2022年7月31日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書7章14
ガラテヤの信徒への手紙4章4〜7
●説教 「神の子人の子」使徒信条講解(8)
ただ今は、讃美歌「生けるものすべて」を歌いました。これはクリスマスの讃美歌です。クリスマスの讃美歌を真夏に歌うと調子が狂うという人もいるかも知れませんが、この歌詞をご覧いただきますと、そこには、神の御子がこの世に来られたこと、マリアより生まれたこと、罪人のためにおのれを与えたことが歌われています。そして私たちもこの御子、すなわちキリストをほめ歌おうと結んでいる。実にイエス・キリストが何のためにこの世に来られたかということが短く簡潔に歌われています。それはちょうど、今わたしたちがこの礼拝で学んでいる使徒信条に重なっています。
人の子としてお生まれになったイエスさま
本日扱う使徒信条の箇所は、先週に続いて「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」のところです。先週は、マリアが天使から受胎を告知された箇所から恵みを分かち合いましたが、本日はイエスさまが人の子としてお生まれになったということについて恵みを分かち合いたいと思います。
使徒信条では、イエスさまがマリア様から生まれたということを述べ、そのあといきなり受難のところに飛んでいます。つまりイエスさまが、お生まれになったあと、世の中の人々に神の国の福音を宣べ伝えられたことについては省略しています。すなわち、それは、イエスさまが人の子としてお生まれになったのは、十字架にかかるためであったという、そのことに的を絞っているのです。
いずれにしても、イエスさまはマリアから生まれた。すなわち人の子としてお生まれになった。このことを強調している。ではなぜ、人の子として生まれる必要があったのか?
ガラテヤ4:4〜7
それで本日は、そのことについて書いている聖書箇所の一つである、ガラテヤの信徒への手紙の4章4〜7節を取り上げてみたいと思います。そのなかで、神が御子、つまりイエスさまを女から生まれさせたと書かれています。女から生まれということは、生まれたその子は人の子であるということです。そして人としてイエス・キリストがお生まれになった理由を書いています。5節です。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
律法の支配の下にある者を救い出して神の子とするために、律法の下に生まれた人としてこの世に来られた‥‥。そう書かれているのです。
ここで気になるのは「律法」という言葉でしょう。律法とは、狭い意味で言えば、旧約聖書に書かれている神の掟のことです。するとキリストが人としてこの世にお生まれになったのは、律法の下にある人を救い出すために来られたということになります。そうすると、私たち日本人は律法の下になんかないから、関係ない、キリストの救いも関係ないということのように聞こえます。
しかしそうではありません。結論だけ言いますと、ここで「律法の支配下にある者」というのは、「罪人」のことだと言ってよいと思います。それは同じガラテヤ書の3章22節に次のように書かれていることからも分かります。
「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」
すべての人を罪の支配下に閉じ込めた。すべての人は罪人であるままになさったということです。すべての人は神に背いている。神の御心とは違うことをおこなっている。それゆえ罪人である。しかし神は、それはそのままになさった。それはやがてイエス・キリストを送って、そのイエス・キリストを信じる信仰によって救うためであると言っています。もはや人間は、自分の力では罪人から脱却することはできない。それでイエスさまを送られた。すなわち、イエスさまがマリア様から人の子としてお生まれになったということです。罪人である私たち人間を救うためです。
人の子にならなければ救えなかったのか?
しかし、イエスさまが人とならなければ私たちを救うことができなかったのでしょうか?
イエスさまが人の子としてこの世の中で生きられ、そして神の国の福音を宣べ伝え始められたのが、およそ30歳の時であったと、ルカによる福音書3章23節に書かれています。そしてイエスさまの地上での歩みについて福音書は、誕生の時から30歳までの間のことは、一つの出来事しか書かれていません。それはルカ福音書の2章に書かれている、イエスさま12歳の時のエピソードだけです。その他のことは何も書かれていません。何も書かれていないということは、それまではイエスさまは他の人とあまり変わらないふつうの生活をなさっていて、とくに書くべきことはなかったというです。
イエスさまが30歳の時から福音を宣べ伝え始められてから十字架にかけられるまで、足かけ3年といわれていますから、イエスさまの地上での人生の90%は、全くふつうの人と同じように歩まれたことになります。この社会の中で。人間の味わうさまざまな苦しみ、悩みを知られたことでしょう。私たち人間は、他人から見ると小さなことで悩み、苦しみます。そして最後は死を迎えます。‥‥そういうことをイエスさまも味わわれた。いや、ご経験なさったということになります。こうしてイエスさまは、人として生きられることによって、私たちの苦しみ、悩みを経験され、理解なさったと言えます。私たちがどんなことで神に背くか、どうしてなかなか神を信じられないか、どうして愛するということができないのか、ということも知られたことでしょう。
しかしそのように申しますと、「イエスさまは人間の味わうすべての苦しみを経験したわけではない。だからすべてを理解したのではないではないか?」というような疑問を持つ人もいるでしょう。
