2022年6月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記15章6
    ローマの信徒への手紙10章9〜13
●説教 「信じるこころ」使徒信条説教(1)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず

 
   洗礼と神の国
 
 ただ今は洗礼式が行われました。洗礼を受けると教会員になります。ただここで覚えておかなくてはならないことは、それは単に逗子教会という一つの教会の教会員になるにとどまらないということです。
 たとえば、子どもが生まれて出生届を逗子市役所に届けた場合を考えてみましょう。そうすると生まれた子どもは、逗子市民になります。しかしそれは、単に逗子市民になっただけではなく、日本国民になったということでもあります。逗子市民になったけれども日本国民にはならないということはありません。逗子市役所に届けを出せば、自動的に日本国民になります。そしてそれはさらに、世界の人口がひとり増えたことにもなります。
 それと同じように、逗子教会で洗礼を受けたということは、すなわち日本基督教団の教会員になったということです。さらにそれにとどまらないのが教会のすごいところです。逗子教会で洗礼を受けたということは、それはすなわち、目には見えないけれども世界の一つのキリストの教会の一員に加えられたことになるのです。そしてそれは、神の国の一員として迎えられたということになります。ですから、今神の国では大きな喜びがあるということになります。イエスさまが次のようにおっしゃっているからです。
(ルカ15:10)「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」‥‥この場合の「罪人」というのは、もちろん私たち一人一人のことです。そのように、逗子教会は天国の入り口、もしくは出張所にすぎないのであって、そこで洗礼を受ければ神の国の一員となるのです。
 そしてこれは逗子教会や日本基督教団に限らず、どこの教派の教会であっても同じです。バプテスト教会で洗礼を受けても、ホーリネス教会で受けても、ペンテコステ教会で受けても、あるいは聖公会でも、ローマ・カトリック教会でも、ギリシャ正教会でも同じことです。どこで洗礼を受けても、目に見えない世界の一つのキリストの教会に連なるということであり、神の国の一員となるのです。
 なぜそう言えるか? それはもちろん同じイエス・キリストを信じるからですが、それを具体的に言うと、信仰告白が同じであるという言い方になります。同じ信仰なんです。その同じ信仰であるということが、基本信条を共有しているということになります。
 
   使徒信条
 
 基本信条というのは、むかし教会が本当に一つであった時代にできた、信仰の内容を表した文章です。信条は、信仰告白とも言います。それが同じである教会。日本基督教団でも、その他のプロテスタント教会でも、カトリック教会でも、聖公会でも、また正教会でも同じ。同じ信仰に立っている。その同じ信仰に立っていることの証しが、基本信条です。そして、今日から学ぶ使徒信条は、最も古い基本信条の一つです。
 基本信条に述べられている信仰を共有しているから、どの教派のどの教会で洗礼を受けても、世界で一つのキリストの体なる教会に所属していると言えます。しかし逆に、それを共有していないのならば、その団体がキリスト教の看板を掲げていたとしても、キリスト教会ではありません。たとえば、家に訪ねてきて「聖書を学びませんか」という団体がありますが、その団体は基本信条を共有していませんからキリスト教とは言えません。また、かつて霊感商法で有名になった団体、それも基本信条を共有していませんから、キリスト教ではありません。いくらイエスさまを信じていると言っても、イエスさまをどのように信じているかというところが違っている。だからそれらの団体はキリスト教会とは言えない。「今までのキリスト教は間違っていた。わが団体の教祖こそが、真理を明らかにした」などというのは、私たちの信仰とは違っています。
 なぜなら、私たち教会の信仰というものは、イエスさまから使徒たちに伝えられ、その使徒たちが次の世代に伝えていき、そうしてずっと変わることなく伝え続けられている信仰だからです。聖書のコリントの信徒への手紙一の15章3節に次のように書かれています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」これはパウロの書いていることです。パウロが世界に出ていって宣べ伝えているキリスト信仰は、「わたしも受けたもの」であると語っています。パウロが語っているイエス・キリストは、パウロの作り話でも、あるいはパウロが書き換えたものでも付け加えたものでもない。パウロ自身も受けたものであると言っています。
 こうして、リレー競争で、バトンを次の人に確実に手渡していくように、そのバトンに相当するものが基本信条だということができます。
 もちろん私たちの信仰の基準は聖書です。しかし聖書はページ数が多く分厚いものです。それで結局聖書は何を語ろうとしているか、誤って解釈してしまうことになりかねません。しかし使徒信条などの信仰告白は、聖書の言わんとすることを、神の御心に従ってまとめたものです。
 逗子教会の主日礼拝では、「日本基督教団信仰告白」を2011年に礼拝説教で扱いました。私が逗子に来た年です。日本基督教団信仰告白は、その最後の部分が使徒信条になっています。しかし、そのときは使徒信条の前の所で説教を終わってしまいました。ずいぶん間があきましたけれども、今日からその続きをここで学び、主の恵みを分かち合いたいと思います。
 
