2022年6月5日(日)逗子教会 ペンテコステ主日礼拝説教
●聖書 詩編148編11〜13
    使徒言行録2章14〜21
●説教 「終わりが来る前に」

 
   ペンテコステ
 
 今年もペンテコステの祝日を迎えることができました。ペンテコステは聖霊降臨祭と呼ばれますが、それはまた教会の誕生日です。すなわち聖霊が降臨したことによって教会が誕生したのです。
 聖霊は神の霊ですから、教会は神さまによって作られたことになります。なぜ神さまは教会という集まりをおつくりになったのか。それはもちろん神を礼拝するために決まっているわけですが、教会に与えられた使命というものがあります。そしてそれは復活のイエスさまが弟子たちにお命じになった言葉が表しています。
(マタイ 28:18〜20)「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 世の中の人々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝える。イエスさまは、その教会と共に、世の終わりまで共にいて下さるとおっしゃいました。このことを改めて覚えたいと思います。そしてその教会がまさに神さまによって建てられたというのがペンテコステのお祝いの意味することです。
 
   聖霊きたれり
 
 ペンテコステは日本語で「五旬祭」と呼ばれまして、それ自体は旧約聖書に記されているユダヤ人のお祭りです。別名は「七週祭」または「刈り入れの祭り」とも呼ばれます。ちょうど小麦の刈り入れの時です。首都エルサレムには、この祭りを祝うために、各地に住んでいたユダヤ人がエルサレムに戻ってきていました。そしてそのペンテコステの日に、聖霊は来られたのです。弟子たちは、イエスさまが天に帰られる前に約束なさっていた聖霊を待って、集まって祈り続けていました。そしてこのペンテコステの日に聖霊は来られました。
 今日の聖書箇所で、集まった群衆に向かってペトロが「今は朝の九時ですから」と語っています。朝の九時。それはイエスさまが十字架にかけられた時刻でもあります。(マルコ15:25)。その朝の九時に聖霊が来られたということは、イエスさまが十字架にかかって下さったからこそ、聖霊が来られた。そのことを指し示しています。イエスさまが十字架にかかられなかったら、聖霊は来られなかったのです。改めてイエスさまの十字架の恵みを思わせられます。
 神の霊が来られた。そう言いますと、どんな天変地異が起こるのか?どんな仰天するような光景が展開するのか?‥‥などと思いますが、考えてみれば聖霊は霊ですから目に見えないわけです。目に見えないから分からないと思いますが、聖霊という言葉はギリシャ語では「風」という言葉と同じです。風も見えません。しかし木の葉が揺れたり、洗濯物が揺れているのを見て、風があることが分かります。聖霊もそれと同じで、聖霊そのものは見えませんけれども、聖霊が働いた結果起こることで分かります。
 もっとも、この最初の聖霊降臨の時は、「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」(2節)、「炎のような舌が分かれ分かれに現れて」集まっていた弟子たちの上にとどまった(3節)という目に見える現象が起きました。つまり最初にこの時だけは、「たしかに聖霊は来られた」ということを、はっきり分からせるために、神さまはそのようになさったのです。そして最初のこの時だけ、そのようにして聖霊が来られたのが分かるようにさせた目的が、神さまにはもう一つありました。それがその物音を聞きつけて、エルサレムの街中から人々が集まってきたということです。言わば神さまが集めたんです。
 また弟子たちは聖霊に満たされて、今まで自分たちが知らなかった外国語で口々に神の偉大な働きを語り始めました。
 
   ペトロ立つ
 
 そのようにして、神さまは群衆をお集めになり、舞台を用意されました。そして聖霊に満たされたペトロをはじめとした使徒たちが立ち上がって群衆の前に出て行き、今起こっている出来事について説明を始めたのです。説明と言うよりも、これは説教と言うべきでしょう。キリスト教会最初の説教です。
 ペトロは「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」と言っています。これは、弟子たちが聖霊に満たされて、口々に外国語で神を賛美しているのを聞いて、集まった群衆の中の一人が「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ったことを受けてのことです。
 こうして語り始めたペトロは、イエスさまの十字架と復活を語ります。しかも大胆にも、そのイエスさまが神が送ってくださった救い主であり、主であると言う。そしてそのイエスさまを「あなたがたが十字架につけて殺した」と言って群衆の罪を告発するのです。すごいと思いませんか? そんなこと言ったら、みんな反発して怒り狂うのではないかとさえ思います。しかし結果はどうだったかというと、聞いていた多くの人々が悔い改めて、使徒たちの勧めるままに洗礼を受けたのです。その人々の数は三千人にものぼりました。
 これは聖霊の働きではありませんか? 人間の力では絶対にできないことです。伝道というと、なにかハードルが高いように感じますが、このペンテコステの日はどうでしょうか? 神さまがしてくださったのです。そしてこちらが招いたわけでもないのに、あちらの方から人々が集まってきたのです。これは聖霊の働きです。そして繰り返しになりますが、このペンテコステの日の前には、イエスさまの約束を信じて皆で祈って待っていた、ということがありました。
 そしてまたペトロたちが群衆の前に立って、イエスさまの十字架と復活について力強く説教したということ。これも聖霊の働きです。思い出していただいたいのです。ペトロをはじめとした使徒たちは、イエスさまが十字架にかけられる前、イエスさまを見捨てて逃げて行ったということを。そしてペトロは、「お前もイエスの仲間だろう」と言われて、「そんな人は知らない」と言って3度も否認しました。そういう弱い、罪深い弟子たちであった。
 それが今や、おおぜいの人々の前で大胆にイエスさまのことを語り、しかも「あなたがたが十字架につけて殺した」と言ってその罪を大胆にも指摘している。これもまた聖霊の働きです。
 こうして、教会が誕生したことが、人間の力によるものではなく、聖霊の働きであることが分かります。聖霊は目で見ることはできないが、その働いた結果は分かる。このようにして聖霊なる神さまがたしかに来られてお働きになっていることが証しされているのです。そして現在の教会の存在もまた、聖霊の働きを証ししているのです。
 
