2022年9月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記19章25〜27
    ペトロの手紙一3章18〜21
●説教 「陰府のキリスト」使徒信条講解(12)                

 
   死んだらどうなる?
 
 人は死んだらどうなるのか? 昔、丹波哲郎の「大霊界・死んだらどうなる」という映画がヒットしましたが、人は死んだらどうなるのかというのは、人間の最大の関心事の一つであると言えるでしょう。死んだらどうなるのかは、死んでみないと分かりません。中には「臨死体験」をして生き返ったという人がいますが、しかし臨死体験というのが本当に確実に死んで、そこから生き返ったのかということは、曖昧なところが残るように思います。
 「キリスト教ではどう考えているのか?」という質問を、みなさんも他の人から受けたことがあるのではないでしょうか。キリスト教ではと言うよりも、聖書では何と言っているのか?
 まず、イエス・キリストを信じていれば天国の神さまのところに行くということは、間違いなく聖書が語っていることです。ルカによる福音書23章の、イエスさまの十字架の場面では、イエスさまのとなりの十字架にかかっていた死刑囚が、自らが罪人であることを認め、イエスさまにあわれみを請うたのに対して、十字架のイエスさまが「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。強盗が十字架につけられ、最後の最後にイエスさまを信じたとき、イエスさまから救いを宣言されているのですから、どんな罪人であっても悔い改めてイエスさまを信じるのであるならば、天国に受け入れられるということです。
 さてそうすると、次は、「ではイエスさまを信じなかった人はどうなるの?」という質問が続くことでしょう。イエスさまを信じれば天国に行く。ではイエスさまを信じなかったらどうなるのか? このことについて聖書は何と言っているのか?
 たとえばマルコによる福音書の一番最後のところ、それは復活されたイエスさまが弟子たちにおっしゃった「大宣教命令」と呼ばれるところですが、イエスさまがこうおっしゃっています。
(マルコ 16:15〜16)"それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。"
 そうすると、「キリストを信じないで死んだ人は地獄に行くのか?」と聞かれることになります。そうすると今度は、たとえばローマの信徒への手紙10章6〜11節にはこのように書かれています。
 "しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。"
 「誰が底なしの淵にくだるかと言ってもならない」、すなわち誰が滅んで地獄に行くと言ってもならない、裁いてはならないと言われています。しかし逆に、イエスさまを信じて口で告白するなら、救われると言うことははっきりと書かれています。すなわち、イエスさまを信じれば救われる、しかし「あの人は地獄に行く」というようなことを言ってはならないと書かれている。それは神さまのお決めになることですから、人間がどうのこうの言うことはできない。分からない。イエスさまを信じて告白すれば救われることだけが分かっていれば十分ということになるでしょう。
 しかし、そうしますと、「では結局、イエスさまを信じることなしに死んだ人は、結局どこへ行くのか?」という問いにまた戻ることになります。そこで、本日の使徒信条の文言は、そのヒントとなるものです。
 
    死にて葬られ、陰府にくだり、3日目に死人のうちよりよみがえり
 
 もう一度イエスさまが亡くなったところから振り返ってみましょう。イエスさまは金曜日の朝十字架につけられ、午後3時頃息を引き取られたことが聖書に書かれています。そして、アリマタヤのヨセフによってイエスさまの遺体が十字架から取り下ろされ、午後6時前に墓に葬られました。そして翌日は安息日であり、皆休みました。そして安息日が明け、日曜日の朝、イエスさまがよみがえられたと聖書に書かれています。
 その、金曜日にイエスさまが亡くなってから、日曜日の朝によみがえられるまでの間、イエスさまはどうなったのか?ということが問題となります。そのことについて述べているのが、本日の使徒信条の文言です。すなわち、「死にて葬られ、陰府にくだり、3日目に死人のうちよりよみがえり」。「陰府にくだり」と書かれています。陰府に行かれたのであるというのです。もちろん、イエスさまの体は墓の中にあった。ですからここで陰府にくだったというのは、イエスさまの霊、魂のことを言っているわけです。それは陰府に行かれたのだと。
 
   陰府とは?
 