たとえばイエスさまはサラリーマンになったことがないから、サラリーマンの苦労や悩みはおわかりにならないだろうとか、あるいはイエスさまは結婚なさったことがないようだから、夫婦関係や子供のことなどについての悩みは分からないのではないか、というような疑問です。
しかし、このような問いは、苦しみや悩みの表面だけを見ています。根本原因を見ていません。たとえば、ある家の立て付けが悪くなって、ドアが閉まらなくなってしまったとします。それでドアを削ったり、柱に添え木をしたりする。次には床が傾いてきて、少し斜めになってしまい、タンスが倒れないようにタンスの片方の底に木をかませた‥‥。しかしそのように表面に出てくる現象だけに対処していても、全然問題の解決になりません。問題は、そういう現象にあったのではなく、家の土台、基礎がひび割れて壊れていた。そういうことがあるわけです。
家で言えば、その土台が壊れている事に当たるのが、罪です。人間の根本にある問題が罪です。罪の結果、神さまと断絶してしまった。そこに人間の根本的な不幸の原因、悪の原因があるということ。
人として歩まれたイエスさまは、そのことを身をもって知られたのです。そのようなことを念頭に、もう一度4節5節を読んでみたいと思います。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」 いかがでしょうか。
罪の認識
罪というと、よく「日本人は罪が分からない」という言い方を聞くことがあります。しかしそれは果たして本当でしょうか?‥‥私はそうは思いません。なぜなら、その罪の問題と真正面から向き合ったのが鎌倉時代の親鸞であり、その親鸞が開祖である浄土真宗が日本の仏教で一番信徒が多いというのは、そのことをよく表していると思います。
その親鸞は法然の弟子でした。法然は浄土宗の開祖ですが、ただ阿弥陀仏に頼るという他力の信仰を説きました。他力とは、もはや人間は自分の行いによって救われることはできず、ただ阿弥陀仏の名を唱えること、つまり念仏によって救われるという信仰です。他力というのは、キリスト教の福音信仰にあたります。
親鸞は、その法然の説く他力信仰によって開眼するのです。そして以後は、その他力信仰、称名念仏を広めていきます。親鸞は、何か特別な教え、奥義を知っているのではないかと思う人々に対して、自分はただ法然の教えである念仏に生きているだけだと言います。そして、たとえ法然聖人にだまされて、念仏して地獄に行ったとしても後悔はないと言いました。なぜなら、自分はもともと地獄行きの身なのだからと。
私はその親鸞の言葉に、とても感銘を受けるのです。もともと自分は地獄行きの身なのだから、という。ここに深い罪の自覚が見えるからです。親鸞はもちろん聖書を知りませんでした。つまり旧約聖書の律法も知りませんでした。しかし罪(もしくは悪)を自覚していました。ですからこの場合の罪、悪というのは、自分が罪人、悪人であるという根本的なことを発見したということです。そしてその罪人、悪人である自分を救ってくださるのが阿弥陀仏であり、それにすがるのみだと。
その阿弥陀仏をイエス・キリストにそのまま置き換えることができます。そして阿弥陀仏は実在していないかも知れませんが、イエスさまはたしかにこの世に来られた、すなわちマリア様から生まれたということ。そして人として歩まれ、私たちが悩み苦しみ、そして死を迎える根本の問題を深く理解されたということです。
地獄の火
もうひとり、椎名麟三を例に挙げます。椎名麟三は終戦後活躍した小説家ですが、キリスト信徒となった人です。その椎名麟三が、『私の聖書物語』という小さな本の中で証しを書いています。その中でこう書いている所があります。
「僕は、義しき者ではない。これはお世辞ではなく、残念ながら事実そうなのである。だがこの不義なる者は、キリストから、お前みたいな奴はゲヘナ(地獄)の火へ入れる、といわれたとき、威嚇ではなく、感動を生ずるのはどういうわけなのだろう。感動は愛においてしか成立しないものだ。だから僕は、感動においてふるえ上るかわりにキリストの愛を喜んでいるのであるが、一体この喜びは、どこから来るのだろう。僕は、その言葉の背後に、少くとも僕のために、この地上に生れ、苦しみ、十字架にかかり、そして復活したキリストを見ているからである。」
地獄に投げ込まれるということは、たとえばマタイ福音書の山上の説教の中で、イエスさまが「兄弟に対して『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる」とおっしゃっていたりします。あるいは、最後の審判のたとえ話で「最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と主に言われて、永遠の罰にあずかると警告されていることなどが挙げられるでしょう。
椎名麟三が、「キリストから、お前みたいな奴はゲヘナ(地獄)の火へ入れる、といわれたとき、威嚇ではなく、感動を生ずるのはどういうわけなのだろう」と書いている。そしてそこにキリストの愛を見るという。
それは、「お前みたいなやつは地獄の火へ入れる」とおっしゃるキリストが、同時に地獄の火に投げ込まれて当然のようなこの私を救うために、わたしの代わりに地獄の火に身を投じてくださった。それが十字架であるのです。それゆえそこに愛があり、脅しでも威嚇でもなく、感動を生じるのです。
キリストは、滅びて当然、罰を受けて当然のこの私たちひとりひとりに近づくためにマリアから生まれ、人として歩まれました。そして私たちの苦しみを知り、悩みを知り、罪を、身をもって知られました。そしてその私たちの重荷を背負われて、十字架にかかられました。そこに愛があります。キリストの愛です。「あなたの罪は赦された」とおっしゃってくださるキリスト。
このイエス・キリストのお名前を唱えつつ、歩んでいくのです。イエスの御名に感謝し、祈り、すがり、礼拝しつつ歩んでいく。そのようにして、キリストの中を生きて行くことを許されています。
|