2022年7月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記1章26
    ヨハネによる福音書1章14〜18
●説教「ひとり子なる神」使徒信条講解(5)

 
 現在この説教では、使徒信条を学びながら恵みを分かち合っています。使徒信条は、分厚い聖書のエッセンスです。聖書が言おうとしていることを凝縮しているものです。そうしてあらためて使徒信条を見ますと、これは神さまについて明らかにしているものだなあ、ということが分かります。使徒信条が神について述べているものだということは、すなわち聖書が神について明らかにしている書物であるということになります。神を知る。そこから初めて私たち自身、自分とは何かということが分かってきます。自分が分かれば、生きるべき道を知ることができます。私自身も、そのようにして歩むべき道を知りました。
 
   イエス・キリストという存在
 
 さて、本日は使徒信条の次の項目に移ります。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」このように使徒信条は、天地の創造主である神について述べた後、イエス・キリストについて述べます。それはすなわち、私たちの神について語るとき、イエス・キリストというお方を外すことはできないということです。
 このことについて、新約学者の竹森満佐一先生が使徒信条について書き記した本の中に書かれていたことをご紹介したいと思います。それは、エミール・ブルンナーという日本を愛したドイツの神学者のことなんですが、ブルンナー先生が戦後初めて日本に来られた後、インドに立ち寄ってヒンズー教の哲学者たちと会談した時のことだそうです。そのとき、ヒンズー教の人が、キリスト教の人は、なぜイエスというただ一人の人にこだわるのかと聞いたそうです。その意味は、おそらく、宗教はみな同じなのだから、もしキリスト教がイエスだけが救い主だと言いさえしなければ、自分たちとも話が通じるのに、ということだろうと。しかし竹森先生は、このことはとても大切なことだと言います。それはキリスト教の信仰は、ナザレのイエスというお方を離れてはありえないということだと。
 そしてこう書いておられます。「それは、この人物が教えた宗教というのではなくて、このお方こそが私たちの救い主である、ということなのです。ここに、キリスト教が、どんなにほかの宗教と似たところがあったとしても、全く違ったものである、ということがあるのです。」
 まさにそういうことでありまして、イエスさまはありがたい教えを述べた方、救いの教えを説いた方というよりも、イエスさまご自身が救いであるということです。
 
   三位一体(さんみいったい)
 
 さて、使徒信条は父なる神について述べた後、イエス・キリストについて述べるわけですが、使徒信条全体の構成がどうなっているかを見てみたいと思います。そうすると、じつはこれは3つの項目に分けることができるんです。父なる神の項、子なる神イエス・キリストの項、聖霊の項の3つです。これは一般に「父・子・聖霊なる神」と言われます。
 先ほど、使徒信条は神について明らかにしていると申し上げました。そうすると、私たちの神は、父・子・聖霊の神であるということになります。これを「三位一体」と言います。すなわち、聖書の証しする神は三位一体の神であるということです。
 三位一体をどう表現するかということですが、たとえば『讃美歌21』の351番の1節はこういう歌詞になっています。
 聖なる 聖なる 聖なる主よ、
 夜ごと、朝ごとに ほめたたえん。
 三つにいまして ひとりなる
 主こそ力に 満ちあふる。
この「三つにいましてひとりなる」です。神さまは人間とは違いますから、「ひとり」というのはちょっと違いますが、他に言い方がないのでそう表現しているわけです。前の讃美歌では「三つにいまして一つなる」となっていました。つまり、三つだけれども一つということです。父なる神、子なる神イエスさま、聖霊なる神さまと、三つだけれども一つ。これが三位一体なんです。
 そのように言いますと、「キリスト教は一神教ではないのか?」と多くの人は思うでしょう。なぜなら、「キリスト教は一神教」だと一般に言われているからです。しかしそれは正確な言い方ではありません。正しくは「三位一体」の神さまです。
 たしかに聖書には、たとえば「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」(1コリント8:4)というような聖書の言葉があります。唯一の神以外にいかなる神もいない。それは聖書の告げる真実です。しかしその唯一なる神が、単独者ではなく、三つの存在であるということ。それが三位一体です。これはちょっと人間の理解を超えているところがあるわけですが、そもそも神さまは永遠無限の方であり、天地宇宙をお作りになった方ですから、人間の頭で理解しきろうと思っても無理なところがあるわけです。
 では聖書にそのようなことがどこかに書かれているのか、新約聖書ならいざ知らず、イエスさまが現れる前の旧約聖書にそのようなことが書かれているのかと言われれば、少なくとも神が単独者ではないということは暗示されています。その一つが、先ほど読みました創世記1章26節です。創世記1章は聖書の初めであり、神が世界をお造りになったときのことが書かれています。そして26節は、第6の日のことで、最後に人間をお造りになった時のことが書かれています。もう一度読んでみましょう。
 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。‥‥』」
お一人であるはずの神が、「我々にかたどり、我々に似せて‥‥」とおっしゃっています。これはどういうことなのか?もし神が単独者であったとしたら、「我々」ではなく「私」になるはずです。このことについては、文字通り一神教のユダヤ教には、いくつかの説明があります。それについては省略しますが、どれも納得のいくものではありません。一番分かりやすいのは、神は単独者ではないということです。神は唯一なのだけれども、単独者ではない。すなわち、旧約聖書の一番初めの所において、すでに三位一体が暗示されている。そのように私たちキリスト教会は考えます。ここで言われている「我々」というのは、父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神であると。
 では、父と子と聖霊なる神が、一つであるというのはどういうことなのか? 三つであるけれども一つであるというのはどういうことなのか?‥‥このことについては、私は内村鑑三が紹介している説明が一番分かりやすいと思います。それは神は愛であるということから説明するものです。神は愛であるというのは、ヨハネの第一の手紙4章に書かれているだけではなく、聖書が証しする神の本質です。そして神は永遠ですから、永遠の昔から神は愛であることになります。ですから、この天地宇宙万物は、神の愛によって造られたということになります。しかしすべてのものが造られる前には、神だけがいたことになります。そのときにも、もちろん神は愛であった。しかしも神が単独者であったとしたら、愛が成り立たないというのです。愛は自分以外の者がいて、つまり愛する対象がいて、初めてなり立つものだからです。そこで三位一体が出てきます。父と子と聖霊です。この三つは、完全な愛によって一つになっていると言える。そういう説明です。完全な愛による一体です。
 
