2022年5月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記32章11〜14
    テモテへの手紙一2章1〜6
●説教 「あなたも仲介者」

 
   モーセのとりなし
 
 最初に読んでいただきました出エジプト記32章11〜14節ですが、これはモーセが神さまにとりなしの祈りをしている場面です。その昔エジプトの国で奴隷にされていたイスラエルの民が、主の奇跡によってそこを脱出していったことは皆さんご存じと思います。とくに、海が二つに分かれて道ができ、そこを渡って行ったことは有名です。そのあと、モーセに率いられたイスラエルの民は、荒れ野を旅して行きました。そしてシナイ山までやって来ました。そこでモーセは主に呼ばれて、山に登って行きます。そして十戒をはじめとした神の掟をいただきます。
 そのようにモーセが主から言葉をいただいている間に、山の麓で待っていたイスラエルの民は待ちきれなくなり、もうモーセはどうなったか分からないからと言って、自分たちの神を勝手に造ってしまったのです。それは金で造った牛の像でした。主なる神によって救っていただいたのに、もう神さまを信じられなくなってしまったのです。それを知った主はお怒りになり、イスラエルの民を滅ぼすとおっしゃいました。それに対してモーセが人々を滅ぼすのを辞めてくださいと言ってとりなして祈ったのがこの祈りだったのです。
 興味深いのは、このようにしてモーセがとりなすと、主は民を滅ぼすことを思い直されたということです。この時もしモーセがとりなして祈らなかったら、人々は滅ぼされていたことでしょう。このことは、主なる神さまが、モーセが人々のためにとりなして祈るのを待っておられたとも言えます。そしてそのことは同時に、主は、わたしたち神を信じる者が人々のためにとりなして祈るのを待っておられるということでもあります。
 
   テモテ
 
 そして今日の新約聖書箇所は、テモテへの第1の手紙の中からです。テモテという人は、パウロが信頼した若い伝道者です。テモテのお母さんはユダヤ人、お父さんはギリシャ人でした。パウロは第2回世界宣教の旅に、途中からテモテを連れて行きました。パウロは、この手紙の1章1節で、「信仰によるまことの子テモテ」と書いています。それぐらいパウロはテモテを信頼していました。
 パウロがこの手紙を書いたとき、テモテは小アジア(現在のトルコ)のエフェソの町にいたようです。そしてテモテはそこにある教会を牧会していたようです。言ってみれば、その教会の牧師をしていたわけです。そしてそのエフェソの教会に問題が起きていました。それでパウロは、その問題をどのようにして解決したらよいか、この手紙を通してアドバイスしているのです。
 
