2022年9月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記3章19
    ヘブライ人への手紙2章9
●説教 「葬られたキリスト」使徒信条講解(11)

 
   死について
 
 本日は、使徒信条でイエス・キリストについて述べている項目の中の「死にて葬られ」という文言から、恵みを分かち合いたいと思います。
 話しは変わりますが、私は先月65歳になりました。65歳からは高齢者となるのだそうです。先月の誕生日の少し前に「介護保険被保険者証」というものが届きまして、それを見まして自分が高齢者になったのだということを実感いたしました。
 そこで興味を持ちまして、65歳で亡くなったクリスチャンの有名人にどんな人がいるかなと思って調べてみました。すると、津田梅子の名前がありました。津田梅子さんは再来年から新しくなる5千円札の顔となる人ですが、日本の女子教育の先駆者となった人であり、現在の津田塾大学を創立した人として有名です。また、ヨハン・セバスチャン・バッハも65歳で亡くなっています。バッハはご承知の通りバロック音楽の中心的な作曲家であり、教会音楽の大家です。それから、戦国時代に日本にやってきたイエズス会の宣教師のルイス・フロイス。彼は日本でキリスト教の伝道に励んだだけではなく、『日本史』という書物を書き記しました。それが後に日本の戦国時代の様子を知る貴重な資料となっています。
 さて、津田梅子は闘病中の53歳の時、日記にこのようなことを書いています。「自分のことにクヨクヨすることはない。永遠の事業の中で、私や私のしたことなど取るに足らぬものだということを知らねばならない。新しい芽のためには、一粒の種は砕けなければならない。私が死んでも、塾が育てた人々は次々と種子を蒔いてくれるだろう。」‥‥これは、イエスさまの語られたヨハネ福音書12:24の言葉、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という言葉が思い出される記述です。
 
   本日の使徒信条
 
 使徒信条の「死にて葬られ」という文言ですが、死んで葬られるところで人の一生は終わるわけです。そこでもう一度、使徒信条の中のイエス・キリストの項目の、イエスさまの一生について述べているくだりを振り返ってみますと、「我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、‥‥」となっています。もちろんこのあとに復活が続くわけですが、人の一生ということで言えば、生まれてから死ぬまでということになります。そうすると、イエスさまがマリア様から生まれ、そして十字架につけられて死んだという、たったそれだけのことにまとめられていることを、あらためて感慨深く思わざるをえません。
 私たちの人生も、突き詰めていけば、生まれてそして死んだというそれだけのことになります。生まれてから死ぬまでの間にいろいろあるに決まっている。楽しいことがあり苦しいことがあり、山あり谷ありの人生がある。さまざまなできごとがある。しかし「死」という事実は、それらのことをすべて過去に押しやるばかりか、人々の記憶と共に消えさっていかせます。そして最後は、墓に刻まれた名前と、生まれた日と死んだ日だけが残るということになります。すなわち人は、生まれて死ぬものだという事実です。
 使徒信条のイエスさまについてのくだりを見まして、なにかそういう私たちのはかない人生と重なるところがあるように思います。問題は、そのイエスさまが、たしかに人の子として生きられたのですが、同時に神の子であるということです。神の子であるというとき、それが三位一体の神であるということです。その神の子であるイエスさまが、私たちと全く同じになられたことを見る。私たちが生まれて死ぬように、イエスさまもまた生まれて死なれたのだというメッセージが、この使徒信条の文言から聞こえてきます。
 
