2022年7月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上19章11〜14
    ヨハネの手紙一3章1〜3
●説教 「父となられる神」−使徒信条連続講解説教(4)−

 
 使徒信条の説教、最初の父なる神の項目を学んでいます。私たちの神さまについて知ることは、私たち自身を知ることでもあります。そしてそれは私たちの人生の謎を明らかにすることです。本日は使徒信条の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、「父なる神」について、恵みを分かち合いたいと思います。
 
   父なる神との呼びかけ
 
 さて、皆さんは神さまにお祈りするときに、何と言って祈り始めるでしょうか? つまり天地の造り主なる神さまへの呼びかけです。「父なる神さま」と言う人もいれば、「天の父なる神さま」、あるいは「天のお父様」と言う人もいます。それぞれ神さまへの呼びかけ方が違うのは、自分が育った教会の習慣や、あるいは親がキリスト者であった場合はその親がそう祈っていたとか、いろいろあると思います。しかし表現は違っても、「父」とか「お父様」という言葉を使う方が多いと思います。もちろん単に「神さま」でも良いし、「イエスさま」と祈り始めても良いわけですが。
 どうしてクリスチャンが祈りの時に、神さまを「父」とか「お父様」と呼びかけることが多いかと言えば、それはまず第一に、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」がそうなっているからです。主の祈りでは「天にまします我らの父よ」で始まっています。
 それから、イエスさまが最後の晩餐で弟子たちにお語りになった告別説教の中で、次のようにおっしゃっておられることも大きいでしょう。(ヨハネ16:23)「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」
 また、イエスさまご自身が神さまのことを「父」と呼ばれました。そしてそのイエスさまの父である神さまが、私たちの父でもあると言われました。例えば次の聖書箇所、復活されたイエスさまがマグダラのマリアにお語りになった言葉です。
(ヨハネ 20:17〜18)イエスは言われた。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 このようにイエスさまは、イエスさまの父である神が、私たちの父なる神であるとおっしゃいました。そういうことから、私たちは天地の造り主である神さまを「父」と呼びかけて祈ることができるのです。
 
   神の子ということについて
 
 さてそうすると、神さまが父であるならば、私たちは神の子であるということになります。ただ、人間が神の子であるというような教えは、世界中にたくさんあるようです。たとえばこの日本では、天孫降臨という言葉がありますように、天皇は天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫とされています。そして人間の先祖というものは、何十代もさかのぼれば、だいたいどこかでつながって、みな親戚になると言われるほどですから、日本人はだいたいみな神さまの子孫ということになります。そうすると、人間が神の子であると言われても、別に驚く話ではないということになります。
 しかし、日本の神話に登場する神さまというのは、聖書で証しされている神さまとはずいぶん違っていて、人間に近い印象です。それに対して聖書では、宇宙とその中にあるすべてのものを造られた全能なる神のことを言っているわけですから、何を神と呼ぶかというところが違っています。
 それから天孫降臨の場合は、天照大神と血がつながっているわけです。神々が子供を生んでいます。それに対して、聖書では真の神と私たち人間は全く血がつながっていない。人間は神から生まれたのではなく、神によって造られた存在です。日本の神話のように血がつながっているのなら自動的に神の子孫ということになりますが、聖書の場合は、私たちは自動的に神の子となるのではありません。たとえば次のような御言葉があります。
(ローマ 8:15)"あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。"
 この中で「アッバ」というのはヘブライ語で「パパ」という意味です。イエス・キリストを信じることによって聖霊を受け、神の子とされる。それで神さまが本当の父となられるということです。
 
   なぜ「父」なる神か
 
 さて、そのように神が父となられるということですが、なぜ「父」であって「母」ではないのか? 神さまに性別はないのなら、どうしてか?‥‥と考える人もいるわけです。そして、「聖書は昔の家父長制の名残であって、女性差別である」と言って、聖書の中の「父なる神」を「親なる神」とか「父母なる神」と言い換える人が、キリスト教世界の一部にあります。たしかに「親なる神」でも「父母なる神」でもいいように思われるかも知れませんが、それは間違いだと言わなければなりません。
 なぜなら、先ほども少し触れましたが、聖書では、神さまが人間を産んだのではないのです。神は人間を産んだのではなく、造られたのです。「父」と言った場合、人間を産んだのではないということがはっきりします。
 それから、なによりもイエスさまが、神を「父」と呼んでおられます。イエスさまが神さまを「親」とか「母」とお呼びになった箇所は、聖書には一箇所もありません。
 そもそも、神さまを父と呼ぶのは、神さまという方が人間の父親に似ているからではありません。わたしが富山にいたとき、刑務所の教誨師をしていましたが、ある受刑者との個人教誨の時に、その方が言いました。「あの、神が父であるということが分かりません。わたしは父親から愛されたという経験がないので」と。たしかに、私たちの肉親の父親ということで言えば、それこそ様々な父親がいるわけです。愛のない、暴力ばかり振るう父親もいるでしょう。逆に、過保護で溺愛する父親もいるでしょう。そういう人間の父親のイメージで「父なる神」を考えると、それこそ様々な異なるイメージを抱いてしまうことになります。
 神さまが人間の父親に似ているから「父」と呼ばれるのではありません。その逆だというべきでしょう。つまり、父なる神が真の父であって、人間の父親はそこから学ばなければならないということです。
 
