言葉です。イエスさまを信じる者は、裁きを受けることなく「死から命へと移っている」と言われています。この「移っている」という言葉は、ギリシャ語の文法で言うと完了形という形になっています。すなわち、「すでに移っている」という意味になります。つまり、世の終わりの最後の審判の時に、生きるか死ぬかの運命が決まるというのではなく、今既に命に移っていると言われているのです。この「命」というのは、永遠の命のことです。「わたしをお遣わしになった方」というのは父なる神のことです。イエスさまの言葉を聞いて、神を信じる者は、もうすでに永遠の命へと移されている。そして裁きを受けることはないと言われています。
 「信じる」というのは、聖書では「信頼する」、「頼みきる」、「任せる」という意味です。イエスさまと神さまを信頼するんです。頼るんです。お任せするんです。そのとき、私たちは罪人であるけれども、永遠の命、神の命へと移されているというのです。
 次の25節へ行きましょう。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
 「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」。この「死んだ者」というのは、先日の「陰府にくだり」のところの説教では、死んで陰府に行った人の霊魂のことだと申し上げました。そしてもう一つ意味がほかにあります。それは、霊的に死んだ者という意味です。たとえばヨハネの黙示録3章1節に、次のように書かれています。「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」これはイエスさまの言葉です。なるほど、息をして心臓が動いているという意味では生きている。しかし神から見たら、死んでいるということです。
 いずれにしろ、死んで陰府に下った霊魂も、生きているけれども神の前には死んでいる人も、神の子キリスト・イエスさまの声を聞く者は、すなわちイエスさまの声を聞いて受け入れる者、信じる者は生きると言われているのです。
 命というものは神さまにあります。というよりも、命は神の本質です。神さまだけが永遠です。言い換えれば、神さまは永遠の命そのものです。私たちは罪によって、その命である神から離れてしまった。しかしイエスさまを通して、再びその神とつながることができるのです。
 
   善と悪
 
 最後の審判を考えるために、29節に飛びます。29節にはこう書かれています。「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
 つまり、すべての人は死んで終わりではなく、よみがえる。善を行った者は、永遠の命を受けるためによみがえる。しかし、悪を行った者は、裁きを受ける。
 このことは、この世の多くの人が、もっともだと思うのではないでしょうか。たとえば、マザー・テレサのような人と、ヒトラーやスターリンのような多くの人々を虐殺した人が同じ扱いでは、不公平だと思うでしょう。国民を虐げて苦しめ、自由を奪い、気に入らない者を次々と処刑して恐怖政治を敷く一方、自らは贅沢三昧のリッチな生活をしている独裁者もいます。その独裁者によって理不尽に殺された人の家族は、どのように思うでしょうか。「裁かれて地獄に落ちろ」と言うのではないでしょうか。ですから、そのような人から見たら、ここを読んで、少しは慰められるのではないかと思います。
 ところが、問題があります。それは、ここで言われている善とは何か?悪とは何か?ということです。良い人は天国で永遠の命を受け、悪い人は裁きを受けることが当然と思うかも知れませんが、日本昔話のような単純さではないということです。
 たとえば「善」です。ルカによる福音書の18章に、ある金持ちの議員がイエスさまに尋ねた時のことが書かれています。(ルカ18:18〜19)ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
 そのように、イエスさまは「神おひとりのほかに善い者は誰もいない」と言われたのです。誰も善い人はいないと。それに対して、神の掟をみな守ってきましたとこの議員は答えた。すると、イエスさまはおっしゃいました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」‥‥このイエスさまの言葉を聞いて、この議員は悲しみながら去っていきました。自分は今まで善いことをしてきたと思っていた。だから神さまが自分を金持ちにしてくれたと思っていた。しかし、貧しい人たちを助けるために、自分の全財産を売り払うことはできない。そのことが分かったのです。
 聖書は述べています。(詩編14:2〜3)主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
 すなわち、聖書は、私たちも善人ではないと語っているのです。神の前には、みな罪人であると。イエスさまの弟子たちを見てください。十字架の前に、みなイエスさまを見捨てて逃げて行ったではありませんか。みな弱い存在なのです。みな罪人です。善人がいないというのです。
 そうすると、先ほどの「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」 というヨハネによる福音書5章29節のイエスさまの言葉は、実際には、全然意味がないということになってしまいます。しかしさらにここでどんでん返しがあるのです。それが信仰義認という教えです。たとえば新約聖書の次の箇所です。
(ガラテヤ2:16)けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
 人間はみな罪人であって、その行いによっては義とされない。すなわち善を行ったとは見なされない。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、本来、義ではない私たちが義とされる。善人ではない私たちが、善であると見なされる。キリストが私たちの罪を全部十字架で償ってくださった。負って下さった。そう信じることによって、私たちは善とみなされ、さばきを免れる。それが信仰義認です。
 つまり、キリストにおすがりするのです。こんな私でも救ってくださるキリスト、義と見なし、善と見なしてくださるキリストにおすがりするのです。それをキリストは良しとしてくださる。したがって、イエスさまのおっしゃる「善を行った者」というのは、イエスさまを信じてすがった者、ということになります。
 
   被告席
 
 本日の説教は「被告席」という題をつけました。私は刑事裁判で被告席に立ったことはありませんが、友人の裁判を傍聴したことはあります。裁判の被告は、判決が出るまでは落ち着きません。検察官が、罪を列挙して求刑をすると、身も縮む思いがすると思います。ましてや、それが死刑の求刑であったとしたら、裁判長から判決が出るまでの間、食事も喉を通らないほどだと思います。
 最後の審判の法廷では、イエスさまが裁くというのですから裁判長です。そして裁判長の口から思いもかけない言葉が出て来る。‥‥「あなたの罪は、すべて私が十字架にかかってつぐなった。そしてあなたはそれを信じた。だからあなたは無罪だ」と。「さあ、神の国に入りなさい」と。‥‥いわばそういうことです。
 そうすると、天国というのは、お互いに「私もイエスさまによって罪を赦されました」という世界であるということになります。私たちはお互いに、イエスさまによって罪を赦された者同士です。そしてそのイエスさまを信じる時、すでに死から命へと移されているのです。
 ですから今週も主と共に歩むことができます。「私は主によって罪を赦された。私は主から愛されている」と告白しつつ、主と共に歩むことができます。


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