2022年10月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編110編1
    ロ−マの信徒への手紙8章31〜39
●説教 「神の右の座」使徒信条講解(15)

 
   賛美
 
 当教会でも購読しています月刊紙「聖書をいつも生活に」の10月号に、フルート奏者の紫園香(しおんかおり)さんの証が載っていました。それによりますと、紫園さんは、クリスチャンになる前、あるとき2つの音楽会に行く機会があったそうです。一つはクラシック音楽の殿堂で開催された超一流と言われる外国演奏家のリサイタルでした。たいへん華やかな演奏に客席で思わず「ブラボー」と叫んだそうです。大満足で家に帰ったものの、翌朝起きたときには心に何も残っていなかったそうです。もう一つは家の近くの教会で行われたチャペルコンサート。名前も知らない演奏者で、特に印象に残る演奏でもなかったのに、そのとき演奏された讃美歌のメロディーは、一週間経っても一か月経っても、ずっと心に残っていたそうです。「なんだろう、なにが違うのだろう」という疑問を持った。そして大学時代の指導教官から、その教会で行われるフルート教室の講師の仕事を紹介されて、教会の門をくぐったそうです。それはちょうど、父親の会社が倒産して一家が離散するような苦しいときだったそうです。そうして信仰に導かれたそうです。
 たしかに讃美歌には不思議な力があると思います。私の学生時代、教会に行かなくなり、信仰を捨てたわけですが、つらいとき、自然にむかし教会で歌った賛美歌を口ずさんでいたことを思い出します。
 神さまを賛美する歌や音楽は何が違うのでしょうか? 聖書の詩編102編19節にこう書かれています。「主を賛美するために民は創造された。」‥‥神さまを賛美礼拝するために、私たちは造られたと語っています。ふだんは気がつかないかも知れない。しかし主は、賛美を通してすべての人をご自分のところに招いておられるからだと思います。
 
   全能の父なる神の右に座したまえり
 
 本日は、使徒信条のイエス・キリストについての項のうち、「全能の父なる神の右に座したまえり」というくだりについて恵みを分かち合いたいと思います。十字架につけられ死なれたイエス・キリストが、陰府に下られ、そしてよみがえられた。そして天に昇られて、全能の父なる神の右に座られたといいます。
 右の座というのは神に次ぐ位置です。日本では、たとえばひな人形に見られるように右大臣よりも左大臣の方が位が上なので、左の方が上座ということになりますが、聖書では右のほうが上ということになります。しかし、イエスさまが天の父なる神の右の座にお着きになったということは、父なる神に次ぐ地位に就かれたということだけを言いたいのではありません。
 本日は、そのことをローマの信徒への手紙8章31節〜29節の御言葉を通して学びたいと思います。そうすると、なぜイエスさまが神の右の座に着かれたかが分かります。
 