   エリヤに見られる父なる神
 
 今日は旧約聖書の中の、有名な預言者エリヤの物語の中から読んでいただきました。当時、イスラエル王国では、アハブという王様とその妻イゼベルの影響で、国中にバアルとかアシェラといった偶像の神々の像が建ち、その神社が建ちました。そして、主の預言者が迫害されて殺されました。イスラエルの多くの人々も、主ではなくバアルやアシェラを拝むようになりました。
 あるとき、エリヤはアハブ王に、バアルが真の神か、主が真の神なのか、決着をつけようと言いました。そしてアハブ王にバアルの預言者400人を集めさせ、対決しました。その結果、バアルの預言者が祈っても何も起こらなかったのですが、エリヤが主に祈ると天からしるしが現れました。こうしてエリヤの拝む主が真の神であることが分かり、人々は主に対する信仰を取りもどしました。しかしアハブ王の妻イゼベルは、それに腹を立て、エリヤを殺害するよう命じました。
 すると、それを聞いてエリヤは恐れて逃げて行ったのです。王様も恐れず、バアルの預言者400人と対決した勇敢な人エリヤが、恐れて逃げて行ったのです。こういうところが聖書が人間の真実を描いている書物だなと思います。完全な人などいないのです。エリヤでさえも、恐れに取りつかれることがあると、聖書は赤裸々に書いているのです。
 その逃げるエリヤを、神さまはどうされたか? 怒って罰したでしょうか?‥‥いいえ、違います。荒野を逃げて行くエリヤを助けるために、御使いに命じてパン菓子と水を与え、養われました。そしてエリヤは神の山ホレブに着きました。そこで神さまはエリヤに語りかけられたのです。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。そして今日読んだ聖書箇所に続きます。
 非常に激しい風が起こり、山を裂き岩を砕きましたが、その中に主はおられませんでした。そのあとに地震が起こりましたが、その中にも主はおられませんでした。続いて火が起こりました。しかし火の中にも主はおられませんでした。そのあとに、静かにささやく声が聞こえました。それが主の声だったのです。主の声はそのように語りかけます。そのようにしてエリヤに出会われました。そして私たちにもそのようにして出会われます。
 その主は、エリヤを叱りつけたのではなく、新しい使命をお与えになりました。そして、エリヤの後継者を指名してくださいました。それがエリシャです。エリヤ一人に重荷を負わせないようにされたのです。
 今日この箇所を取り上げましたのは、ここに父なる神がどういう父であるかがよく表れていると思ったからです。それは役割を与える方であると同時に、失敗を責め立てたりなさらない。そして慰め、励まされる。しかも、「もうお役御免だ」とクビにしたりなさらない。代わりの人をお立てになると同時に、新しい使命も与えてくださる。まだあなたは必要であると。‥‥ここに父なる神の姿を見て取ることができると思います。
 
   愛なる神
 
 最初に申し上げました、祈る時の神さまへの呼びかけ方ですが、前任地の教会で「愛なる神さま」と言って祈り始める方がいました。これも正しいことです。
 今日の新約聖書は、ヨハネの第1の手紙3章1〜3節を読んでいただきました。その1節をもう一度見てみますと、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」と書かれています。
 父なる神といった場合、それは私たちを愛しておられるということだ、そう言っているんです。そしてその愛の神は、私たちが罪人のままで、すなわち悪いもののままで良いとは思われない。御子に似た者となるように導かれるというのです。この「御子」とは、神の真の子であるイエスさまのことです。つまり、イエスさまのご性質に似た者となるように導かれるという。
 たしかに、父が本当に我が子を愛しているのなら、悪いままで良いとは思わないでしょう。良くなってほしい、成長してほしいと願うでしょう。それが本当です。今は名目だけ神の子としていただいた私たち。全く神の子らしくないのにもかかわらず、イエス・キリストによって神の子としていただいた。その私たちを、今度は本当に神の子らしくなるように、つまりイエスさまと似た者となるように成長させて下さるということです。それが本当の父なる神の愛というものです。
 
   訓練する父
 
 しかし、人間が成長していくときは、楽しいことばかりではありません。たとえば子供が成長するとき、子供の好むことばかりさせていたら、テレビや漫画ばかり見ているか、ゲーム機で遊んでばかりいるかも知れません。それでは成長しません。勉強も必要ですし、運動も必要です。また、親の手伝いもさせられます。そして時にはつらいこと、苦しいことを通して人間は成長していきます。
 それと同じように、いやそれ以上に私たちを愛しておられる父なる神は、時には私たちに試練をくぐらせることによって、成長させられます。たとえば以下のような御言葉があります。
(ヘブライ 12:5〜7)"「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。"
 私たちが神を信じているのに苦難や試練が臨むのは、一つにはそういう理由があるのです。私たちの父なる神は、苦難や試練を通して、私たちを成長させてくださる。そうすると、苦難や試練さえも感謝へと変えられます。
 エリヤは、激しい風、そして地震、そして火のあとに、静かに語りかける主の声を聞きました。そうして慰めと励ましを受けました。父なる神を知りました。私たちも、忙しい日々ではありますが、静かに聖書を読み祈る時、愛なる神の言葉に耳を傾ける時をたいせつにしたいと思います。
 この後の聖餐式で、父なる神がキリストを通して、私たちを子としてくださっている恵みを感謝いたします。


[説教の見出しページに戻る]