2022年5月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編68編20
      エフェソ信徒への手紙3章14〜21
●説教 「単にかなえるのではなく」
 
   はるかに超えてかなえることのできるお方

 
 20節に「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に」という言葉があります。これはもちろん神さまのことです。私たちの神さまは、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」である。そう述べています。
 私たちが求めること、思うことよりも、はるかに超えて(!)かなえる。これはたとえば、幼い子供がミッキーマウスの人形がほしいと願ったら、本物のミッキーマウスが現れて最高級のミッキーマウスの人形をプレゼントしてくれたようなものでしょうか。何か適当なたとえが見つからなくて申し訳ありませんが‥‥。
 神さまは、わたしたちが願い求める、あるいは期待することよりも、もっとすばらしいことがおできになる。これはその通りだろうと思います。しかし実際に私たちの経験の多くは、それとは正反対のように思われるのではないでしょうか。私たちが神さまに祈り求めても、あんまりかなえられたように思えない。そういう印象かも知れません。
 かなえられないとしたら、なぜかなえられないのか?
 きょうのエフェソ書の聖書箇所を読みますと、「愛」という言葉が際立っているように思います。17節には「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとしてくださるように」と書かれていています。18節には「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という表現が出てきます。19節には「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と書かれています。そして、(19節)「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と、パウロの願いが述べられています。
 すなわち、キリストを信じる者が、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされることを願って書かれていることが分かります。そのためのキーワードとも言うべき言葉が「愛」という言葉になっています。すなわち、愛なしにはそれはあり得ないのだということです。
 
   愛に根ざし
 
 そうすると、私たちが神に求めたり思ったりすることが、愛から出ているものなのか?ということが問題となってきます。愛から出ている願いなのか、それとも自分の欲やプライド、あるいはわがままから出ている願いなのか、どっちなのかということです。
 17節を見ますと、植物と建築にたとえて語られています。まず「愛に根ざす」という言葉です。これは、植物が愛という土壌に根を張るというたとえで語られています。例えば同じ野菜の苗を植えたのに、達人の方の苗のほうがよく育つというのは、もちろん育て方もあるでしょうけれども、土壌の違いも大きいと思います。土が違うんですね。その作物にふさわしい土というものがあるわけです。
 また、続けて「愛にしっかりと立つ」と書かれています。この「しっかりと立つ」という言葉は、「土台を置く」というギリシャ語になっています。つまり建物の基礎を据えるということで、建築のことにたとえられています。建物はその基礎によってしっかりと立つか立たないかが決まります。基礎がしっかりしていないと、地震が来たときに倒れてしまいます。ここでは「愛」という基礎、土台の上に自分を建てなさいといわれています。
 そのように、愛という土壌に根を張って豊かな実を結ぶことができるし、愛という基礎の上にちゃんとした自分という建物を建てることができるということになります。そうして、神に願い求める。するとそれが、私たちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる神が、聞き入れてくださる。そのようにつながっていきます。
 しかし問題があります。それは愛に根ざそうにも、この私の中には愛がないということです。自分という人間が自分中心であり、愛がない。あるいは愛が足りない。つまり罪人であるということです。罪人であるということは、愛がないということです。愛に根ざそうにも、自分の中に愛がない。愛を基礎にしようにも、自分の中に愛がない。そういうことに気がつきます。そうすると結局何も育たないし、何も建たないではないかと思われる。
 そこで、17節の前半の言葉が生きてきます。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」。私自身の中には愛がない。けれども、キリストを信じることによってその自分の心の中にキリストに住んでいただくことができる。そうするとキリストは愛ですから、愛が自分の中に存在することになる。そのキリストの愛に根ざす。そのキリストの愛を土台とすることができることになります。自分の愛ではなくキリストの愛です。
 
   西村久蔵
 
 今年は三浦綾子さんの生誕100周年であるということは、ちょっと前にも申し上げました。今月号の『信徒の友』誌にその三浦綾子さんを記念して特集が組まれていました。その中で、活水女子大学名誉教授の上出恵子さんが、三浦綾子さんの書いた小説『愛の鬼才』を取り上げていましたので、ご紹介いたします。『愛の鬼才』は、西村久蔵の生涯を描いた作品です。西村久蔵は、パン・洋菓子店を経営した人ですが、北海道議会の議員や高校の教諭も務め、また慈善活動にも熱心であった人です。
 三浦綾子さんは「西村久蔵のような愛の人は、そうそうこの世に現れることはないであろう。その久蔵の愛は、実にその少年の日、十字架上のキリストに出会って己が罪を悔い改めたときに始まる」と書いているとのことです。数えの18歳の時、落第して2度目の中学4年生の西村が、ある晩の集会で高倉徳太郎牧師の説教を聞いたときのこと。キリストの十字架について訥々(とつとつ)とどもりながら話すのを聞いているうちに、「その十字架を囲んでいた祭司、学者、群衆、そしてローマの兵士たちのイエスを罵っている有様が、目に見えるように思われました。そして十字架上のイエスの痛々しい姿が、私の心の目に、はっきりと映し出されたのです。その時私は、この神の子を十字架につけて殺したものは人類の罪であり、その罪の裁きを贖うために、罪なきイエスが、苦しみ、捨てられ、死に給うたという、それまで何度か聞いた話が急転しまして、私、即ちこの西村という汚い罪人の犯せる罪や、心がイエスを殺したのだ、下手人は私であるという殺人者の実感、しかも、わが救い主、わが恩人、わが父を殺した恐ろしい罪をわが内に感じて、戦慄いたしました。私はあの群衆の一人であると思いました。……この殺人罪、主を売り、救い主なる恩人を殺した己が罪を、主の潔き血によって許して頂くほかに、生きる道がなかったのでした」。 そのように書いています。西村は、翌日に受洗の希望を申し入れ、洗礼を受けました。こうして「どこを切っても、その断面に愛の一字が浮かんでくる」という愛の鬼才・西村久蔵が誕生しました。 「このような愛の原点にあるのは、言うまでもなく十字架上のキリストでした」と、上出さんは書いておられます。
 すなわち、愛の鬼才と言われる西村久蔵は、少年の時に説教を聞いて、自分もキリストを十字架につけた一人であることを悟った。そして十字架はそういう自分を赦して贖うためであることも分かった。つまりはそこにキリストの愛を見たのです。
 そのキリストを自分の心にお迎えし、住んでいただく。その愛に根ざし、その愛に立つということです。
 
   キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ
 
 17節「信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ」と書かれていますが、本当に私のような者の所に、キリストはお出でくださるのだろうか?住んでくださるのだろうか?と思います。そのような心配をしつつ、次の18節に目をやりますと、このように書かれています。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」
 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」と書かれています。何かくどい言い方のようにも聞こえます。同じことを言葉を変えて言っているように聞こえます。しかし使徒パウロがわざわざこのように書いているのですから、やはり意味があるのでしょう。順番に見てみましょう。
 キリストの愛の「広さ」。これはイメージ的に分かります。「あの人は心の広い人だ」というふうにも使いますから、キリストの愛が広いということはとても広いのだということになるでしょう。
 次は「長さ」。つまりキリストの愛は長い。これはどういうことか。長いというと、まず距離が長い。つまりどこまで行ってもキリストの愛があるということになるでしょう。キリストの愛から逃れようとして、どこまでいっても、そこにもキリストの愛があるということになります。遠くまで行って、ここまではキリストの愛も届かないだろうという所まで行っても、そこにもキリストの愛がある。あるいは、この「長さ」とは、時間の長さとも考えられます。昔からキリストの愛はあった。そしてこの先もある。永遠にある。永遠にキリストの愛はある。どんな先に行ってもある。そのように聞こえます。
 次は「高さ」。高い所といえば富士山であり、エベレスト山でしょうが、そこに行ってもキリストの愛はもちろんある。もっと高いといえば宇宙に出て行ってしまいますが、そこにもキリストの愛はある。
 内村鑑三は、創世記1章1節の「元始(はじめ)に神、天地を創造(つく)りたまえり」の聖書の言葉について、次のように述べています。‥‥「すでに神の造りし宇宙なり。きればこれわが父の園(その)にして、われその中に住して恐怖あるなし。われわが国を去って他国に行かんか、神かならずそこにあり。われこの地球を去って木星または水星に至らんか、彼かならずそこにあり。彼はオライオン星にあり。プライアデス星にあり。しかして遠くこの宇宙をはなれ他の宇宙に至るも、わが父はまたそこにあり。神と和し神の子となりて、宇宙はうるわしき楽園となるなり。」
 この宇宙のどこに行ったとしても恐れることはない、それは神がそこにもおられるからだと。本当にそうですね。したがって、たとえ宇宙のどこに行ったとしても、キリストの愛はそこにもあるということです。
 最後に「深さ」。深いというと、地の底、海の底を思い浮かべます。そしてもちろんそこにもキリストの愛はある。たとえ死んで陰府に行ったとしても、そこにもあるということになります。さらにはこの「深さ」というのは、罪の深さを連想させます。罪深い自分です。自分の罪がどんなに深くても、キリストの愛はそこにある。私を見捨てないでいてくださる。
 先週一週間を振り返ってどうだったでしょうか?‥‥つまらないことで腹を立てたり、イライラしたりして、神さまへの感謝も祈りも忘れて、本当にダメな自分であると思ったときがあったかもしれません。しかしそのような時でさえも、キリストの愛はそこにあるということです。もう本当に神の御心にそむいて、本当に自分は罪人だ、とても祈りなんか聴いていただけないと思うときでも、キリストの愛はそこにある。それがキリストの愛の「深さ」です。想像を超えるキリストの愛の深さです。そうすると、そのようなときでも、こんな私を愛してくださるキリストに感謝することができます。
 
   神の豊かさ
 
 そうすると、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉が実に味わい深い、ありがたい言葉であることが分かります。それが19節に書かれている「人の知識をはるかに超えるこの愛」です。キリストの愛は、私たちの想像を絶しているのです。何という安心感、何という平安でしょう。そういう「人の知識をはるかに超える」キリストの愛を知っていく。これでも愛してくださる。こんな自分でも愛してくださっている。なぜなら、キリスト・イエスさまは、こんな私をも救うために十字架にかかってくださったからです。そのすばらしさ、豊かさを発見していく喜びです。
 「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と。
 それゆえ、キリストは聖霊によって、この私のような者の中にもおい出くださる。住んでくださる。そして内側から支えてくださる。そうして最初の20節につながります。
「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」。キリストの愛から生み出された神への願い。それは私たちの想像をはるかに超えて、かなえられるのだと。そのように語っています。


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