   我は信ず
 
 それで使徒信条を最初から順番に扱っていきたいと思いますが、今日は最初の一行「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。と言っても、この最初の一行だけでも、その言っている内容は、たいへん多くのことを言っています。とても1回では扱いきれません。ということで何回かに分けて学んでいきたいと思います。
 それで今日は、この「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」というところの、「我は‥‥信ず」という部分だけを取り上げます。「我は」と「信ず」では、真ん中が抜けているように見えますが、英語では次のようになります。
 I believe in God the Father Almighty, Maker of heaven and earth.
「I believe」が最初に来ています。「私は信じる」と。この「信じる」ということについてです。
 この「我は」すなわち「私は」という最初の言葉。使徒信条は、教会の信仰を言い表したものだから「我は」ではなく「我々は」が正しいのではないか、「我々は信じる」と言ったほうが良いのではないか?と思うかも知れません。たしかに、きょうも礼拝の中で使徒信条をご一緒に唱和しますから、「我々は」のほうが正しいような気もします。
 しかしやはり使徒信条が「我々は」ではなく、「我は」としていることには大きな意味があると思います。つまりたしかに教会は、神さまイエスさまを信じる者の集まりですけれども、それは何か烏合の衆というのではなくて、神さまイエスさまを信じる一人一人の集まりであるわけです。言い換えれば、「私は信じる」という一人一人の集まりが教会であるということができます。私という個人の応答が求められているのです。
 よく、日本人は「みんなやっているから」という言葉に弱いと言われます。「みんなそうしている」「みんな言っている」「みんなそんなことしていない」‥‥そう言われると「じゃあ自分もそれに合わせよう」というのが日本人の特徴だと。
 たしかに協調性は大事です。みんなに合わせるのが大事な場合もあるでしょう。しかしみんなやっているようにやっていて大丈夫なことと、それではダメなことがあると思います。例えば、「みんな赤信号で渡っているから、自分も渡ろう」ではいけない。あるいは「みんな穴に落ちているから自分も落ちよう」では、まちがっているわけです。
 そうすると「我々は信じる」というところから、「私は信じる」「我は信ず」というときに、やはり自立していると思います。加藤常昭先生は、次のように述べておられます。‥‥"「我は信ず」と、私ひとりの信仰を、私ひとりのこととして言い表すことによって、私は初めて、自由な人格として、自立して立つことを知ります。人間として初めて神の前に直立することができるようになります。真実の自由を学ぶのです。"
 「みんなそうしているから自分もそうしよう」という世界から、「私は神を信じる」というところに踏み出す。そのときそこに自由がある。初めて自由な人格として自立する。自分自身を振り返った時、たしかにそういうことだったなと思い出します。信仰告白式に臨んだ時、これからは自分は神さまとイエスさまを信じて歩むのだと、なにか自分の足で立てたような感じがありました。
 
   信じて告白する
 
 きょう読みました聖書、ローマの信徒への手紙10章10節にこう書かれています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
 「信じる」ということ。これは何か「信じ込む」ということとは全く違います。たとえば「イワシの頭も信心から」という言い方があります。これは、イワシの頭ようなものでも信じるという心が大切なのであって、信じる対象はなんでも良いのだというような意味で使われます。
 しかしこれは聖書で言う「信じる」ということとは全く違います。聖書で言う「信じる」という言葉は、「信頼する」という意味です。「わたしはあの人を信頼する」という時の「信頼」です。そうすると、どう考えてもイワシの頭は信頼することができません。そういうものに人生を預けることはできません。そもそもイワシの頭には人格がありません。
 「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」この「言い表して」という言葉は他の聖書の訳では「告白して」という訳になっています。信仰告白の告白です。
 信じるとは何か? そしてまた、なぜ心で信じるだけでは足りないのか? 口で告白することが必要なのか?
 これらのことは、結婚にたとえることができます。結婚をするという時、どうして結婚することができるのでしょうか? もし「相手のことを全部知ってから結婚する」ということになりますと、おそらく結婚することのできる人は一人もいなくなってしまうでしょう。というのは、相手のことを全部知るためには、一生が必要です。ということは結婚するという時は、相手のことが十分わからないまま結婚するわけです。相手のことが十分わからないのに、なぜ結婚できるかといえば、それは相手を信じるから結婚できるわけです。「この人と結婚すれば幸せになれる」と信じる。だから結婚できる。
 神さまを信じるという時も、似たようなことが言えます。神さまのことが全部分かってから洗礼を受ける、ということになりますと、世界中に一人も洗礼を受けることのできる人はいないでしょう。なぜなら神さまは永遠、無限の方だからです。神さまのことを全部知るためには永遠の時間が必要です。けれども神さまのことはまだよく分からなくても洗礼を受けることができるのは、イエスさまを信頼して洗礼を受けるわけです。それが聖書で言う「信じる」ということです。
 また、「口で告白する」というのも同じように結婚にたとえられます。告白なしにプロポーズできるでしょうか? いくら心の中で相手への思いがあったとしても、口で告白しなければなりません。口で告白し、結婚式を挙げ、婚姻届を出す。すべて告白です。
 神さまとイエスさまを信じて救われるというのも同じです。自分の口は、神さまが造ってくださった口です。その口で「我は信ず」と告白する。そこに神さまに対する礼儀というものがあるのです。神さまが与えてくださった自分の命、神さまが与えてくださった口、その口で「我は信ず」と告白すべきなのです。そうして救われる。
 信仰というものは、理屈でいうよりも実践してみることが大事という部分がありまして、「口で言い表す」ということも実践してみると分かってきます。自分一人で聖書を読む時、もちろん黙読することもけっこうなのですが、ときどきゆっくりと声に出して読んでみる。また自分一人で祈る時も心の中で黙祷しても良いのですが、時には小さな声でも良いですから声に出して心をこめながら祈ってみる。そうすると違ってきます。そして時には声を出して信仰を告白してみる。「イエスさま、私はあなたを信じます。信仰のない私を助けてください。イエスさまは私の救い主です。‥‥」というようにです。
 どうぞ、この一週間、主を賛美告白する一週間でありますように。


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