   ローマ8:31〜39
 
 順番に見ていきましょう。まず31節です。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 たしかにその通りです。もし、天地の造り主である全能の父なる神さまが、私たちの味方であるならば、誰も私たちに敵対することができません。神さまより強い存在はないからです。敵対できないということは、だれも私たちを破滅させることができないということであり、滅ぼそうと思ってもムダであるということになります。「もし」神が私たちの味方であるならと言います。たしかに、「もし」神が私の味方であるならば、どんなにすばらしいことでしょうか。何しろ全能の神が守ってくださるのですから。しかしその「もし」が、はかない願望ではなく、本当にそうなったというのです。本当に神が私たちの味方となってくださっているのだと。それが35節に言われていることですが、誰もキリストの愛から私たちを引き離すことができない、だから本当に神は私たちの味方となってくださったのであり、「もし」は現実となったのです。
 次の32節です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 私たちを救うために、御子イエス・キリストを十字架の死に渡された神。ご自分の子よりも大切なものはありません。その最も大切な御子イエスさまを私たちにくださったのですから、イエスさまと共にすべてのものを私たちにくださる。それはまさにその通りと言えるでしょう。しかしその「すべてのもの」とは、この世の物質的なものではないかもしれません。つまりお金や金銀宝石や貴重な品々をすべてくださる、ということではありません。ここで言われている「すべてのもの」というのは、良いものです。良いものというのは、私たちが神の信仰で満たされ、平安で満たされるために必要なものはすべてということであり、さらには神の子であるイエスさまと似た者へと成長するために必要な良いものということになるでしょう。
 そして33節から34節の部分となります。ここで「神の右」の座ということが出てきます。34節を見てみましょう。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
 ここを読みますと、神の右の座に座っておられるイエスさまが、私たちのために神に執り成してくださると書かれています。なにを執り成すかといえば、私たちを罪に定めようとして神に訴える者から、私たちを弁護するために執り成してくださるということになります。私たちは罪人です。だから罪に定めようとすればできるに決まっています。しかしイエスさまは、それを弁護し、神に執り成してくださるというのです。
 たとえば、ヨハネによる福音書の8章です。ここでは、姦通の現場で捕らえられた女性がイエスさまの前に引きずり出されてきます。律法学者とファリサイ派の人々が、イエスさまを試すために、この女性を連れて来たのです。ユダヤの律法によれば、そのような場合、その女性は石を投げられて死刑にされることになっていました。彼らはイエスさまに言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 しばらくイエスさまはかがみ込んで地面に指で何か書いておられましたが、彼らがしつこく問い続けると、やがて身を起こしておっしゃいました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまたかがんで、地面になにかを書き続けられた。すると、訴え出た人々は、年長者から始めて一人去り、二人去り、ついには皆去ってしまった。そして、イエスさまと、訴えられた女性だけがそこに残りました。そして最後にイエスさまはその女性におっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
 これは、姦通の罪などどうでもよいということを言われたのではありません。これは、その罪は私が代わりに負ったということなのです。イエスさまが代わりに罪を負って下さったのです。そうして十字架へ行かれる。イエスさまは、「これからは、もう罪を犯してはならない」と女におっしゃいました。これは「今度は許さん」という意味ではありません。また他の違う罪を犯すかも知れない。しかし罪を犯さないようにと。しかしもし罪をまた犯したら、再びイエスさまが負って下さるでしょう。つまり赦して下さるでしょう。そういうことが繰り返されるかも知れない。しかしそうしているうちに、イエスさまの愛が本当に身に染みて分かってきて、その人は変えられていく。私たちも変えられていく。そういう奇跡が起こっていくのです。
 このローマの信徒への手紙を書いたパウロ自身、次のように述べています。(Tコリント 15:9〜10)「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」
 パウロはかつてキリスト教会を激しく迫害していた人でした。しかし主イエスは、そのパウロを裁いて罪に定めるためにではなく、ゆるして救い、反対にキリストの伝道者とするために天から現れられました。天からパウロの所に現れたキリストは、すでに天に昇って父なる神の右の座についておられたキリストです。そのように、イエス・キリストが全能の父なる神の右に座しておられるのは、罪人である私たちを神にとりなし、救うためであるのです。
 
