2022年6月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記1章1〜5
    ヨハネによる福音書1章1〜3
●説教 「私たちのルーツ」−使徒信条連続講解説教(2)−

 
   神による創造
 
 使徒信条の連続講解説教。本日は第2回目となります。使徒信条の最初の一行「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、きょうは「天地の造り主」ということについて、神さまの恵みを分かち合いたいと思います。
 きょうは創世記1章の初めのところを読んでいただきました。文字通り、聖書の第1頁、全聖書の最初の言です。「初めに、神は天地を創造された。」
 この中で「地」は、私たちが生きて生活しているこの地上、つまり地球を指しています。そして「天」とは、地球以外のものを指しています。ですから今日流に言い換えると、「初めに神はこの宇宙をおつくりになった」ということになります。
 内村鑑三はこのことについて、次のように述べています。「まことに偉大なることばである。これにまさるのことばは、天上天下ほかにあろうとは思われない。」
 まさしくその通りであります。私も、これに優る言葉は世界のどこを探しても他にないと思います。この言葉は、私たちの生きている世界が何であるかを一言で言い表しているばかりではなく、世界の存在とその中に生きている私たちの存在に意味を与えるものです。この言葉をゆっくりと、繰り返して朗読しますと、深い感動が伝わってきます。
 また内村鑑三は、この御言葉から聖書について説いています。‥‥「聖書は創世記をもって始まり、黙示録をもって終わっている。創世記は天地創造の記録、黙示録は天地完成の記録である。「はじめに神、天地をつくりたまえり」というに始まり、「われら新しき天と新しき地を見たり。さきの天とさきの地はすでにすぎたり、海もまたあることなし」というに終わっている。こんな偉大なる書はほかにない。国民史にあらず、世界史にあらず、宇宙史である。宇宙が成りし由来、その目的、その終極、これをしるしたものが聖書である。しかも泡のごとくにあらわれて泡のごとくに消えたというのではない。ある確実なる目的をもって造られ、その目的が完成せられて終わったというのである。愛の神よりいでて神に帰ったというのである。」
 これもまたその通りであると、大きくうなずけます。そしてこのようなことを記す書物は、聖書以外にないと思います。
 
   初めに
 
 全聖書の最初の言葉は、「初めに」という言葉です。「初めに」と書かれている。初めがあったんです。この世界には初めがあったんです。しかしそれは突然、何の脈絡もなく発生したのではない。初めの前に、神が存在していたのです。それが聖書が証しする神であり、使徒信条が言うところの神です。
 旧約聖書の出エジプト記で、モーセが神さまから任務を与えられる、いわゆるモーセの召命と呼ばれる箇所があります。そこに聖書で一箇所だけ、私たちの神さまがご自分で名前を明らかにしているところがあります。出エジプト記3章14節です。そこで神さまがモーセにおっしゃった名前は、「私はある」という名前でした。一見、変な名前に聞こえます。しかしよく考えると圧倒されるような名前です。「私はある」と主は、ご自身の名前を明らかにされました。「私はある」。存在ということです。
 「私はある」と言われると、私たちは「いや、私も存在していますけど」と言いたくなります。しかしどうでしょうか? たしかに、私たちは今この時点では存在しています。しかし百年前にはどうだったでしょうか? 千年前にはどうだったでしょうか?‥‥影も形もありません。また反対に、百年後に私たちは存在しているでしょうか? 千年後にはどうでしょうか?‥‥この百年とか千年とかいう時間は、宇宙が誕生してから138億年と言われるのに比べると、ほんの一瞬も一瞬、まばたきする間にもなりません。そう考えると、本当に「私はある」と言うことのできるのは、この神さまだけだと言うことになります。
 そしてその神さまが、始められた。宇宙は意味もなく突然発生したのではない。神が始められたと言っているんです。そこで私たちは安堵いたします。神によって創造された宇宙、この世界。そして私たち。神が創造されたといった時、そこに意味が出てきます。世界の存在の意味、私たちの存在の意味です。
 
   光あれ
 
 その初めの前の状態が、「混沌」であったと書かれています。この混沌という言葉ですけれども、もとのヘブライ語では2つの単語になっていて、トーフー、ボーフーという言葉が並んでいます。口語訳聖書はこれを「形なく、むなしく」と訳していますが、そういう意味です。形もなく、なにもなかったということです。「水」という言葉が出てきますが、これは文字通りの水という意味ではなく、液体やガスのように底知れぬような流動体のことです。
 そしてついに神の創造のわざが始まります。それは神が言葉を発せられることで始まったと聖書は記しています。神は言われた、「光あれ」。こうして光があった。神が「光あれ」と言葉を発せられると光が生まれたというのです。言葉を言われたということは、光があるように望まれたということになります。神の意思が示されているのです。そして最初に光が存在した。
 私たち人間が最初に造られたのではありません。私たちにとって必要なものが最初に造られたのです。そしてその最初が光であったというのです。
 