   教会のなすべき第一のこと
 
 今日の聖書箇所で、パウロは「そこでまず第一に勧めます」と述べています。これはテモテになすべきことを指示しているわけですが、同時にそれは教会がなすべきことを指示しているのです。つまり、教会がなすべき第一のことは何かということです。そしてパウロは語っています。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために献げなさい。」
 これが教会がなすべき第一のことであるというのです。そうすますと、「教会がなすべき第一のことは『礼拝』ではないのか?」と思う方もおられるかも知れません。しかし「教会」という言葉自体が礼拝するために集まっている群れのことを指す言葉ですから、それはなすべきことというよりも、大前提ということになります。また、「教会のなすべき第一のことはことは『伝道』ではないのか?」と思われる方もいるかも知れません。それはたしかにその通りです。そうすると、「伝道」がすなわち今日パウロが述べていることとであると言うことができます。
 そして今日パウロが第一になすべきこととして述べているのは、祈りです。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」と書かれています。ここでは、4つのことが述べられています。すなわち「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」の4つです。
 この4つがそれぞれどう違うか。最後の「感謝」以外の3つを区別するのは、たいへん難しいんです。新約聖書学者のバークレー先生の書いておられることを参考に言うと、まず「願い」というのは、欠乏からくる要求。自分の無力感、弱さを自覚する所からくる「願い」ということだそうです。次に「祈り」ですが、これはもっぱら神さまに対する願いだそうです。また「とりなし」というのは、哀願で、憐れみをこめて願いを申し上げる、とくに自分のことではなく他人のことをお願いするということ。そうするとやはりこの3つは、たいへん似ていて、祈り願いということを別の言葉で言い換えたような感じになります。4つ目の「感謝」は説明は要らないでしょう。神さまへの感謝もまた祈りの大切な部分です。祈りというのはお願いばかりではありません。神さまとの会話が祈りですから、感謝もまた大切な祈りの内容の一つです。
 そうしますと、この4つは、要するに「祈り」についてのすべての側面を述べていることになります。つまり、私たちが神に祈るすべてのことを含んでいるのです。言い換えてみれば、神さまにすがり、嘆願し、とりなしてお願いして感謝する、というような感じです。それをすべての人のためにしなさい、というのです。すべての人ですから、好ましい人のためにも、好ましくない人のためにもそうしなさいということになります。
 なぜ好ましくない人のこともとりなして祈りなさいというのでしょうか?‥‥その理由は6節に書かれています。
 「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」
 「この方」というのはイエス・キリストです。イエスさまは、すべての人の贖いとして十字架にかかられた。すなわちすべての人を救うために十字架にかかられた。すべてですから、好ましい人も好ましくない人も救うためだった。だからです。ちなみに5節では、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」と書かれています。イエスさまは、わたしたち罪人を神さまにとりなすために、仲介者としてご自分の命を捨ててとりなしてくださった。だから私たちも、すべての人が救われるように神さまにとりなして祈るのだということになります。
 それで、教会の使命は伝道だといいますが、その伝道の内容は祈りが第一であるということになります。伝道というと、チラシを作るとか伝道集会をするとかコンサートを企画するとか、いろいろ何かすることを考えますが、まず祈りだということになります。
 
   政治支配者のために祈る
 
 続けて2節に行きますが、こう書かれています。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」 1節で「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」と述べていましたので、「すべての人々」の中には「王たちやすべての高官」も含まれているわけです。だったらなぜわざわざここで「王たちやすべての高官のためにも(祈りを)ささげなさい」と付け加えているのでしょうか?‥‥実はここに大いなる葛藤があったのです。
 というのは、このテモテへの第一の手紙が書かれたのはいつかということなんですが、それはローマ帝国の皇帝がネロの時であったと考えられています。ネロ。それは初めてキリスト教会を迫害した皇帝としてあまりにも有名です。この手紙が書かれたのは、そのネロがローマ市に住んでいるキリスト教徒を迫害している時か、その後かは定かではありませんが、とにかくそういう緊張状態にあるときです。つまり、あえてここで「王たちやすべての高官のためにも(祈りを)ささげなさい」と付け加えているのは、そういうきびしい背景があったからなんです。
 自分たちを迫害し、苦しめる皇帝とその家臣たちに対してどういう態度をとるのか?ということです。これを現在の世界に当てはめるとすれば、独裁者であるロシアの大統領に対して教会はどうするのか?ということでもあります。あるいは、国民を虐げキリスト教徒を徹底的に迫害している北朝鮮の独裁者に対して私たちはどうするのか?ということでもあります。そう考えると、ここでパウロが「王たちやすべての高官のためにも(祈りを)ささげなさい」ということが、何か悠長なことを言っているのではないということがお分かりかと思います。国民を虐げ、自分たちを苦しめ、教会を迫害する皇帝や王たちのために祈りなさいと言っているのです。これは、本当に苦しくつらい選択であったに違いありません。命がけです。
 普通ならば、そのような王や独裁者に対しては、呪いの言葉しか出てきません。祈りたくなんかない。しかし先ほど見ましたように、「願いと祈りと執り成しと感謝」を献げなさいと言っているのです。百歩譲って、皇帝が、王が、独裁者が救われるようにとりなして祈れと。ここまではまだ分かります。しかし「感謝」とは、いったい何を感謝するのでしょうか?
 