 私たちを神に訴える者の一つに、サタン、すなわち悪魔がいます。たとえばヨハネの黙示録12章10節では、悪魔のことが「告発者」という言葉で表現されています。悪魔が私たちの罪を指摘して神に告発する。たとえばこういうことになるでしょう。‥‥天の法廷で、悪魔が私たちのことを神さまに告発するという光景を考えてみます。すると悪魔は、「神さま、この人は、このような罪を犯してきました。そしてこれこれこのような過ちを犯してきました。罪人です。天国に入る資格はありません。」それは悪魔の指摘するとおりであり、私たちはまったく天国に入る資格もないし、神に祝福される資格もない。祈りを聞いていただける資格もありません。悪魔の断罪するとおりです。しかしそこで神の右の座におられるイエスさまが、私たちのことを弁護して神に執り成してくださる。「父よ、赦してあげてください。その人の罪は、私が代わりに負いました。私が十字架にかかって負いました。」‥‥分かりやすくいえば、そういうことであります。
 元ヤクザで、暴力団の組長だったYさんという方がいます。この人は、結婚した韓国人の奥さんがクリスチャンで熱心な人でした。最初は妻のいうことなど耳を傾けませんでしたが、やがてヤクザ稼業がうまく行かなくなり、挫折を感じ始めるのです。そうしてついに妻の言うことを聞いて教会に通うようになります。するとやがて、怖いもの知らずだったYさんは、死の恐怖というものを感じるようになる。ヤクザの組長が死を恐れるようになったらやっていられない。それで教会の牧師に相談したそうです。「先生、死の恐怖に打ち勝つにはどうしたらよいでしょうか?」と。すると牧師はこう答えた。「あなたがそのように死を恐ろしいと感じ始めたのは、神さまがあなたにヤクザをやめなさいと言っているからですよ」と。それでYさんは、「先生、ほならわしはどないしたらええんですか?」と聞いた。すると牧師は、「教会の祈祷院があるから、そこで12日間の断食祈祷をしなさい。神さまが応えられるでしょう」と言ったそうです。それで祈祷院に行ったそうです。祈祷院では、一日に3〜4回礼拝が持たれ、そして祈りをする。そしてそこの牧師との対話で、イエスさまが自分の罪の身代わりとして十字架につけられたこと、そしてそのことを信じることで罪がゆるされ神の子とされることで罪が解決すると教えられました。Y さんは、「わしのような者でも救われるのでしょうか?」と牧師に問いました。すると牧師は、「救われます。キリストの救いは完全です」と力を込めて言ったそうです。それでY さんは、キリストの十字架を信じたそうです。キリストが自分の身代わりで死んでくれたから自分の罪はゆるされて、天国に行けると信じました。
 しかしまだ実感がなかった。そうして祈祷院に来てから10日目にキリストと出会う体験をしたそうです。夜の11時頃、神々しい光りに包まれたキリストに出会ったそうです。そして「わたしはおまえの罪のために十字架に架けられた」と語られたそうです。その言葉は今までに経験したことのない喜びと平安をもたらしたそうです。「信じます」と応えると、涙が止まらない。感動と喜びに包まれたそうです。そしてY さんはヤクザをやめ、キリストのために働くようになったのです。キリストとの出会い方というのは、人によって違います。Y さんの場合は、Y さんにふさわしい出会い方をイエスさまがなさったのであって、皆が同じような仕方で出会うのではありません。しかし人それぞれキリストとの出会い方は違っても、結果は同じです。イエス・キリストが、この私の罪を代わりに負って下さり十字架に行ってくださった。それを信じることによって、私たちの罪はすべてゆるされるのです。
 「この人はこんなに罪を犯した」「大きな過ちを犯した」という罪の告発に対して、イエス・キリストは、「その罪は私が代わりに負った」と言ってくださる。それが全能の父なる神の右に座しておられるキリストです。神に執り成してくださるのです。そのキリストを私たちに与えてくださった神の愛が浮き彫りになります。
 そうして38節39節のクライマックスに至ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 
   聖餐式
 
 本日は聖餐式を行います。新型コロナウイルス感染の第7派がようやく終息に向かっていることを受けて、再開することにいたしました。折しも今日は世界聖餐日であり、世界宣教の日です。
 聖餐式。それは十字架にかかられたキリストの恵みに、信仰をもって預かる食卓です。パンを手に取って「これは私の体である」とおっしゃり、杯を取って「これは罪が赦されるように多くの人のために流される私の血、契約の血である」とおっしゃいました。私たちは信仰をもってそれを受けることによって、キリストと一つにしていただくのです。


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