2022年6月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記42章1〜6
    ヨハネの黙示録1章5(後半)〜8
●説教 「何でもできる方」−使徒信条連続講解説教(3)−

 
 本日は使徒信条「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、「全能」の神ということについて、恵みを分かち合いたいと思います。
 
   全能とは何か?
 
 まず、「全能」とはどういう意味かということですが、これは広辞苑で引きますと「何事もできないことのないこと」と書かれています。つまり「なんでもできる」ということになります。
 前回学びましたように、私たちの神は「天地の造り主」です。宇宙とその中にあるものすべてをおつくりになった神ですから、何でもおできになる神さまであるに違いありません。しかし、では全能の神とは、なんでもできる神であるというだけで十分説明できるかと言えば、そうでもありません。
 たとえば、「神はウソをつくことができるか?」という問いです。神さまは何でもできるのだから、ウソをつくこともできるんじゃないかと、これはちょっと意地悪な質問であるわけですが、たしかに「神は何でもできる」というならば、ウソをつくこともできるということにもなります。これはどうなのか?
 ここで私の体験をお話ししたいと思います。それは私が東神大の神学生のときのことなんですが、ある晩、ある神学生がずっと学生寮の私の部屋に居座って、あれこれくだらない話をし続けたんです。しかもその話がくだらないというだけではなく、ちょっとおかしいんです。どうおかしいかというと、プライバシーの問題で詳しく申し上げられないので申し訳ないのですが、明らかに話がおかしい。言ってみれば、ちょっと悪魔的なんです。聞いているうちに、だんだんこちらも気持ちが悪くなっていきました。それで困り果てました。
 そうすると聖書の言葉が心の中に強く浮かんできました。それはテモテへの第二の手紙2章13節の御言葉でした。当時は口語訳聖書ですからそれで言うと、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである。」‥‥この御言葉が私の心の中に浮かび上がってきました。私は思いました、「あ〜、そうだ!イエスさまはご自分を偽ることができない。イエスさまの言葉は全部本当であり真実なのだ」と。そのイエスさまにすがりました。すると間もなくして彼は帰っていきました。そしてそれから彼は変えられていったんです。あのときテモテへの第二の手紙の言葉を思い起こさせてくださったのは、聖霊なる神さまだと思っています。
 キリストは、ご自分を偽ることがおできにならないのです。すなわち、ウソをつくことができない。わたくしはあのとき、それは本当に本当なんだと教えられたのです。キリストがそうですから、神さまもそうです。
 そのように、神はウソをつくことがおできにならない。だから神は全能ではないと言うのでしょうか?‥‥もうお分かりだと思いますが、神の全能と言った場合、それは正しい方としての全能ということです。悪の全能ではありません。善の全能です。義なる神、正しい神としての全能であるということです。
 神は正しい。正しいということは、言い換えると悪を行わない。また悪に対しては罰するということになります。それはそうだと思うんです。悪を見逃していたら、正しいとは言えないからです。悪を見逃さないで罰する。だから正しいとも言えるわけです。そこまでは私たちも、そうだと思う。しかしこれが、私たちが神さまにそむいて罪を犯したということになると、風向きが変わってまいります。天地創造のことが書かれているのは創世記の1章です。そして早くも創世記第3章で、人間が神さまを信じなくなって罪を犯したことが出てきます。そのために人間が死ぬこととなったと書かれています。罪に対する罰は死です。
 神が正しい方である、義なる方であるがゆえに、罪人となった私たち人間は裁きを受けて死ぬこととなった。そういうことになります。そうすると、神の全が正しさにおける全能だということだけでは、そこで終わってしまうことになります。
 
   愛の全能
 
 そこで登場するのが、神についてのもう一つのキーワードです。それが「愛」です。前回、神が天地の造り主であることについて学んだとき、ヨハネによる福音書の冒頭の箇所を読みました。そこでは、初めに「言」(ことば)と呼ばれるキリストが神と共にあったこと、そして万物は言によって成ったことが書かれていました。すなわち、すべてのものはキリストによって存在するようになったということでした。それはすなわち、神が愛によって世界をおつくりになったということであると申し上げました。キリストは愛だからです。イエスさまのご生涯を見れば、そのことは明らかです。
 このことによって、神はこの世界を愛によってお造りになったということ、この自然も愛によってお造りになったこと、そして何よりも、愛によってこの私たちをお造りになり、命を与えられたということだと申し上げました。
 ここで、先ほど申し上げた神の義、すなわち神の正しさとの関係が問題となります。神は正しい。それゆえ神に背いて罪人となってしまった人間を罰せざるを得ない。正しい方であるからこそ、悪を罰する。しかし、それはすなわち私たち人間を罰するということになります。
 しかし同時に、今見ましたように、神は愛です。正しいと同時に愛。愛は、罪を犯した人間を赦そうとする。救おうとする。しかし神は同時に正しい方ですから、正しいということは悪を罰せざるを得ない。すなわち、罰するということと、赦すということと、2つのことが同時になされなければならなくなります。その神の義と神の愛がクロスするところに十字架があるわけです。神の御子であるイエス・キリストが十字架にかかったというのはそういうことです。これについては、使徒信条のキリストの項目でまたていねいに触れることになります。
 神の全能について触れている聖書の言葉で、忘れてはならない御言葉に、受胎告知の場面があります。ガリラヤのナザレの村に住んでいたおとめマリア。このマリアさまのところに、ある日天使ガブリエルが遣わされます。そして「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」とマリアに語りかけます。そしてマリアが男の子を産むから、その子をイエスと名付けなさいと告げる。そしてその子は「いと高き方の子」と呼ばれることを告げました。その受胎告知の物語の中で、天使がマリアさまに告げた言葉ですが、「神にはできないことは何一つない。」(ルカ1:37)
 神は全能だということです。それに対してマリアさまは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。「神にはできないことは何一つない」と告げた御使いにたいして、マリアはすべてを神にゆだねたのです。それはただ神にできないことはないからゆだねたというのではないでしょう。神が愛であることを信じてゆだねたのです。
 こうして、全能の神といった場合、それは機械的に何でもできるということではなく、正しさと愛とに裏打ちされた全能であることが分かります。
 