 ここで、「クレメンスの第一の手紙」という文書の中から、そういうことを祈っている言葉がありますからご紹介いたしましょう。このクレメンスという人は、ローマの司教であった人で、その頃のローマ皇帝はドミティアヌスと言って、ネロよりも激しく教会を迫害した人でした。そういう迫害の中でクレメンスが書いた手紙の中に、王たちや高官たちのために載っている部分を読んでみます。
 「主、また主人よ、素晴らしく言い表せない御力を通して、あなたは主権の御力を彼らに与えてくださいました。栄光と誉れを彼らに与えてくださったのを知っている私たちが、彼らに服従し、あなたのみこころに反抗することがありませんように。ですから、ああ、主よ、あなたが損なうことなく与えてくださった御国の統治を行えるように、健全な平和、調和、安定を彼らに与えてください。ああ、天の主よ、世々の王よ、あなたは人の子らに、地にあるすべてのものにまさる栄光と誉れと力を与えてくださいました。主よ、彼らの助言があなたの目に良しとされ喜ばれるものとなるように導いてください。彼らが、あなたが与えてくださった御力を、敬虔な平和と穏和のうちに認め、あなたの好意を得られますように。ああ、あなたはただひとりこれらを行うことがおできになり、また私たちのためにこれよりも遥かに素晴らしいことがおできになりますから、大祭司であり魂の守り主であるイエス・キリストを通じて、私たちはあなたをほめたたえます。イエス・キリストを通じて、あなたに栄光と尊厳が、今も世々にとこしえにありますように。アーメン。」(61章1〜3)(c 2016 christian-classics-jp.)
 私たちの先輩である古代の教会のキリスト信徒たちが、自分たちを迫害する皇帝や王のために、このようにして祈ったのだということが伝わってきます。悠長な祈りではないんです。命がけの祈りです。呪っていません。皇帝や王たちが、神の許しのもとに権力を与えられていることを認め、それゆえに彼らを主が導いて下さることを願っているのです。そして感謝とは、彼らを正しい道に導くことのできる主なる神をほめたたえ、感謝しているのです。祈りの力を信じているんです。
 このように、どんなひどい状況の下でも、なんでもおできになる主をほめたたえ、感謝することができるのです。それが感謝というものです。
 
   わたしたちも神の敵だった
 
 考えてみれば、そもそも私たちもかつては神の敵でした。私も教会を離れ、神を信じなくなりました。悪いことを積み重ねました。しかしそんな私が命を助けられ、再び信仰に導かれ、教会に戻ってくることができました。そして教会の夜の祈祷会に出席したとき、たいへん感動しました。それは、祈祷会に出席しているのはわずかなメンバーでしたが、その人たちが、人々の救いのために祈っていたことです。それを聞いて私は、両親もこのように祈っていたのだなあと思うと同時に、このように教会が祈っていてくれたんだ、だからこの自分は神のもとに戻ってくることができたのだということが分かったのです。執り成しの祈りが、この私のような者のためにもささげられていた。感謝しかありませんでした。
 私たちはみなそうだったはずです。まだ私たちが神を知らない頃、どこかで誰かがキリストの名によって神さまに執り成しの祈りをささげていたんです。それで私たちは導かれたのです。
 この手紙を書いたパウロ自身がそうです。パウロはかつては教会を迫害していました。そして教会の伝道者の一人であったステファノが迫害されて石をみなから投げつけられて死んだとき、パウロもそこにいました。しかしステファノは自分が死ぬ寸前、こう祈ったんです。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)。自分に石を投げつけている者のために祈って死んだんです。その執り成しの祈りがあって、のちにパウロは救われたと言うことができます。
 主イエスが、まだ真の神も知らないし、善悪も知らなかった私たち罪人を救うためにご自身を献げてくださった。そして神との間を取り持ってくださった。それゆえ私たちも、すべての人々の救いのためにとりなして祈る。全能の神に感謝して祈る。私たちも仲介者としていただいている。このことは感謝と言わなければならないでしょう。


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