2022年7月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書11章2
    ルカによる福音書1章28〜37
●説教 「神と人間」使徒信条講解(7)

 
   人の子として生まれ
 
 本日は、使徒信条のイエス・キリストの項目の続きです。天地の創造主である神について述べた使徒信条は、続けてイエス・キリストについて語ります。そして、そのイエス・キリストという方が神の独り子であり、我らの主であると述べます。そして今日の所からは、そのイエス・キリストの地上での歩みについて述べ始めます。その最初です。
 「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」
 ここで人の名前が出てきます。マリヤ、現在の聖書では「マリア」という表記になっていますが、一人の女性の名前です。イエス・キリストが、そのマリアより生まれたと記しています。
 ちなみに、使徒信条はたいへん短い信仰告白の文章ですが、人間の名前がイエスさま以外は二人だけ出てきます。一人はこのマリア、もう一人はポンテオ・ピラトです。マリアはイエスさまをお産みになった母上、ポンテオ・ピラトはイエスさまを十字架刑に処した総督です。この二人の名前が出てきます。使徒信条は、神について述べている文章だと申し上げました。その神について述べている文章に、人間の名前が二人出て来るということは、私たちの神がどんな方であるかを説明するときに、この二人の名前はどうしても外すことができないということになります。
 そして主であるイエスさまは、マリアという名のおとめから生まれたと。そう述べています。生まれた、すなわち人の子として生まれた。間違いなく人の子として生まれたことを証拠立てるかのように、マリアの名前が出されています。人から生まれたのだから、イエスさまは人であるに決まっています。
 使徒信条は、そのように主イエスは、たしかに人としてこの世にお生まれになったということを、マリアという名を出すことによって強調していると言えます。
 
   聖霊によりて宿り
 
 しかし問題は、そこにあるのではありません。使徒信条の文章をもう一度見てみますと、「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ」とあります。すなわち「聖霊によりて宿り」と述べられていることです。マリアは、夫によって身ごもったのではない。聖霊によって身ごもったと言われているのです。聖霊とは三位一体の神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神の「聖霊なる神」です。すなわち、マリアは神によって身ごもったと言われているのです。
 このことを、ルカによる福音書の有名な受胎告知の場面を通して神の恵みをいただきたいと思います。この個所を読みますと、クリスマスが近づいたときのような気持ちになります。そうです。クリスマスのできごととつながるんです。今やクリスチャンであってもなくても、世界中で祝われているクリスマス。人の子イエスさまの誕生。そのクリスマスが何であるかを示しているわけです。
 そのできごとは突然起こりました。この個所は何度も教会で読んできた箇所ですから、もう言われなくても分かるという方も多いと思いますが、あらためて使徒信条が述べていることを念頭に思い返してみたいと思います。
 マリアは大人物でもなんでもない、全くふつうの人でした。イスラエルの北部、ガリラヤ地方のナザレという村に住んでいた全く無名の少女でした。年齢は、当時の習慣などから、だいたい14歳ぐらいであったと考えられています。そのマリアの所にある日、ガブリエルという天使が遣わされる。‥‥天使が登場したとたん、おとぎ話のような印象を持ってしまうわけですが、考えてみますと、だいたい神さまという方自体が私たちの日常においてなかなか認識できないわけです。だから神さまだとか、神さまの使いである天使が登場した時点で、何かおとぎ話のような印象を持つのは、仕方がないと言えば仕方がありません。では神さまが登場するには、どうやって登場したら作り話やおとぎ話のようには聞こえなくなるのかと考えてしまいますが、この出来事は、そのような人間の持つ勝手なイメージは一切無視するかのように進んでいきます。
 そしてこの出来事の中で、ガブリエルはマリアに語っています。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 この言葉を、14歳のマリアはどう受け止めただろうなあ、と考えてしまいます。ふつうの14歳の少女が、神から選ればれたのです。そこで語られている内容は、一人の少女が受け止めるには、あまりにも大きすぎることに聞こえます。マリアもユダヤ人として生まれましたので、幼い頃から聖書の話は聞いてきたことでしょう。神について親から教えられてきたことでしょう。天地創造の神について教えられ、神が与えた律法について学んできたことでしょう。
 しかし今、話には聞いてきたその神さまが、使いを遣わして、自分のところに現れて、このようなことが語られる‥‥。あまりにも現実とのギャップが大きすぎるように思えたことでしょう。
 マリアは答えています。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。たしかにマリアには、ヨセフといういいなづけがいました。しかしまだそういう関係ではない。なのにどうして男の子を産むというようなことがありえるのかと。当然の質問です。ありえない。覚えがないのに子供を身ごもるようなことが起きるはずがないのは当然です。
 
