2022年9月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言30章4
    ヨハネによる福音書16章7
●説教 「入れ替わり」使徒信条講解(14)

 
   エリザベス女王の葬儀
 
 先週、イギリスのエリザベス女王の葬儀が、ロンドンのウェストミンスター教会堂で行われました。やはり一つの時代が終わった、もう少し言えば「戦後」という時代が確実に終わったような印象を私は受けました。何しろ私が生まれたときにはすでに女王がイギリスの国王であったわけですから、なにかいつまでもいる存在のように思っていましたが、やはり人間には死が訪れるのであり、時代は確実に変わっていくのだという思いを深くいたしました。葬儀の様子はテレビでも中継されましたので、ご覧になった方も多かったのではないでしょうか。それを見て感銘を受けた方も多かったようです。その理由の一つが、聖歌隊の歌う讃美歌の美しさだったようです。葬儀の中では何曲も讃美歌が歌われました。そして聖書も何カ所か読まれました。それはまさにキリスト教会の葬儀でした。女王は、イギリス国教会のトップでもありますので、それは当たり前と言えば当たり前のことなのですが。
 その何カ所か読まれた聖書の中で、新しくイギリスの首相となったばかりのトラスさんが読んだのが、ヨハネによる福音書14章1〜9節でした。その箇所は、このような言葉で始まります。
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。‥‥」
 それは、イエスさまと弟子たちの最後の晩餐の席でイエスさまがなさった、いわゆる告別説教と呼ばれるものの最初の箇所です。ですから、それは本日の新約聖書箇所に続いていきます。
 
   昇天されるキリスト
 
 使徒信条の連続講解説教を始めて、きょうは14回目となりましたが、本日の使徒信条の言葉は「天に昇り」です。死からよみがえられたイエス・キリストが、天に昇られたということです。使徒言行録の1章3節によれば、復活されたイエスさまは40日間地上におられ、使徒たち弟子たちに現れ、神の国についてお話しになりました。そして天に昇られました。
 キリスト教会の暦に、昇天日もしくは昇天祭という日があります。それはイースターすなわち復活祭から40日目に当たる日です。今年はイースターが4月17日の日曜日で、昇天日が5月26日(木)でした。そしてそれから10日後がペンテコステすなわち聖霊降臨祭となります。
 讃美歌を見ますと、十字架に至るイエスさまの受難の讃美歌や、復活の讃美歌は数多くありますが、昇天日の讃美歌は少ないようです。実際日本の教会でも、あまり昇天日を強調することはありません。しかし、ドイツやスイス、フランスといったキリスト教国では昇天日は国の祝日となっていて、学校や商店が休みとなります。けっこう大切にしている国があって、逆に「大事な出来事なんだ」と思わされたりします。
 イエスさまの復活というのは、霊魂だけよみがえったというのではなく、体を伴った復活です。そのように、せっかくよみがえられたイエスさまが、天国に昇られるというのは、なんだかもったいないと言いますか、残念な気がするんじゃないでしょうか。
 その昇天の様子ですけれども、聖書ではルカが書いています。一つはルカによる福音書24章49〜51節です。
 "49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。"
 もう一つは同じルカが書いた使徒言行録1章9〜11節です。
 "9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」"
 これらを読むと、イエスさまは弟子たちの前で天に昇って行かれたことが分かります。そして弟子たちは天を見上げて立っていた。しかしこのことは、天国が空の上にあるということではありません。また、イエスさまが雲に覆われたと書かれていますが、雲は聖書では神の栄光を現す場合がありますから、文字通りの雲ではないかもしれません。ですから、これはイエスさまが空の上の方にある天国に昇っていったということではなく、異次元の世界に移られたということだと思います。この3次元世界ではなく、もっと高次の世界に移られた。それが天の国、神の国であるということだと思います。
 
   喜んだ弟子たち
 
 さて、そのようにしてイエスさまが天の父なる神さまのところに行かれた。そうすると弟子たちは、イエスさまとお別れしたわけですから、悲しんで涙を流したのかと思いきや、そうではありませんでした。反対に大喜びでエルサレムに戻り、神殿で神をほめたたえていたと、ルカによる福音書の一番最後に書かれています。
 これはちょっと意外な感じがします。なぜなら、イエスさまの弟子たちは、イエスさまがいないと何もできないような弟子たちだからです。その弟子たちが、イエスさまとの別れを嘆き悲しまないで、喜んでエルサレムに戻って神をほめたたえたというのはいったいどういうわけでしょう?
 一つには、またイエスさまが来られると言われていることです。先ほどの、使徒言行録のイエスさまが昇天された箇所です。
 "10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。"
 イエスさまがまたこの地上にお出でになる。そのように、神の使いと思われる人が告げている。それは世の終わりの時のキリストの再臨のことを言っているわけですが、それがいつのことなのかは分かりません。しかし弟子たちは、イエスさまが再びお出でになるということを聞いて、信じて、平安と喜びに満たされたと思われます。
 もう一つは、イエスさまが天に行かれることによって代わりに聖霊が来てくださるということです。それが今日の聖書箇所の言葉です。
(ヨハネ 16:7)"しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。"
 このイエスさまがおっしゃった「弁護者」というのが聖霊のことです。これは最後の晩餐の告別説教の中でイエスさまがおっしゃった言葉ですが、イエスさまが去って天に行けば、聖霊を弟子たちのところに送られると言われています。
 聖霊というのは神の霊です。そしてそれは、父・子・聖霊なる三位一体の神のひと方です。旧約聖書では、聖霊は預言者など特別に選ばれた人に与えられました。聖霊が与えられると預言しました。すなわち神の言葉を語りました。また、エリヤやエリシャといった預言者は、さまざまな奇跡を行いました。聖霊は人によってはそういう賜物をお与えになりました。
 その聖霊を、イエスさまが天に行かれることによって、弟子たちに送られると言われたのです。聖霊が弟子たちの所に来るということは、霊ですから目には見えませんが、神さまが来るということでもあります。神さまが来られるということは、目には見えない形でイエスさまが来られるということになります。すなわち、体を伴ったイエスさまは天に昇られるけれども、代わりにイエスさまが聖霊を送って下さる。目には見えない形で、イエスさまはこれからも共にいて下さる。弟子たちは、そのことが分かった。それでイエスさまが天に昇られたけれども、喜んで神をほめたたえたのです。
 