   苦難の問題
 
 さて、そのように神が全能であるということについて考えていったときに、もう一つ重大な疑問が浮かんでくると思います。それは、「神がそのように義であり愛である上に全能であるとしたら、なぜ苦しみが存在するのか?」ということです。
 例えば、ロシアによるウクライナ侵略戦争が思い浮かぶでしょう。「なぜ神が全能であるならば、あのような悲惨な戦争が起きるのか?」と。しかし、戦争は神さまが起こしたものではなく、人間が起こしたものです。つまり人間の罪があのような現実を引き起こしているということです。
 ただ、人間の罪によって引き起こされる苦難ばかりではありません。このことを、旧約聖書のヨブ記を例に挙げてみたいと思います。ヨブという人は、東の国一番の富豪でした。多くの家畜を持ち、多くの財産を持っていました。ただそれだけではありません。ヨブは全く神を畏れ、悪を避け、神を心から礼拝して生きている人でした。しかし貧しい人や困っている人を助けて生きていました。それゆえ義人ヨブといわれます。まさに非の打ち所がないように見えるのがヨブという人でした。
 ところが、そのヨブにある日突然不幸が襲います。それも並大抵の不幸ではありませんでした。まず、ヨブの家畜がみな略奪される。羊も羊飼いも死んでしまう。ラクダも略奪され牧童たちが殺される。さらには、ヨブには7人の息子と3人の娘がいたのですが、それが大風によって家が倒れて皆死んでしまう‥‥。このような不幸が一気に、たたみかけるようにヨブを襲います。
 なぜこのような不幸が襲ったのかということですが、これには天上の世界における神さまとサタンとのやりとりがあったのです。神さまはサタンに、ヨブのように神を畏れ悪を避けて生きている無垢な者はいないと言う。それに対してサタンは、いやいや、それは神さま、あなたがヨブを守っているからですよ、ヨブの持ち物を奪えばヨブはきっとあなたを呪うでしょうと答える。すると神さまは、「それでは彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。」とおっしゃって、サタンがヨブを苦しめるのをお許しになった。ただしこのことは天上の世界のやりとりであって、そんなやりとりがあったことはヨブは知りません。したがって、ヨブにとっては理由の分からない悲劇であり苦しみとなるのです。しかしヨブは神を非難することをしなかった。それでさらにサタンは、ヨブの健康を奪い、ヨブは全身にできものができて、苦痛とかゆみのために体中をかきむしって夜も眠れないほどに苦しみます。理由の分からない苦しみです。絶望的です。
 そのようなヨブの苦しみを聞いて、遠くから友人たちがヨブを見舞いに来ます。慰めるために。そしてその友人たちとヨブとの議論が始まる。今度は、慰めに来たはずの友人たちの言葉がヨブを苦しめます。友人たちは、ヨブが何か罪を犯したから、その罰として苦しみが来たのだというのです。しかしヨブはそれを認めない。実際、理由があって苦しみがあるのなら、まだいいのです。しかしヨブの場合は、理由の分からない苦しみです。
 それで最後はどうなったかということですが、友人たちとの議論の果てに、神さまが登場いたします。主が直接ヨブに語りかける。その最初の言葉はこうです。「これは何者か。知識もないのに言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(ヨブ記38:2)。
 神の経綸というのは、神さまがこの世界を治めている仕方のことです。ご計画と言っても良いでしょう。神さまにはご計画があるということです。そうして主は、ヨブに、神の圧倒的な創造の力と全能の力についてとくとくと語って聞かせます。その神の前に人間はへりくだるしかない。
 そしてヨブが答えたのが、先ほど読んだヨブ記の42章の言葉です。1節「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」5〜6節「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」‥‥ヨブは、神さまに直接お目にかかった。それで納得したのです。神さまのほうはなぜこのような苦難がヨブに臨んだのかということを、明らかにしておられません。しかしヨブは納得した。それは神に出会うことによって納得したのです。
 そのように私たちは、神さまに、またはイエスさまに出会うことによって解決するのです。私も、主に出会う経験をしたときに問題は解決しました。失望は希望に、苦しみは感謝へと変えられました。
 そしてヨブ記では、そのあと神がヨブに祝福を返してくださったのです。ヨブ記の最後のところ、42章12節は口語訳聖書では次のようになっています。「主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。」‥‥私は本当にこの個所が好きなんです。主は、信じる者を決してお見捨てになりません。その最後を、最初よりも多く恵まれるのです。その恵みとは、物質的なものではないかもしれません。むしろ霊的なものです。神さまだけが与えることのできるものです。そして究極は、神の国の祝福です。かけがえのないものです。
 ヨハネの黙示録1章8節に書かれていました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」‥‥アルファ、それはギリシャ語のアルファベットの最初の文字です。オメガ、それは同じく最後の文字です。すなわち、私たちの主である神は、最初の方であり最後の方です。初めであり終わりです。万物の根源であり帰趨するところです。その神さまにイエスさまによってつなげられる。そこに私たちの一切があります。
 したがって、神の全能とは、この私のような罪人でさえお救いになることができるという全能に他なりません。感謝と言うほかはないのです。


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