2022年8月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章5
    コロサイの信徒への手紙1章17〜22
●説教 「愛の結晶」使徒信条講解(10)

 
   十字架につけられ
 
 使徒信条を順に学んでいますが、本日はイエスさまの項目のうちの、「十字架につけられ」の所を扱います。
 前回も申し上げましたように、使徒信条ではイエスさまのご生涯について、「乙女マリアより生まれ」とイエスさまの誕生について述べたあと、いきなり十字架の受難に飛んでいます。すなわち、神の御子であるイエスさまが、人の子としてこの世にお生まれになったのは、十字架にかかられるためであったという、その目的を述べているのです。
 三浦綾子さんの小説に、『千利休とその妻たち』という本がありますが、それによると、千利休の妻おりきは、ある日、宣教師であるルイス・フロイスの辻説法を聞いて、キリシタンの教えに心をひかれました。フロイスが語った「死んだ者がよみがえる」という話に感じるものがあったのです。そしてある日、思い切ってキリシタンの会堂を訪れます。会堂に一足入って、おりきの目をひいたのは、幼子キリストを抱いたマリヤの像でした。「まあ!」と、おりきは思わず声を上げました。‥‥”マリヤに抱かれた幼子の愛らしさに、おりきは涙のこぼれる思いであった。そのふくよかな頬、小さな手と足、それが生きているかのように、造られている。(この幼子は、一体誰であろう)思いながら、おりきは息をつめて見つめた。そしてようやく、この幼子を抱く女の顔を見た。「なんと、美しい‥‥清らかな‥‥」おりきは目を見張った。その女の表情は、不思議におりきの心を安らがせた。「この方が、あの方でござります」信者でもあろうか、三十を過ぎた町家の女が近寄ってきて言った。「あの方?」女の指さす会堂の正面に、もう一つの像があった。それは」十字架にかかったキリストの像であった。「まあ!この幼子が、あのようなむごい最期を遂げたのでござりますか」驚くおりきに、女はつつましくうなずいて、「さようでござります。あの方は、わたしたちの罪を負われて、十字架にかかられたのでございます。罪もないお方が、わたしたちの罪を負ってくださりましたので、信ずる者はもはや罪のない者として、天主(デウス)に受け入れられるのでござります」と言った。”
 そしてやがておりきはキリシタンとなります。そしてそれが、利休の茶の湯に影響を与えたと言われます。
 
   コロサイ書
 
 ただ今ご紹介したことで、すでに十字架の意味を語ってしまいました。というよりも、キリストの十字架については、常に説教の中で触れていますので、今さら申し上げることもないのかもしれません。しかしそれでは終わってしまいますので、本日はコロサイの信徒への手紙の中から恵みを分かち合いたいと思います。
 コロサイ書については、私は思い出があります。今から約30年前、能登の輪島教会におりましたときのことですが、いろいろな失望させるようなことがありまして、自分の無力さを思い知ったことがありました。とても日曜日の礼拝で説教することができないように思いました。しかし日曜日は確実にやってきます。それで意気消沈しながらも、主の日の礼拝の準備をしていました。ちょうどコロサイ書の連続講解説教を始めて間もない時でした。私は自分の無力さをつくづく思い知らされ、追い詰められたような気持ちになりました。そのようなとき、私は主の慰めの声を聞いたのです。そして今までに経験したことのないような平安で満たされました。それからさまざまな驚くべきことが起こっていきました。それで私は、それまで自分が、神とイエス・キリストという方を完全に低く評価していたことを知りました。そしてキリストが本当になんでもおできになる方であることを知ったのです。
 そういう経験を思い出します。もちろん、コロサイ書自体に何か特別な力があるというのではありません。コロサイ書がきっかけとなって、イエス・キリストという存在が、わたしたちの想像を超えていることを知ったのです。そしてそのキリストが、今生きておられる方であることを知ったのです。
 
   キリストによって存在している
 
 さて、最初の1章17節ですが、「すべてのものは御子によって支えられています」と書かれています。御子とはイエスさまのことです。「支えられています」という言葉を、前の口語訳聖書は「成り立っている」と日本語に訳していました。すでにこの宇宙とその中のすべてのものは、全能なる神と御子イエス・キリストによって造られたということを学びました。この17節のみことばは、キリストがいなければ、私たちは存在していないということになります。キリストがいなければ、わたしたちは生きていないのです。そのように、わたしたちのみならず、この世界はキリストによって成り立ち、支えられていると言います。
 そして御子キリストは、「その体である教会のかしら」であると述べます。教会はキリストの体と言います。その頭がキリストであると言います。しかしキリストが教会のかしらであるというとき、それはキリストが何かこの世にある教会という小さな集団のリーダーであるということにとどまりません。もしそうだとすると、教会の外の人々にとっては、キリストは何の関係もないことになってしまいます。キリストが教会のかしらであると言うとき、そこには世界全体が教会になることが想定されています。
 それでキリストは、初めの者であり、死者の中から最初に生まれた方、すなわち復活された方であり、「すべてのことにおいて第一の者となられた」ということになります。これは世界が教会になることを前提にしています。世界が教会になるということは、世界のすべての人がキリストを信じて、神を礼拝するようになるということです。それでこそ、キリストが「すべてのことにおいて第一の者となられた」ということが実現します。
 キリストがかしらであり、第一の者となられたというとき、それは恐怖と暴力的な支配によって人間を屈服させて、かしらとなり、第一の者となったというのではありません。キリストが教会のかしらとなられ、またすべてのことにおいて第一の者となられたのは、キリストが、わたしたちのことを愛してくださり、命を捨ててくださったゆえです。それが十字架です。わたしたちを救うために十字架で命を献げてくださったゆえに、キリストが第一の者となられ、教会のかしらとなられたのです
 