   終わりの時
 
 今日の聖書箇所で、ペトロは旧約聖書の預言者ヨエルの預言を引用して語っています。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」
 神が語られたのです。神が語られた。ここに聖書の圧倒的な重みがあります。
 「終わりの時」というのは、この世の終わりの時です。しかしその「時」というのは、一瞬の時のことではありません。「終わりの時代」ということです。終わりの時代が始まったと言われるのです。それはどこから始まったかと言えば、イエス・キリストが来られたことによって始まった。それが終わりの時代です。ですから、今は終わりの時代の中を私たちは生きているのです。
 その終わりの時代は、決して平坦ではない。そこに書かれているように、天変地異も起こるし、イエスさまが予告なさっていたように戦争も起きる。それは困難な時代です。そして「主の偉大な輝かしい日」という言葉があります。これは神によって歴史が閉じられる日です。言い換えれば、万物が神の手に帰す日であり、キリストの再臨の日です。
 
   すべての人に
 
 しかしその終わりの前に起きることがある。それが、神が言われた言葉で「わたしの霊をすべての人に注ぐ」(17節)ということです。「わたしの霊」、すなわち神の霊です。神の霊‥‥それは言ってみれば、神さまの命の一部を人間に分け与えるかのように聞こえます。大切な、大切なものであることには違いありません。そのようなものをくださるという。畏れ多いことです。
 しかもそれを「すべての人に」注ぐと言われました。旧約聖書の時代は、聖霊は預言者や、特別に選ばれた人だけに注がれました。しかし今や、そういう特別な人にだけと言うことではなくなった。それが「すべての人に」ということです。そしてこの「すべての人に」というのは、誰彼かまわず全員ということではありません。つまり世界中のすべて人が自動的に、ということではありません。
 21節を御覧ください。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。「救われる」ということと、聖霊が注がれるということは同じことです。キリストを信じて神の霊が注がれて救われるからです。すなわち、「主の名を呼び求める」者は「すべて」ということです。主の名、キリストの名を呼び求める、信じたいと願う者には誰にでも神の霊、聖霊がが働き、救われる。そこには17節と18節に書かれているように、息子と娘の違いもなく、若者と老人の違いもない。僕やはしためであっても同じように救われる。つまり身分の違いも、年齢の違いも、男と女の違いもないのです。
 もちろん、罪人であっても、どんなにひどい罪人であっても、です。そこで言われている条件は「主の名を呼び求める」ということです。そこでまさに今年の当教会の主題聖句につながります。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7〜8)
 ここにも条件は付けられていません。求めれば与えられる。救いが与えられるのです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。イエスさまが十字架にかかってくださったおかげです。そのおかげで、罪人である私たちも救われるのです。
 
   幻と夢
 
 もう一つ今日の聖書の言葉に注目したいと思います。
 「すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17節)
 この「幻」「夢」は、実際にはあまり厳密な区別がありません。若者が大きな夢を持たなくなったと言われて久しい。また老人のほうは、平均寿命は延びましたが、あとは死ぬ準備をするだけという人が多いように思います。とても夢を見るどころではないという人が多いでしょう。
 しかしこの御言葉は、聖霊が注がれた結果、「若者は幻を見、老人は夢を見る」というのです。旧約聖書の伝道の書、新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」という名前に変わりましたが、そこにこんな言葉があります。
(伝道の書 12:1)"あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に"
 きつい言葉ですが、愛情のこもった言葉ですね。何も若い時に造り主である神さまを信じなかったから「もう遅い」ということはありません。主を求め始めた時が始まりです。
 今月号の「こころの友」を、皆さんお読みになったでしょうか?今月号は、星野富弘さんが表紙を飾っています。星野富弘さんは、むかし中学の体育の先生をしている時に事故で体の自由を失いました。首から下はまったく動かなくなりました。しかし不思議な導きで、キリストのもとに導かれてクリスチャンとなりました。そして、口で書いた絵と詩が評判となっていきます。作品を見ながら泣く人もいました。星野さんは「与えられるばかりだと思っていた自分が、人に何かを与えていることがうれしかった」そうです。そして、これからしたいことを尋ねると、星野さんは「今まで、何かをしようと思ったことは一度もない。生きていれば、神さまが何かをさせて下さるのだから。神さまにおんぶに抱っこです!」と笑ったと書かれています。
 何もできないと思われた人が、人に与えることができる。私たちの主を信じることによって、夢が与えられ、幻を見ることができます。
 そして教会につなげられていることによって、私たちは教会のビジョンを共に見ることができます。世の人々が神を求めはじめ、救いを求め始めて、多くの人と共に主を礼拝するようになるというビジョンです。聖霊の働きがある限り、これらは単なる夢物語で終わらないのです。


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