2022年9月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書60章1〜2
    ロ−マの信徒への手紙4章23〜25
●説教 「復活は誰のため」使徒信条講解(13)

 
   敬老祝福
 
 本日は、明日の敬老の日を覚えて、礼拝のあとに敬老祝福の時を持ちます。コロナ禍のために愛餐会は行うことができませんが、ご高齢の方々ヘの主の祝福を求めて祈りたいと思います。
 現代は核家族化が進んで久しく、何世代もが一つの家に同居するということは珍しいこととなりました。また時代はさらに進んで、集まってなにかをするということが本当に少なくなりました。また、テレビの音楽番組を見ましても、昔は若い人の聴く音楽も中高年の聴く音楽も重なっていて、同じ番組でやっていたのが、今は完全に世代によって分かれていますね。
 そのようにすべてが細分化され、また世代を超えて自発的に一緒に集まるということが少なくなった現代において、教会という場所は、本当にめずらしい、貴重な集まりだと思います。またここで歌われる音楽、すなわち讃美歌やワーシップソングは、子供が歌っても若い人が歌っても、中高年の人が歌っても全然違和感がありません。それどころか、心を込めて歌うと本当に感動がこみ上げてきます。
 そういうことを思いますと、本当に主を礼拝するということは、私たちあらゆる人間に神が与えてくださっている目的なのだなということがわかります。ここに天国、神の国が投影されている。そしてここに主は、あらゆる人を招いておられる。そんなことを思います。
 
   復活
 
 本日扱う使徒信条の言葉は、「3日目に死人のうちよりよみがえり」です。十字架にかかられて死なれたイエス・キリストが、葬られて陰府にくだられ、死んでから3日目によみがえられたという、そのよみがえりについてです。よみがえり、これをキリスト教会では復活と呼んでいます。復活というのは、人間の肉体が死んでも霊は生き続けるということにとどまりません。体がよみがえることを指します。
 私が石川県の輪島にいた時の話ですが、港の防波堤に子供を連れて釣りに行きました。そうすると防波堤の上には、釣り人が捨てたフグの死骸がいくつも転がっているんです。フグといっても小さい、食べてもおいしくないフグで、釣っても意味がないから釣り人が防波堤の上に放り投げるんですね。すると当時は保育所の年長さんぐらいだったと思うんですが、娘がそれを集めて、私が釣った魚を入れるために持っていったバケツの中に入れようとするんです。それで私が、「もう死んでいるんだからやめなさい」と言っても、「だってかわいそうやもん」と言って集めるのをやめないんです。結局バケツには入れなかったけれども、家に持って帰ったようでした。翌朝私が庭に出てみると、水を入れた小さな水槽の中に、フグの死骸がたくさん浮いていました。娘が浮かべたのに違いありません。何を考えているんだろう、と思いましたが、死んだフグが目を開けて並んで浮いているのを見るとなんだか本当に生き返りそうな気もした。幼い娘は、フグが生き返ると思ったのでしょう。
 しかし現実は甘いものではありません。私たちは愛する人が亡くなったとき、生き返ることを願う。しかし生き返ってくれません。そして火葬されたあと、墓の中に葬られます。それは、死というものがどうすることもできない絶対の壁であることを突きつけられます。
 しかし聖書は、死んで墓に葬られたイエスさまが、3日目によみがえられたと告げています。人の子として死なれたイエスさまがよみがえられた。そんなことはあり得ないと多くの人は思う。しかし使徒信条は、それを書いています。そして聖書は、それを中心に据えています。
 
   よみがえりの証拠
 
 それで、本当にイエスさまはよみがえったのか?復活はねつ造ではないのか?復活の証拠はどこにあるのか?‥‥などと思う人がほとんどでしょう。
 しかし復活の客観的証拠というものはあります。まず、復活を証言した人たちは、12使徒をはじめとした弟子たちであり、墓場で復活を目撃した婦人たちです。特に12使徒。これは復活の証人であることを自他共に認める人たちです。しかしその12使徒は、どうだったか? 「あなたのためなら命も捨てます」と宣言したペトロをはじめ、みなイエスさまのもっともおそばに置いていただき、イエスさまにどこまでも従って行くと口にした人たちです。
 しかしイエスさまが捕らえられた時、皆イエスさまを見捨てて逃げて行きました。ペトロもイエスさまのことを知らないと3度も言って、イエスさまを見捨てました。皆イエスさまを裏切ったのです。そしてイエスさまが十字架にかけられて死なれたとき、みな怖くて家に閉じこもっていました。ですから、もしイエスさまがよみがえられなかったとしたら、そのまま終わっていたのです。弟子たちのグループは解散し、そのあともユダヤ人指導者たちの追求の手が自分たちに及ぶのではないかと恐れて逃げていたことでしょう。もはや弟子たちは、表に出て来ることは二度となかったことでしょう。
 その弱くみっともない弟子たちが、イエスさまの復活のあと、堂々と表に出て、絶えず神殿の境内にいて神をほめたたえていたと、ルカによる福音書の一番最後の所に書かれています。そしてその弟子たちが、ペンテコステの日には聖霊が与えられて、大胆に群衆の前に立って説教をしました。人々に対して、悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさいと力強く語りました。
 この違い、この変わりようは、イエスさまの復活があったからとしかいいようがありません。そして教会はそのときから始まったわけですから、教会が建っていることこそがイエス・キリストの復活の証拠だと言えます。
 使徒たちは、自分たちは復活の証人だと言っています。例えば以下の聖句です。
(使徒 1:21〜22)「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
 また後に使徒となったパウロはどうでしょうか。使徒パウロは、キリスト教会を迫害していた人です。そのパウロが、どうして反対にキリストの伝道者となったのか? それは復活のキリストが彼を招くために現れたからです。パウロに現れられたときは、イエスさまは天に昇られたあとですが、それはイエスさまが復活しなければありえないことになります。もしイエス・キリストが復活しなかったとしたら、パウロはもとのままだということになります。
 そのように、客観的な証拠からも、キリスト・イエスさまは、よみがえられたということが分かります。
 