   和解
 
 19〜20節をもう一度見てみましょう。「神は御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」
 ここに「和解」という言葉が出てきます。神は、御子の十字架の血(命)によって、すべての者と和解させられたと言います。
 和解と言いますと、法律用語では、当事者がお互いに譲歩して争いをやめることです。たとえば、AさんがBさんから被害を受けたと言って、損害賠償を求めてBさんを訴えたとします。AさんはBさんに全面的に責任があるという。いっぽうBさんは、Aさんにも責任の一端があると主張する。‥‥こうした裁判では、裁判所が途中で和解案を提示するということがあります。その場合裁判官は、Aさんの求める損害賠償額を少し減らして、Bさんが支払うことのできる額にする。そのようにして、AさんBさん共に歩み寄って、解決を目指すのが和解です。
 さて、このことを今日の聖書、すなわちキリストによって神と人間が和解したということに当てはめるとどうなるのか?
 神さまと人間と、悪いのはどちらでしょうか?‥‥もちろん人間です。人間が神さまにそむいて、罪を犯したからです。
 中には、神さまが人間を造ったのだから、神さまにも責任があると言う人もいます。しかしそれは、自分を生んだのは親だから、親にも責任があるという言い方と同じです。生んだ責任があるという。だったら生まれなかったほうが良かったということになってしまいます。しかし神さまは、人間を創造されたとき、すでに見てきたように、大切にお作りになり、大切に鼻から命の息を吹き込まれました。人間を神の性質に似せてお造りになりました。そして生きるために必要なものを備えてくださいました。そして何をすべきかを教えてこられました。なのにその人間が自ら神に背いてしまったのです。
 「罪の支払う報酬は死です」と聖書に書かれています(ローマ6:23)。実際、エデンの園で罪を犯して以来、人間に死が入り込みました。以来、死ななかった人間は一人もいません。この人間を救うにはどうしたら良いのか。いわば自業自得の人間を救うには。
 和解という言葉に戻りますが、和解は先ほど申し上げたように、当事者双方がそれぞれ譲歩して解決をするものです。それぞれが歩み寄るのですから、それぞれ100%満足の結果にはならない。しかし仕方なく妥協するわけです。
 では神が御子キリストによって和解させられたというのはどういうことになるのか?‥‥これはもうキリストが100%責めを負うということです。人間とキリストが、お互いに譲歩してというレベルではありません。100%キリストが責めを負われた。言い換えれば、神の罰を受けるべき人間の罪を100%負って下さったということです。そしてそれは神がそのようになさったという。神がひとり子イエス・キリストに、全部の責めを負わせられたのです。それが十字架です。
 ですからこれは「和解」と言っても、ふつうの和解ではありません。神からの一方的な和解の提案です。そのために神の御子が犠牲になっている。私たち人間には、このキリストによる和解を信じなさいと言われる。信じるだけです。なにか償いをせよとおっしゃるのではない。支払いなさいと言われるのでもない。ただこのキリストの十字架による和解を信じなさいと。それだけです。
 神が私たちを罰する代わりに、我が子を罰した。それが和解と言われている。私たち人間の想像を絶することです。そこには、罪を犯したにもかかわらず救おうとされる神の愛しか見えません。そして御子キリストが十字架で命を献げられた。それゆえ、十字架のキリストは神の愛の結晶した姿であると言えるのです。
 こうして、天地万物を父なる神と共に創造なさったキリストが、なぜ人の子として来られたのかということが見えてきます。キリストが人間の体を取ることによって、人間の罪を負うことができたのです。
 
   神の愛
 
 「すべてのものは御子によって支えられています」と書かれていました(17節)。したがって、すべての人がこのキリストに見られる神の愛を受け取ることができます。神の御子が、十字架で命を投げ打たれた。それがこの私を救うためであったと悟ったとき、神さまに対するすべての疑問が消えていきます。
 私たちは、しばしば神の愛を疑います。「神はなぜわたしの苦しみを放っておかれるのだろうか?」「祈りを聞いてくださっているのだろうか?」「なぜ試練が臨むのだろうか?」「何か私が悪いことをしたからだろうか?」‥‥
 しかしそうではないという言葉が、十字架から聞こえてくるかのようです。「あなたの罪は私が負った」とキリストは言われます。「あなたの罪は赦された」と宣言してくださいます。神の愛が、すべての疑問を包み込んでいきます。そのキリストを信じた時、キリストの中で生きることを見いだします。


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