   葬られた
 
 「死にて葬られ」という。イエスさまが死なれたということを表すならば「死なれ」ということだけでも良いように思います。とくに、使徒信条は前にも申し上げましたように、全聖書のメッセージをこの極めて短い文章にまとめたようなものですから、極力といいますか全力で周辺のものをそぎ落として芯の部分だけにしているわけです。ですから、「葬られ」という言葉は余分なことのように思われます。死んだら葬られることにだいたい決まっているわけですし、使徒信条の文脈から言えば、イエスさまが生まれて十字架にかけられて死んだという、それだけ書けば十分ではないかと思われる。
 ところが使徒信条は、ここに「死にて葬られ」という。「葬られ」ということをわざわざ付け加えているわけです。これはいったいどういうことか。やはりそこに何か強調したいことがあるに違いないのです。
 それには、キリスト教会の初期の時代に、キリストは人間の姿を取ったように見えただけだと主張する人々がいたことと関係があると言われています。そのような主張を「仮現論」と言います。神であり神の子であるキリストが、穢れた人間の肉体を持つはずがないと考えるのです。つまり完全に人間の体になられたのではないという。そのように考えますから、ましてやキリストであるイエスが本当に死ぬはずがない。十字架にはりつけにされて死んだイエスは仮の姿であって、幻のようなものだと主張する説です。
 そうなりますと、イエスさまは、私たち人間と全く同じになられたのではないことになります。私たちの苦しみや痛み、そしてなぜ罪を犯すかということも完全には理解できないことになってしまいます。すなわちそれは、私たちの罪と重荷をになわれるということができなくなる。十字架ということが、イエスさまの単なるパフォーマンスのようになってしまいます。
 そのような言説に対して、使徒信条ははっきりとキリストであるイエスさまが確かに死なれたということを書き記した。それは同時にイエスさまがたしかに人間としてこられたということを強調しています。それが「葬られ」という言葉であると考えられています。
 葬りというのは、まぎれもなく死をリアルに実感するできごとです。私は葬儀の呼び方について、昔ながらの「葬式」という言葉を使っています。これは日本基督教団の式文がそうなっているからです。つまり、それは葬りのための式であるということです。
 人が亡くなって、その体は葬儀の時までは、まだ眠っているように見えます。なにか体を揺り動かして呼びかけたら目を覚ますのではないかと思えるような印象です。ですから、葬式が終わって遺体が火葬場に運ばれ、火葬前式を終えて棺が釜の中に入れられるときには、何かいたたまれないような気分になります。中には、泣き出して声を上げるご遺族もおられます。そのように、死んだ人が火葬されるまでは、何か眠っているのではないかと思われるのが、葬りの時には死というものがリアルなものとして迫ってまいります。
 イエスさまの場合は、その時代のユダヤの習慣通り、火葬ではなく、決められた処置をした上で死体を布で巻いて墓の中に葬られました。福音書によれば、アリマタヤのヨセフとニコデモらの手によって墓の中に葬られ、婦人の弟子たちが見守っていました。
 墓もまた、死というものがどうにもならないものであることを私たちに突きつける場所です。亡くなった家族がなつかしくて、語りかけたくなる。しかし泣いても叫んでも答はもはやありません。時間を戻すこともできない。ただ故人の姿を思い出と共に思い浮かべ、手を合わせるしかありません。
 しかし、私たちキリスト信徒が、墓の前で神さまに祈りをささげるとき、そこにすでに亡くなった者が、生きてその祈りに加わっているように思えるときがある。それはどうしてでしょうか?‥‥それこそが、神の子でありキリストであるイエスさまが、完全に人として生きられ、私たちと同じようになられ、私たちの罪を担って十字架で死なれ、墓に葬られるまで私たちと同じになられたということがあるからに他なりません。
 すなわち、イエスさまの死と葬りは、私たちを救うための死と葬りであったということです。そしてそのイエスさまを、父なる神はよみがえらせた。復活させられました。
 ローマの信徒への手紙6章4〜5節にこう書かれています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
 イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということは、キリストの死と復活にあずかることであるのだと述べられています。
 
   死は罰、そこからの救い
 
 そもそも、人はなぜ死ぬのでしょうか? 聖書は、神が人間を作られたと書いています。その神が造られた人間がなぜ死ぬのか?
 そのことについて、今日最初に読んだ創世記第3章がエデンの園での出来事を通して教えています。それは悪魔の誘いに乗せられて、神に背いたからです。神を信じられなくなってしまった。罪です。その罪のゆえに、人間に死が入り込んだことを描いています。神は永遠の命です。その命である神から離れてしまったので、命を失ったのです。
 今日読んだ創世記3章19節は、そのように罪を犯した人間に対して語られた神の宣告が書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
 土に返る、塵に返る。私の最初の任地でありました奥能登の町では、葬るときに骨壺というものがありませんでした。骨は木箱に入れ、納骨の時には墓の中にそのまま骨をザッと開けるのです。ですから文字通り、人は土に返り塵に返ります。もちろん、こちらのお墓のように、骨壺に入れられた骨も、時間の差はあれいずれ土に返ります。それはイエスさまの時代のイエスさまの国の墓も同じです。
 先ほど、ローマの信徒への手紙6章4〜5節を引用しましたときに、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と書かれていました。これを読んだときに、私たちがキリストと共に死んで葬られたと思ってしまいますが、むしろここは、キリストが私たちと共に死んで下さった、そして私たちと共に葬られて下さったと読むべきだと思います。そのことを信じる。
 そうしたときに、なぜ神の子であるキリストが、十字架にかかって死なれたのかということがはっきり見えてまいります。それは、死んで陰府の底まで落ちていかんとする私たちを捕らえ、共に復活の命にあずからせるためであるということです。
 
   死の果てまで共に歩まれる方
 
 新約聖書のヘブライ人への手紙2章9節も読んでいただきました。こう書かれていました。‥‥「ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低いものとされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」
 天使たちよりも高くにある方、神の子であるキリスト・イエスさまが、低く下られて私たちと同じ人間になられた。そして死という苦しみを体験された。そのイエスさまを父なる神は引き上げて、栄光と栄誉の冠を授けられた。そのように語っています。それが復活です。そしてその死はすべての人を救うための死であった。それが私を救うためでもあったと信じるとき、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえるということが起きるということです。
 私は驚きを禁じ得ません。この私のような、小さな存在、宇宙全体から見たら全く無視してかまわない存在、そして神に背き、神を信じず、罪を重ねてきた存在。そのような私のために、神の子が人として来られ、十字架で罪を担ってくださり、死んで葬られるところまでとことん共に歩んでくださり、復活の命を与え、神の国へ導いて下さる。全く救われる値打ちもないこの私のためにという。ほとんど信じられないことが起きている。それがイエスさまであるというのです。感謝と言うほかありません。


[説教の見出しページに戻る]