   なぜイエスは天に行かれたか?
 
 そもそも、なぜイエスさまは天に帰られたのでしょうか?
 一つには、地上におけるイエスさまの使命が終わったということだと思います。地上におけるイエスさまの使命とはなんでしょうか?‥‥それは、私たち人間を救うということです。私たちの罪をあがなう。それが救いです。それで十字架にかかられた。ご自分の命をもって私たちの罪を償い、救ってくださったのです。それがイエスさまの地上での使命です。それが終わった。
 しかし、それで私たちの救いが終わるのではありません。なぜなら、私たちの罪をキリスト・イエスさまが償ってくださっても、私たち自身は相変わらず罪人だからです。神の子にふさわしくない存在だからです。そういう私たちが、根本的に変えられなければならない。御心にかなう人へと。そのためには私たちは自分の力で変えることができません。それで聖霊の助けが必要となります。それでイエスさまは、私たちを内側から変えて行くために、聖霊を送られるのです。
 しかし、なぜイエスさまが天に昇らないと聖霊は来られないのでしょうか?
 そこで、復活されたイエスさまが天にお帰りにならず、この地上に居続けたことを想像してみましょう。そうするとどういうことになるか。イエスさまがよみがえったことが多くの人々に知れることになります。そしてイエスさまのなさる病の癒やしや奇跡を求めて、多くの人々が再び集まり始めます。そしてそれはユダヤという地域を越えて、やがて世界中から人々がイエスさまに会うために押し寄せてくるようになるでしょう。イエスさまはスーパースターであり、文字通りの神の子として崇められるでしょう。そして復活の体は死にませんから、2千年たった今でも生きておられることになり、その一挙手一投足がテレビやインターネットで中継されるでしょう。
 さて、このようになったとき、おもに二つの問題が生じています。一つは、場所と時間が限られるということです。つまり、たとえば今イエスさまがブラジルにいたとしたら、この逗子にはおられないことになります。イエスさまに会うためには、そこまでいかなくてはなりません。いつでもお会いできるというわけにはいかなくなります。しかし聖霊は、霊ですから、同時にどこにでも存在します。ブラジルやドイツの誰かのところにも、逗子にいるこの私たちひとりひとりのところにもです。
 もう一つは、聖霊なる神によらなければ人間は変わらないということです。罪人である私たち人間は変わらない。相変わらず、愛のない罪人のままです。いくら努力しても、人間の努力では神の御心にかなうように変えられるものではありません。私たちが変えられるには、神の力によって私たちの内側から変えられなければなりません。そしてそれがおできになるのは、唯一聖霊なる神さまであるということです。
 体を伴ったイエスさまは、私たちの内側に入ってくることはできません。聖霊でなくてはならないのです。しかし体を伴ったイエスさまがこの地上におられる限り、私たち人間は、目に見えるイエス様という方を追い求めて、目に見えないものに心を留めることが難しいでしょう。イエスさまが天に帰られ、わたしたちの目から見えなくなられたからこそ、聖霊を求めるようになるのです。
 
   いつでも共におられるキリスト
 
 イエスさまが天に昇られ、神の右の座に着かれ、イエスさまを信じる者に聖霊を送って下さる。そのとき、マタイによる福音書の一番最後に書かれている、復活のイエスさまの約束が果たされることになります。すなわち、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
 イエスさまが天に行かれたことによって、イエスさまはいつでも私たちと共にいて下さる存在となられました。それゆえ、この一週間も主と共に歩むことができます。朝起きて、憂鬱だと思える日も、イエスさまと共に生きることができると思うと、イエスさまが何をして下さるかなと楽しみをもって始めることができます。仕事で緊張する人と会わなくてはならないというときも、「イエスさま、一緒に行ってください」とイエスさまにすがりながら行くことができます。体に痛いところがあっても、イエスさまに助けを求めることができます。またわたしを救うために十字架にかかられたイエスさまの痛みを、共にする思いが与えられます。
 この一週間も、そのようにして主と共に歩むことができます。


[説教の見出しページに戻る]