2022年8月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教/準備
●聖書 イザヤ書53章6〜7
    ヨハネによる福音書19章1〜6
●説教 「人間の限界と希望」使徒信条講解(9)

 
   平和聖日
 
 本日は日本キリスト教団の暦で「平和聖日」です。77年前の昨日、広島に原爆が投下され、多くの人が死にました。また77年前の8月15日、日本の敗戦によって第二次世界大戦が終結しました。人間の歴史上、最も多くの人が命を落とした戦争でした。その終戦から3年後の8月15日に、逗子教会が創立されました。
 そして今日、戦争は過去のものではないことがはっきりしています。そして次の世界大戦は、勝者も敗者もない、人類存亡の危機に直面する核戦争となるでしょう。人間は進歩しないのです。その根底にある罪の問題は、人間の力によっては解決しないのです。
 当教会報「ぶどうの木」では、戦争経験世代の方々に、戦争の経験とキリストとの出会いについて順番に書いていただいています。それらを読んで、たいへん厳しい時代があったのだということを、あらためて痛感させられます。そして、「こういう時代がまた来る」のではなく、「こういう時代があった」という過去形で終わらせたいものだと思います。それには、私たち自身が主の御心にかなうよう変えていただく。それが最も遠いようで、確実な道であると思います。
 
   ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
 
 使徒信条の学び。本日は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」について、恵みを分かち合いたいと思います。
 前にも申し上げましたように、使徒信条では、イエスさま誕生のことを記したあとは、いきなり受難のことへと飛んでいます。その間になさった奇跡や教えのことは書いていない。つまりこれは、イエス・キリストのなさったことを突き詰めていえば、十字架の受難なのだということになるかと思います。受難に至るまでに多くのことをなさいましたが、「奇跡を行われ」とは書いていません。
 人の子として生まれた三位一体の一なる神の子が、十字架に至る受難において明らかにされるように、我々の苦しみ、悩み、罪を担われる。それがイエス・キリストの目的であったということです。言い換えれば、それが奇跡であるということです。神が私たちを罰するのではなく、救われる。その表れがイエスさまであるということです。それが最大の奇跡なのです。
 
   ポンテオ・ピラト
 
 使徒信条には、イエスさま以外に人の名前が二人出て来ると申し上げました。一人はマリアであり、もう一人が今日取り上げるポンテオ・ピラトです。
 なぜ使徒信条の短い文章の中で、ポンテオ・ピラトの名前が出て来るのか。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言わずに「苦しみを受け」だけでも良いではないかと思います。しかしこの極めて短い信仰告白の文章である使徒信条のなかに、わざわざポンテオ・ピラトという名前を入れているということは、やはりそこに大きな意味があるからだということでしょう。
 名前を出している理由の一つは、イエスさまが十字架につけられたのが歴史的事実であることを言っていると思います。マリア様の名前が出て来る理由の一つもそうでした。イエスさまはたしかにこの世にお出でになった。この私たちが生きている人間社会の中に、お生まれになった。そのことをはっきりさせるためにマリアの名前が出て来る。それと同じように、イエスさまはたしかにこの世で十字架につけられたということをはっきりさせるためにピラトの名前が出て来ると言うことができます。
 歴史的な記録によれば、ポンテオ・ピラトは、ローマ帝国の第5代のユダヤ州の総督として、西暦26年から36年にかけて任務に就いていたことが分かっています。また、古代ローマの有名な歴史家であるタキトゥスは、キリスト教徒でもないし、キリスト教に対して否定的な人ですが、そのタキトゥスもイエスさまがピラトによって処刑されたと断言しています。
 そいういうわけで、イエスさまがたしかにあの時十字架につけられたということを、歴史的事実として証明するために、ピラトの名前を挙げていると言えるでしょう。
 そして、ポンテオ・ピラトの名前が挙げられているもう一つの理由として考えられることは、そこに人間の罪の典型的な姿が現れているということがあるでしょう。つまり罪人の代表として、ピラトの名前が挙げられているということだと思います。
 勘違いしないでいただきたいのは、ピラトがイエスさまに十字架の判決を下したから極悪の罪人だと言っているのではないということです。ピラトが悪いんだ、ピラトのせいだと言っているのではないのです。私たちも同じだと告白しているということです。私たちもまた、イエスさまを十字架につけた一人なのだという、そのことをピラトの名を挙げることによって、重ね合わせている。そういう、私たちの罪の告白として、ピラトの名前を挙げていると思います。
 