 新共同訳聖書では「陰府」という漢字を当てていますが、口語訳聖書では「黄泉」という字を使っていました。これは日本の神話、神道で使われる字です。どちらでもいいのです。つまりそれは、死んだ人の霊魂が行く場所ということです。
 この「陰府」ということについてもう少し述べますと、かつてはこの「陰府」が「地獄」と混同されていたときがありました。つまり、キリストを信じなかった人は地獄へ行くのだと考えられていたことがあったのです。しかし、キリストを信じなかった人が地獄へ行くということになりますと、キリストのことを知らないで亡くなった人は地獄に落ちるということになってしまいます。そういうことになると、キリスト教会が多く建っている国は、キリストの福音を一度も聞いたことがないという人はほとんどいないでしょうけれども、日本のような国ではキリストの教えについて一度も聞いたことがないという人もけっこういることになるでしょう。そういう人も地獄に行くということなのか?あるいは中には、とんでもない牧師がいて、その牧師につまずいてキリスト教が大嫌いになったという人もいたりする。あるいはクリスチャンにつまずいてキリスト教を毛嫌いするようになったという人もいる‥‥。
 そうすると、それはその人の責任というよりも、教会の責任、クリスチャンの責任ということにもなる。なのにキリストを信じなかったから地獄へ行くのだということになると、どうなのか。神さまは愛だと聖書に書かれているけれども、それは本当に愛の神さまなのか?ということになります。
 聖書は何と言っているのでしょうか? このことについて、かつて陰府と地獄が混同されていたことがあったと先ほど申し上げました。実は聖書では、それははっきり分けて書かれています。ギリシャ語で「ゲヘナ」と書かれている言葉が地獄に相当し、「ハデス」と書かれている言葉が陰府に相当いたします。しかし今でも欧米の聖書や使徒信条の中には、この「陰府」と訳すべきものを「地獄」と訳しているものがあったりする。それは間違いです。
 地獄と陰府は違います。地獄(ゲヘナ)は、世の終わり、最後の審判のあとに裁かれる者がいく苦しみの場所です。だからまだ地獄は存在していない。それに対して陰府(ハデス)は、死んだ人の霊が行く場所で、最後の審判までの待機所のような所です。
 そして十字架につけられて死んで葬られたキリストの霊は、陰府にくだったと使徒信条は述べているのです。
 
   何をしに?
 