   神の子
 
 それに対して御使いが答えたのは次のような言葉でした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」(35節)
 聖霊は神さまですから、要するに、神さまがそうするということです。聖霊なる神さまが、マリアよ、あなたのところに来て、神の力で包まれるのだと。それは神さまのなさることであると。
 おとめマリアが聖霊によって身ごもり、イエスさまがお生まれになる。これはキリスト教では「処女降誕」とか「処女懐胎」と呼ばれます。このことがどうしても信じられないという人がいます。「天地宇宙とすべてのものを神が造られたというのは信じることができるけれども、おとめマリアからイエスさまが生まれたということは信じられない」‥‥そういう人はけっこういると思います。たしかに常識的に考えたら信じられないでしょう。しかし天地創造を振り返ってみると、どうでしょう。神さまはこの世界、この宇宙を、無から造られた。現代宇宙物理学の言っていることもそのときご紹介しました。宇宙は今から約138億年前に、一点から始まったといいます。宇宙は今よりずっとずっと小さく、138億年前は針の先ほどの一点だったというのが科学者のいうところです。この巨大で無限にも思える広大な宇宙全体が、針の先、いや大きさのない一点であって、その中に宇宙の中のすべての星や物質の元となるものが収まっていた、つまり私たちもその中に収まっていたというのは、私たちの常識を超えたことに思われます。これを昔の人が聞いたら一笑に付したことでしょう。しかし今はそれが科学的事実ということになっています。そしてそのような宇宙をお作りになったのが神さまですから、おとめマリアに聖霊によってキリストが身ごもるということがおできになるのは当たり前だということになる。だから天使ガブリエルも、マリアに対して「神にできないことは何一つない」と語っているのです。
 神にできないことは何一つない。それを言われますと、切り札を切られたことになり、もうそれ以上何も問えなくなるわけですが、問題は、ではなぜ神さまは、聖霊によってキリストを身ごもるようになさったのか?ということです。神さまがご自分で定めた自然法則を、自らお破りになってまでキリストを聖霊によって身ごもらせ、生まれるようになさる。なにも聖霊によってキリストを宿らせなくても、マリアの許嫁(いいなずけ)であるヨセフとの間に生まれた子に聖霊を降らせてキリストとなされば良いではないか‥‥そのような考え方もあるでしょう。
 しかし、ここで考えてみますと、男の手を借りずに聖霊によって身ごもったということは、マリアから生まれた子は神の子であるということになります。いっぽう、人の子であるマリアから生まれたということは、人の子ということになります。神の子であり人の子であるキリスト、イエスさま。そうでなければならなかったのです。私たちには理由は分からない。しかし、神さまにとっては、私たち人間を救うためには、そうでなければならなかったのです。神さまの方に理由があったのです。
 
   マリアの信仰
 
 神の御使いガブリエルは、なぜこういうことを神さまはなさるのかということは、一つも説明していません。ただ「神にはできないことは何一つない」と告げる。メチャクチャな話に聞こえます。理由など一つも語らずに、一方的にマリアに告げる。
 それに対してマリアはどう答えたかというと、38節に書かれているとおりです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」です。ひとことで言えば、「アーメン」です。
 わたしはこのマリアの言葉に絶句します。そして脱帽します。自身に御使いが現れて、聖霊によって神の子を身ごもったと告げられた‥‥そんなことを一体他の誰が信じるというのでしょう。許嫁のヨセフが信じてくれるのでしょうか?そういう不安はなかったのでしょうか?一大スキャンダルに発展しかねないのです。当時のユダヤ人の律法でいえば、疑われて姦通罪に問われ、死刑になるかも知れないのです。
 しかしマリアは神の言葉を信じたのです。細かい説明も理由もなしに、どうしてと尋ねることなしにです。全面的に神さまにゆだねているのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」‥‥!! 我が身に起こるかもしれない苦難や中傷や試練も含めて、すべて神にゆだねてしまっている。
 このように神を信じる人がいたのです。この世の中に、このように純真に神を信じ、我が身を神にゆだねる人がいたのです。そこに、神がなぜこの無名の、貧しい一人の少女に神の子を託されたのかが見えてきます。この幼子のような信仰。このように、本当に神を信じる人がいた。うれしくて仕方ありません。私は心から尊敬の念を抱きます。そして「マリア様」とお呼びしたい思いになるのです。
 最初に、使徒信条にマリアの名前が出て来るのは、イエスさまがたしかに人の子として生まれたことを言うためであると申し上げましたが、もう一つは、その信仰です。マリアに見られる信仰。このことを強く指し示しています。
 
   主が共にいて下さる
 
 しかし、このマリアに起こった出来事は、単にマリアに起こった出来事で終わっていません。
 マリアに天使ガブリエルが現れたとき、最初にガブリエルが語った言葉はこうでした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
 この「おめでとう」という言葉は、ギリシャ語では「カイレ」という言葉で、それは「喜びなさい」という意味です。これがラテン語では「アヴェ」となり、アヴェ・マリアは、「おめでとう、マリア」と訳されますが、それは「マリアよ、喜びなさい」というもともとの意味になります。
 それは喜びのメッセージだったのです。天使は神の使いですから、神さまのメッセージを伝えるものです。つまりそれは神の言葉です。神が「マリアよ、喜びなさい」と言われたのです。何を喜ぶのか?‥‥「主があなたと共におられる」ということを喜びなさいと。聖霊がマリアに臨まれる。聖霊は三位一体の神ですから、それは主がマリアと共におられるということになります。そしてそのことは、本当に喜ぶべきことだと神が言われたのです。
 マリアは、名も無く貧しい、社会的な力も何もなかった一人の少女でした。しかし聖霊が降り、神の力が包む、すなわち神が共におられる。このことこそ本当に喜ぶべきことなのだと。神は敵ではなく、罰を与えるものでもなく、あなたと共にいて、あなたを包み、守る方として共にいて下さる。それは本当に喜ぶべきことであると言われます。
 そして驚くべきことに、これはマリアだけのできごとにとどまりません。私たちが主イエス・キリストを信じるとき、聖霊がこの私のところにも来てくださる。下ってくださる。そして御使いが言った言葉、「おめでとう、恵まれた人よ。主があなたと共にいて下さる」という言葉が、私たちの現実となるのです。マリアに比べて格段に不信仰かも知れません。しかしその不信仰な私たちのために、この世に来られた神の子であり人の子であられる方、イエスさまが神にとりなしをして下さる。そして聖霊が、私たちの不信仰を癒やしてくださるのです。


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