   神の独り子
 
 さて、そうして使徒信条は三位一体に従って、父なる神の項目に続いて、子なる神イエス・キリストの項目に移ります。そして今日は、「我はその独り子」ということについてです。
 イエス・キリストが、神の独り子であるという。神の子であるというからには、神から生まれたということになります。しかし前回申し上げたように、神は父と表現されています。母から生まれることはあっても父からは生まれません。しかも生まれたということは、ふつうに考えると、先に父だけがいた時間があったということになります。そうなると、やはりもともとは神は単独者であったということになってしまいます。
 そこで、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉を見ています。
 (ヨハネ1:1)「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 初めに言があった。この「言」というのはイエス・キリストのことです。初めに言、すなわちイエス・キリストがおられたのであり、しかも父なる神と共におられたという。そしてその言と言われるイエス・キリストは神であったと述べています。すなわち、父が先におられて次に子なるイエスさまが生まれたということではない。永遠の昔から、最初から父なる神とイエス・キリストが、父と子という関係で、存在していたということなのです。
 それが父から生まれた子(ニカイア信条)と呼ばれるのは、父なる神と子なる神イエスさまが同質であるということだと、教会は説明してきました。それは、父なる神とイエス・キリストは、同じ性質だということです。そのように言いますと、なんだか難しい話しになってくるように感じます。同質なんて言われても難しいのはたしかです。それで、きょう読みましたもう一つの聖書箇所、ヨハネによる福音書の1章18節を見てみます。
(ヨハネ 1:18)「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 「父のふところにいる独り子である神」、これがイエスさまのことです。そしてこのイエスさまが神を示されたといいます。「いまだかつて、神を見た者はいない」と、まず述べています。神を見た者は一人もいない。たしかに、旧約聖書を読んでも、父なる神が姿を現したということは一度も書かれていません。神が言葉を発せられたと言うことは何度も出てきますけれども、姿をお見せになったということは一度もありません。代わりに現れるのは御使いです。しかし神ご自身は、誰も見た者がいない。誰も見た人がいないということになりますと、神さまというのは結局どんな方なのかよく分からないということになります。あるいは、本当に神さまはいるのか?神は生きておられるのか?ということになってしまいます。そうするとなにか、私たちにとって神さまとは、ぼやけた彼方の存在で、非常にわたしたちの希望も失われるように思えます。私たちは結局孤独であって、人生の荒れ野をがまんして生きていくしかないということになるように思います。そしてやがて死んで、永遠の暗闇の中に消えていくということになる。
 しかし、そんな心配はいらないと聖書は告げるのです。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と語ります。イエス・キリストが神を示された。イエス・キリストを見れば神が分かるのだということです。いや、私たちに神を示すためにこそ、子なる神であるイエス・キリストがこの世に来られたということです。
 そのイエスさまはどういう方であったか?‥‥それを新約聖書の4つの福音書が伝えています。それはまさに、この世の中を生きる無名の人々のところに近づいて来てくださる方でした。病んでいる者を癒やし、悪霊に取りつかれた者から悪霊を追い出し、貧しい人に福音を語り聞かせ、友なき者の友となってくださる。そういう生ける神の姿を福音書は生き生きと書き留めています。そしてその方は、この罪人である私たちを救うために命を投げ出してくださった。この私たちが、神の子としていただけることを、身をもってお示しになりました。
 神は生きておられる。そして私たちを愛し、導いて下さる。その生き生きとした神の姿を、私たちはキリストを通して、見ることができるのです。そして聖霊によって、私たちも出会うことができるのです。
 「聖書も、神さまのことは良く分からないけれども、イエスさまのことは好きだ」とか、「イエスさまはすばらしい方だ」という方に何人か出会ったことがあります。
 キリスト教放送のFEBC通信を読んでおりましたら、FEBCの聖書通信講座を受講している男性の投書が載っていました。こう書かれていました。‥‥「ヨハネ16-18章を読みました。相変わらず、聖書の展開は私にとって他人事のようで、何ら心に変化が起こることはありません。ただ他人事ながら、16章の緊張感は好きです(ちなみに16章はイエスさまが最後の晩餐の席で、ご自分の受難と弟子たちの逃亡を予告なさっている箇所です。)。ギリギリのところで振り絞られるイエスの言葉は、深い意味は分からないまでも、絶対的な神として信じる事は出来ないまでも、この人物の誠実さと覚悟は伝わります。「我すでに世に勝てり」、この言葉にぐらっとしました。 イエス・キリストを「本物」と確信を得られる時が来るとしたら…と、私は密かに期待しております。」
 これを拝見して、そのイエスさまがリアルに迫ってきたことで十分ではないかと思いました。後はそのイエスさまを信じるということだけです。そしてイエスさまを信じるということは、神を信じるということです。
 今もイエス・キリストは、私たちのところに近づいて来てくださり、信じる世界へと招いてくださっています。


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