   科学と聖書
 
 聖書は科学の書物ではありません。むしろ科学の扱えないところを述べています。宇宙誕生の瞬間のことは科学によってある程度解明されるかも知れません。しかし、宇宙が「なぜ」誕生したかということは、科学では分からないと思います。しかし聖書はそういうところを述べているのです。
 しかし一方、聖書はまったく科学に反することを述べているかと言えば、これもまたそうではないと思います。少なくとも、科学的に見ても聖書は決して荒唐無稽なことを述べていません。
 むしろ、昔の人のほうが聖書の記述を非科学的だと言って笑ったことでしょう。むかしは、時間というものは始まりもなく終わりもない、永遠にぐるぐると回っている円のようなものだと考えられていました。万有引力の法則を発見したニュートンも、宇宙は始まりも終わりもないものと考えていました。
 そういう意味で言えば、むしろ現代科学のほうが、聖書の説明に近づいていると言えるでしょう。宇宙がビッグバンと呼ばれる大爆発によって始まったという理論が提唱されたのは、20世紀になってからのことです。現在では、宇宙には始まりがあったというのが定説となっています。それは今から138億年前のことであったとされています。その宇宙は、一点から始まったと言います。その一点とは、非常に小さな、大きさのない一点だそうです。大きさがない点というものが私たちには想像することができませんが、そんなに小さい点から始まったと言います。そしてそれはその一点が急速に膨張する、ビッグバンと呼ばれる火の玉となって爆発して拡大し始めたと言います。そうして始まった宇宙は、今もものすごいスピードで膨張を続けていると言います。その膨張する宇宙の中に物質が生まれ、やがて星が生まれ、今のような宇宙になっていったと。‥‥
 現代科学で解明されたこのことを昔の人が聞いたら「ばかばかしい」と言って一笑に付したことでしょう。しかし科学は聖書の書くことに近づいたのです。
 私がこどもの頃、アメリカのアポロ宇宙船が月に行きました。そして人類が始めて月に降り立ちました。その月から映し出された地球は衝撃的でした。テレビ画面に映し出された月から見た地球というのは、まるで私たちが地球から月を見ているようでした。宇宙空間にぽっかりと浮いている天体に過ぎませんでした。
 私たちの生きているこの地球は、天体の一つに過ぎない。そしてそれは太陽系に8つある惑星の一つであるに過ぎない。そしてその巨大な太陽も、太陽系が属している銀河系でいうと、銀河系の中に2千億〜4千億個もあるという恒星の一つに過ぎない。そしてその巨大な巨大な銀河系も、同じような銀河がこの宇宙には、観測可能な範囲だけでも2兆個もあると言います。‥‥まさに気の遠くなるような巨大な宇宙です。
 よく「キリスト教は外国の神で、日本には日本の神さまがある」と言う人がいますが、月から地球を見ただけでも小さな地球ですし、そこには国境が見えませんでした。それが宇宙のスケールで言ったら、もう目に見えないほど小さいわけです。外国も何も区別すらつきません。そして聖書は外国の神さまどころか、宇宙規模で考えているんです。
 その広大な宇宙も、138億年前は、大きさもないような小さな一点から始まったという。そして誕生して間もない宇宙は、言ってみれば「光の海」という状態だったと、ある宇宙物理学者は言っています。そしてその光は、神の意思によって生まれた。無意味に生まれたのではないことを、聖書は力強く記しています。
 
   キリストによって創造された
 
 今日は創世記の初めの他に、新約聖書のヨハネによる福音書の最初の箇所を読んでいただきました。ここにはまた驚くべき、天地創造の秘密が明らかにされています。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言葉によらずになったものは何一つなかった。」‥‥そう書いています。
 この「言」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストが「言」と言われてる。そして神と共にあったと言われている。そしてそれは神であると言われている。そして、万物は、すなわちすべてのものは、この言葉であるイエス・キリストによって成った、すなわち、できたと書かれています。
 今日はこのことについて語ることは控え、後日に譲りたいと思います。しかし少なくとも、創世記の最初、神が天地を創造された時、イエス・キリストがそこに関わっておられたということだけは分かります。ここに至って、私たちは、この世界が神の意思によって誕生したことを知るばかりではなく、それが愛によって誕生したことを知るに至ります。なぜなら、イエスさまは愛そのものだからです。
 これらのことは科学では分からないことです。この宇宙、この世界、そしてその中に存在するもの。それらは神の意思によって生まれた。そしてその神の意思というのは、イエス・キリストによって示される、神の愛の意思によって生まれた。これが聖書の記す、天地創造です。
 
   生きる意味と目的
 
 ここに初めて、私たちの生きる意味と目的が分かってまいります。もし神なき宇宙を考えたらどうでしょうか? すなわち、宇宙は何の意思も意味もなく偶然誕生したのであると考えるとどうなりますか?‥‥そこに私たちが生きる意味というのはあるのでしょうか? 偶然地球ができて、偶然生命が発生し、人間もまた偶然進化してできたのであり、私たちもまた偶然生まれて、寿命が尽きて死んでいくだけだとしたら‥‥。そんな人生に意味があるのでしょうか? もう、やりたいことをやって死んでいくだということになってしまいます。なんの意味も生まれません。
 それに対して聖書が述べていることはどうでしょう。神こそが存在しているのです。神が始められたのです。この世界は神によって造られたのです。そしてそこには、私たちを救うために十字架にかかって命を捨ててまで私たちを愛してくださるイエスさまが関わっておられたのです。このことを知った時に、生きる意味が生まれます。私たちが愛されて造られたことを知ります。神が私たちを造られた目的を知るという喜びが生まれます。そして地上のほんの一瞬の人生を生きる私たちが、永遠の神のもとに向かって歩んでいくという目的が与えられます。
 このことこそ、教会が世の中の人々に向かって語っていくべき、喜ばしい知らせであるに違いありません。


[説教の見出しページに戻る]