   復活の重要性
 
 そして復活は、私たちの信仰の中心にあります。次のように書かれています。
(1コリント15:14)「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
 つまり、復活がないのなら、キリスト教はまったく意味がない、無駄であるということになります。それというのも、復活というのは、単に生き返ったということではないからです。単に生き返ったというのなら、聖書にはイエスさまのよみがえりの他にも書かれています。たとえば、ルカによる福音書の7章に書かれているナインという町のやもめの息子がイエスさまによって生き返った出来事や、ヨハネによる福音書11章のラザロがイエスさまによって生き返らせられた出来事などです。
 しかしそれとイエスさまの復活との違うところは、彼らはやがてまた死んだのに対して、イエスさまの復活は、復活のあと天の神のもとに昇られ、永遠に生きておられるところにあります。すなわち、復活は永遠の命とつながっているということです。言い換えれば、イエス・キリストの復活は死を滅ぼしたということです。たとえば次のような聖句があります。
(Tコリント 15:55)「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 私たちの人生の最後に立ち塞がる「死」という絶対の壁。死が勝利者として君臨している。しかしその死が、キリストの復活によって、滅ぼされたということです。
 
   キリストの復活の恵みにあずかる
 
 しかもこのキリストの復活は、ひとりキリストの復活にはとどまらないと聖書は記しています。ただイエスさまおひとりがよみがえられたというのなら、それはすばらしいことではありますが、他人事です。私たちには関係ないことになる。
 しかしここで、イエス・キリストが十字架にかかられたのは、なんのためであったかを思い出したいのです。それは私たちの罪を担うためでありました。私たちの罪を代わりに担って、十字架で死なれたイエスさまが、よみがえられたということ。聖書によれば、死は罪の結果です。命の源である神から、私たちが離れてしまったのが罪で、その罪の結果が死です。そして聖書には次のように書かれています。
(ローマ6:23)「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
 罪の支払う報酬は死であるといいます。私たちは、罪というものが、そんなにも大きな問題であるのかということを知らされる思いがいたします。そしてその私たちの罪を担うために、十字架にかかって死んで下さったキリスト・イエスさまを見るとき、私たち自身が罪人であったのだということを知ります。そしてその私たちの罪は、神の子イエスさまが、十字架にかかって死なれなければならないほどの大きなことなのだということを知らされます。
 そしてそのイエスさまがよみがえられた、復活されたということが、それは私たちの復活をもたらすものであり、すなわち永遠の命が与えられるということなのだと聖書は語っているのです。
 イエスさまご自身が次のように語っておられます。
(ヨハネ 6:40)「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
 このように、イエス・キリストの復活は、イエス・キリストを信じる者の復活のためであると言われています。
 そこで本日の聖書箇所に戻ります。
(ローマ4:24〜25)「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
 罪人である私たちの罪が赦され、義とされるためにイエスさまは復活させられた。そのイエス・キリストの恵みにあずかるためには、イエス・キリストを信じることだと述べられています。信じればいいのです。信じればキリストとつながることができるというのです。信じるのです。
 以前、イスラエルへ行きましたとき、それはイスラエルとパレスチナ人との間の紛争が終わったばかりの頃でした。それで聖地旅行のツアーはまだ再開されておらず、私たちはスイス人の宣教師の先生が個人でインターネットによって組んだ計画で現地に行きました。イスラエルでは、日本人のガイドさんを雇いました。ふだんは世界各国のクリスチャンの巡礼者で混雑しているはずのイスラエルも、紛争直後ですから、どこに行ってもすいていました。そしてガイドさんが、ベツレヘムに行きましょうと言いました。ベツレヘムはパレスチナ自治区側の町ですから、紛争直後のそのときに行けるとは思いませんでした。しかしガイドさんが「大丈夫だ」と言うのです。それでその言葉を信じることにしました。ベツレヘムとの間の、兵士が銃を構えて立っている検問所も、ガイドさんの顔パスで通ることができました。その検問所をとおる途中、猫の死体が傍らに転がっていました。私は、「自分たちもこのようになるんじゃないか」とちょっと不安を覚えました。そしてベツレヘムの聖誕教会、イエスさまがお生まれになった場所に建っている教会に行きました。観光客は、私たちの他に誰もいませんでした。そして検問所に戻っていく途中に、現地の少年たちが、ものを買ってくれと言ってまとわりついてきました。しかしここにはイスラエルの警察官も兵士もいません。襲われたらどうしよう、と思いましたが、ガイドさんを信じるしかありませんので着いていくと、無事検問所まで戻ることができました。ガイドさんを信じて着いていったのです。信じる。もちろんこの場合、ガイドさんの背後にイエスさまがおられることを信じたわけですが。
 私たちは、まだ死んだこともないし、陰府に行ったこともありません。復活をしたわけでもありません。いったいどういうことになるかと不安に思うわけです。しかしここに、イエスさまがおられる。私たちの罪を担って十字架で死なれ、陰府にまで行かれ、そしてそのイエスさまを神が復活させられた。それは私たちに復活と永遠の命を与えるためであるという。その愛を信じるのです。
 そして信じるとは、ついて行くことです。ついて来るようにイエスさまが招いておられる。死とよみがえりを経たイエスさまが、招いておられるのです。


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