   ピラトに見る罪
 
 本日はヨハネによる福音書の中のピラトとイエスさまの場面の一部を読んでいただきました。その19章6節でピラトは、イエスさまを十字架の死刑にするよう訴えるユダヤ人に対して言っています。「私にはこの男に罪を見いだせない。」ピラトはイエスさまが十字架刑にあたるような罪を何も犯していないことを知っていたのです。なのに、最終的にイエスさまを十字架につける判決を下してしまう。
 このことを振り返りますと、イエスさまが、ユダヤ人の指導者たちによって捕らえられる。そして真夜中のユダヤ人議会において、イエスさまを死刑にすることが決められる。そして夜が明けて、イエスさまを占領政府であるローマ帝国の総督、ピラトの所へ連行する。ユダヤ人指導者たちは、自分たちの律法によって自分たちの手でイエスさまを処刑することもできました。しかしそれをしなかった。彼らもイエスさまを信じていた群衆が恐ろしかったのです。それで、ローマ帝国の手によって処刑させることにした。責任逃れです。ローマ帝国の法律によって死刑にするためには、イエスさまが「ユダヤ人の王」を自称していると言って、ローマ帝国への反逆罪で訴えたのです。
 それで最初、ピラトはイエスさまを官邸の中に連れて行き、尋問をします。そのイエスさまとの対話によって、ピラトはイエスさまがユダヤ人の王であるというのは、この世の国の王のことではなく、信仰の世界の王であることを理解します。だからピラトは、訴え出たユダヤ人指導者たちに対して、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と言ったのです。反逆罪に該当しないと。
 ところが彼らは、納得しない。イエスを十字架につけるように要求する。それでピラトは彼らを満足させようとして、兵士たちの手によってイエスさまを鞭で打たせる。鞭と言っても、殺人的な鞭打ちです。それだけで死ぬ囚人がいるというほど、残酷でむごい鞭打ちです。罪がないと分かっていながら、ピラトはそのような鞭打ちをさせる。そして今日の5節です。「見よ、この男だ」。それはムチ打ちで傷だらけ、皮膚は裂け、血が流れている見るも痛々しいイエスさまの姿でした。
 しかしそれでも、ユダヤ人指導者たちと彼らに扇動された群衆は、イエスさまを十字架につけるよう要求して叫び続ける。ピラトは「私はこの男に罪を見いだせない」という。それでも彼らは聞かない。ちなみにヨハネによる福音書では、ピラトは彼らに向かって3度もイエスさまの無罪を口にしています。
 ピラトは、彼らが、イエスは自分を神の子と自称していたというのを聞いて、恐れます。自称しているのではなく、もしかしたら本当に神の子なのか、と。しかし結局、十字架にと要求し続ける群衆の声に押されてしまいます。ある記録によると、ピラトが総督でいる間に、ユダヤで2回の暴動が起きていたそうです。暴動は、拡大するとローマ帝国のユダヤ支配を揺るがすことになります。それで今度暴動が起きれば、ピラトの首が飛ぶと皇帝から警告されていた。それでピラトはこれ以上イエスさまを釈放しようとすれば暴動になると恐れて、十字架につけるために引き渡しました。自分の責任ではないと言って。人のせいにしてです。
 自分の身を守るためには仕方がないということです。自分の身を守るというと聞こえが悪いから、ローマ帝国のユダヤ支配のためには仕方がないということでしょう。自分が悪いんじゃない。仕方がない。そういうことです。そこには罪の自覚がありません。
 
   ピラトのもとでの罪
 
 また、ユダヤ人指導者たちがイエスさまを訴えた理由について、マタイによる福音書では、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」(マタイ 27:18)と書いています。ピラトには、彼らがねたみ、嫉妬によってイエスさまを訴えたのだと分かっていた。ユダヤ人指導者たちは、いろいろな理由を付けて訴えているけれども、本当のところをいうとイエスさまに対するねたみであったという。これもまた罪です。しかもその罪を覆い隠し、正当化している。罪の自覚がない。
 作家の三浦綾子さんが、こんなことをおっしゃっていました。「本当に自分のやっていることは悪くないと思うんだと思うんですよ。コップを落として、人が割ったら『この人悪い人』で、自分が割ったらたいしたことないですね。ことごとくそうなんですね。自分の罪が分からない。『悪いということが分からないということが罪なんだ』ということに、あるとき突如気がつきましてね。」
 この三浦綾子さんの言葉を聞いて、使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という言葉が、「ああ、そうだったのか」という思いがいたします。イエスさまの苦しみというのは何だったのか。ふつうそれは人間の罪のために苦しまれたのだと、よく聞かされています。もちろん、たしかにそれはそうなんですけれども、もっと言えば、自分の罪が分からない私たちが、どうしたら罪が分かるだろうかと格闘された。それがイエスさまの苦しみであったのではないかと思うのです。
 三浦綾子さんは、『道ありき』という自伝的小説の中で、こういうことを書いておられます。‥‥「病室に帰ってからわたしは思った。(自分の背骨が結核菌にむしばまれているというのに、レントゲンにハッキリ写し出されなかったばかりに、こんなに足がフラフラになるまでわからなかった。このままもしわからずにいたとしたら、わたしの骨は全く腐ってしまって、死ぬよりほかになかったのではないだろうか)そしてまた思った。魂の問題にしても、同じことが言えるのではないだろうかと。罪の意識がないばかりに、わたしは自分の心が蝕まれていることにも気がつかないのではないだろうか。腐れきっていることに気がつかないのではないだろうか。つくづく恐ろしいとわたしは思った。」(三浦綾子、『みちありき』、新潮文庫、1980、p.176)
 このままでは滅びるしかない私。罪の自覚もない私。その私たちが、どうしたら罪が分かり、神の救いを求めるようになるだろうかと。そのために格闘された苦しみが、イエスさまの苦しみであった。「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という使徒信条のフレーズがそれである。‥‥そのように思えてきます。それゆえそのキリストの苦しみは、私という救いがたい人間を救うための苦しみ、言い換えれば愛の苦しみであるということ。
 この私という一人の人間を救うために、神の御子がそこまで苦しんで下さった。そのことが、あのポンテオ・ピラトのときに、たしかにこの地上で、皆の前で起きたということです。
 
   マリアの信仰
 
 そこで私たちは、使徒信条でもう一人実名が出てくるその人物、マリア様の受胎告知の出来事に戻りたい。マリアは、自分が神の子を宿すという途方もないことを天使が告げたとき、そして天使が「神にできないことは何一つない」と語ったとき、答えて言いました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
 こんな私を救ってくださるというキリスト。あなたを救うことができると言われる神。感謝をもって「お言葉どおり、この身に成りますように」とお答えしたいのです。


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