 ではなんのために、何をしに、死んだキリスト・イエスさまの霊は陰府に降られたのか? そのことを書いているのが今日の聖書、ペトロの第一の手紙です。その中でこう書かれていました。‥‥「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
 この「捕らわれていた霊たちの所」というのが陰府のことです。そしてその続きに「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」
と書かれていますが、旧約聖書創世記のノアの箱舟の物語では、ノアとその家族だけが箱舟を造ってそれに乗って助かった。あとの人は皆溺れて死んでしまったと書かれています。たしかに人間が神さまにそむいて悪いことばかりしていたから仕方がないという見方もできますが、私たちも悪い罪人であったには違いないし、またそこには子どもたちもいたわけですから、かわいそうだと思う人が多い。自業自得というのにはあまりではないかという印象を受けます。
 しかしきょうのペトロの手紙を読むと、その人たちの霊は陰府に行った。そしてキリストは、そこにも行かれた、すなわち福音を宣べ伝えられたということになります。そして陰府にいるのは、ノアの洪水の時に滅んでしまった人の霊だけではありません。キリストを信じないで死んだ人、キリストを知らないで死んだ人の霊も同じことです。
 旧約聖書のサムエル記上の28章を読むと、イスラエル初代の王であったサウル王が、口寄せの女によって預言者サムエルの霊を呼び出してもらうという出来事が書かれています。口寄せというのは霊媒師のことで、死んだ人の霊を呼び出す人のことです。それは律法で禁止されていることでした。死んだ人の霊を呼び出して占ってもらうようなことをしてはならなかったのです。しかしサウル王は、神さまが答えてくれないので、口寄せを使って預言者サムエルの霊を呼び出してもらって、尋ねたんです。これはいけないことなのですが、この記録で分かることは、あの神の僕であった預言者サムエルもまた、死んで陰府に行っていたということです。
 そして、イエスさまはその陰府に行かれた。そしてよみがえられるまでの間に、その陰府で福音を宣べ伝えられた。これが使徒信条が述べていることです。
 今日読んだペテロの第一の手紙の聖書箇所の少し後のところ、4章6節にはこう書かれています。‥‥「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
 イエスさまご自身も、次のようにおっしゃっています。(ヨハネ 5:25)「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
 私たちは、キリストを信じるに至らないで亡くなった、私たちの愛する家族や友人たちのことを思います。キリストを信じること亡くなくなってしまった。もう手遅れだと思えます。しかしそうではないと、この聖書の言葉は私たちを励まし、慰めてくれます。たとえ陰府に行ったとしても、そこでキリストに出会い、その福音の言葉に耳を傾け、主を信じるようになることができる。そういう慰めであり、励ましです。
 使徒パウロもコリントの信徒への第一の手紙の中で、次のようなことを述べています。
(Tコリント 15:29)「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」
 死んだ人のために洗礼を受ける。これは、自分のために洗礼を受け、亡くなったおじいさんのために洗礼を受け、亡くなったおばあさんのために洗礼を受け、亡くなったひいおじいさんのために洗礼を受け‥‥というように何度も洗礼を受けたということではないと考えられています。洗礼は1回だけだからです。ですからこれは、自分が受ける洗礼が、自分の救いのためだけに受けるのではなく、亡くなった家族の救いも願って洗礼を受けるということだと考えられています。いずれにしても、キリストを信じないで亡くなった家族が、もう手遅れであるとすれば、死者のための洗礼などまったく無意味ということになります。しかし死者のための洗礼という言葉は、キリストを信じないで亡くなった人が、キリストを信じて救われる余地が残されているということになります。
 こうして、私たちの信仰生活は、自分だけのために信仰生活を送っているのではないということになります。私たちの信仰生活は、私たちの家族や友人、知人の救いを願って送っているのであり、さらにはそれはすでにキリストを信じないで亡くなった家族や友人の救いも願って信仰生活を送るということになります。
 たとえば、日本基督教団の暦では、11月の第一主日が「聖徒の日」で、召天者を記念する日とです。当教会では11月の第二主日にしていますが。この礼拝は、すでに天に召された信仰の兄弟姉妹と共に礼拝することであるのみならず、キリストを信じることなくなくなった家族や友人の救いのために祈るためでもあります。
 
   愛するゆえに陰府に
 
 そして、イエスさまが死んで陰府にまで行かれたのは、ひとえに滅び行く人間を救うためでありました。すなわち神の愛です。私たちが救われたのも、私たちを救うために低く下って、陰府にまで行こうというイエスさまの愛によるものです。何度も言うようですが、私はかつて神さまを裏切ったのですから、救われる資格のないものです。天国に入れていただく資格がない者です。にもかかわらず、主は、そのような私を追いかけてこられて、捕らえてくださった。罪人を救う愛、資格のない者を救う愛、そのキリストの愛、神の愛が、「死にて葬られ、陰府にくだり」という言葉に表れています。
 神の子であるキリストが、低く下って人となられたばかりか、十字架にかかって死んで墓に葬られて、陰府にまで行ってくださったのは、私たち人間が悔い改めて神を信じるようになるためであった。それは逆に言えば、神を信じるということが、それほどまでに尊いことだということです。このことを私たちは心に留めなければなりません。ですから、私たちの教会も、まだ神とキリストを知らない方々のために、福音を宣べ伝え、救いを祈るものであり続けたい。あらためてそのように思います。


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