2022年5月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル記上16章23
    コロサイの信徒への手紙3章12〜17
●説教 「キリストの平和」

 
   ゆっくり聖書の御言葉を読む
 
 16節に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と書かれています。
 週報に掲載されている私の予定を見ると、「リモート」と書かれているものが多いことにお気づきのことと思います。これはインターネットを介しての会議のことを指しています。「オンライン会議」とも呼ばれます。以前は、会議というと会場にこちらから出かけて行って、テーブルを囲み顔をつきあわせて会議をしたものです。しかし、コロナ禍が始まってから、電車に乗って出かけて行き狭い場所に集まって会議をするということがなくなり、代わりにインターネットを用いての会議ばかりとなりました。パソコンの画面に参加者全員の顔が映し出され、それぞれの顔を見ながらの会議ができます。そうすると、会議というものはわざわざ各地から電車や飛行機に乗って集まらなくても、だいたいのことはリモートで済むということが分かりました。また今は、会議ばかりではなく、お祈りの会もリモートでしております。その祈りと黙想の会で東京神学大学の小泉教授が担当したときに、与えられた聖書箇所をゆっくり読むということをおっしゃり、たいへん教えられました。
 聖書の読み方にはいろいろありますが、1つには通読という読み方があります。聖書を最初から最後まで毎日続けて通して読む通読です。その通読は、ともすると早く読み終えようと思って、速く読んでしまいがちではないでしょうか。もちろん通読も大事で、聖書全体のあらすじとか流れをつかむにはその読み方が適しています。しかしどうしても普通のスピードで読んでいると、聖書の一つ一つのみことばを味わうということになりにくいところがあります。
 ところが、今回教えられたように、非常に意識的にゆっくりと読んでみる。そうすると、聖書がまた違う味わいになってくるんです。試しに今日与えられた聖書箇所であるコロサイの信徒への手紙3章12〜17を、ご一緒にもう一度、今度はゆっくりと読んでみたいと思います。ではご一緒に、一言一言をかみしめるように、声を出せる方は小声でゆっくり読んでみましょう。
 
 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、
 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。
 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
 愛は、すべてを完成させるきずなです。
 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。
 この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
 いつも感謝していなさい。
 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
 知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、
 詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
 イエスによって、父である神に感謝しなさい。
 
 いかがでしょうか。何かまた違った印象を受けなかったでしょうか。聖書の言葉が、私たちに語りかけてくるように感じられませんでしたか? 16節で語られていた「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」ということが、少し分かるような思いがいたします。これからも、毎日聖書を短く区切ってで良いですから、声に出してゆっくりとかみしめるように読んでみるというのもよいことだと思います。
 
   上にあるものを求めよ
 
 今日の聖書箇所であるコロサイの信徒への手紙は、使徒パウロがコロサイという、今のトルコの国にある町の信徒たちに宛てて書いた手紙です。この手紙3章の1節にはこのように書かれています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」
 キリストを信じて洗礼を受けた。それはキリストと共に古い自分が死に、キリストの復活と共に新しい自分として復活したということです。だから「上にあるもの」を求めなさいと教えています。「上」というのは神の国であり神さま、キリストということになります。つまり、神の国にあるもの、キリストにあるものを求めなさい、というのです。
 それまでは、この世のものを求めて生きてきました。それは、地位であったり、名誉であったり、お金であったりします。しかしキリストを信じて新しく生まれたのだから、神の国にあるもの、キリストにあるものを求めなさいという。それは決してこの世のことはどうでもよいということではありません。イエスさまがマタイによる福音書の中で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)とおっしゃったように、まず神の国と神ご自身を求めることが大切であり、そうすればこの世で生きて行くために必要なものも神が与えて下さるということです。
 さて、そのように「上にあるもの」を求めなさいという教えの中で、先ほど読みましたことが語られています。もう一度12節を読んでみましょう。「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」
 この言葉の順序はとても大切です。決して間違えてはなりません。つまり「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」、だから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」という順序です。この順序を入れ替えると、全く福音ではなくなってしまいます。すなわち、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ければ、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛される」というのではないのです。言い換えれば、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されるための条件として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が必要だ‥‥ということではないのです。逆です。神によって選ばれた方が先なのです。
 はっきり言えば、私たちには憐れみの心も、慈愛も、謙遜も、柔和も、寛容もなかったけれども、神さまによって選ばれ、聖なる者とされ、愛されている、ということです。ですから、私たちは選ばれる資格のないものであったのにもかかわらず、神によって選ばれたということになります。
 
   神の選び
 
 神が私たちをお選びになった。これは私たちがキリストを信じるに至ったことを言っています。つまり、私たちは自分から神とキリストを信じるようになったと思っているかも知れないけれども、そうではない。自分から教会の門をたたいたと思っているかも知れないけれども、そうではない。あるいは誰かに誘われたから教会に来るようになったと思っているかも知れないけれども、そうではない。それは神の選びであったというのです。神がお選びになったから、自分の足が教会に向かった。誰かから誘われて、行く気になった。神を求めるようになった。‥‥そういうことを言いたいのです。つまり自分という人間の都合だったのではない。神が私たちをお選びになった。それでキリストのもとに導かれたということです。栄光をすべて神にお返しする言葉が、神の選びという言葉です。
 そしてその神の選びは、私たちが立派だから選ばれたのではない。先ほどの12節の言葉で言えば、私たちに「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という良いものがあったから、神が選ばれたのではないのです。
 それはキリストの弟子たちを見ても分かります。キリストが選ばれた12使徒。彼らは、憐れみ深い人でもなく、とくに愛ある人というわけでもなく、謙遜でもなく、柔和でもなく、寛容でもありませんでした。そしてイエスさまが十字架にかけられるのを前に、イエスさまを見捨てたり、裏切ったりしました。情けないことこの上ないというのがキリストの弟子たちでした。なのに選ばれた。それはなぜか?
 それは、キリストの愛がどんなにすばらしいかということを、明らかにするためです。立派で正しく、役に立ちそうな人を選んでも、当たり前だということになります。しかし、弱く、罪深く、資格のない者を選んだら、それは選んだキリストの愛は本物だということになります。そういう者たちをお選びになったキリストの愛はすごい、憐れみと慈愛と謙遜と柔和と寛容に満ちた方だということになります。すなわち12節に書かれている良い心は、キリストの心だということになります。
 そのように、私たちは「神によって選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」。だから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」‥‥と言われているのです。
 
   みことばと讃美歌
 
 と申しましても、これは難しいことです。「じゃあ、憐れみの心を持とう」「寛容になろう」「相手に責めるべきことがあっても赦し合おう」と思っても、簡単にできることではありません。だからこれも自分の力、人間の力ではできないことだと言えるでしょう。では希望が無いかといえば、そうではありません。そこで、最初に取り上げた16節のみことばが輝いてくるのです。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
 キリストの言葉が、聖書の言葉が、私たちの内に豊かに宿るようにするのです。聖書を読み、みことばをかみしめるようにして味わうのです。日々聖書の言葉に親しむのです。知恵を尽くして互いに教え、諭しあうのです。そして、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえ」るということです。
 「詩編と賛歌と霊的な歌」というのは、今日では、讃美歌と聖歌とプレイズソングとワーシップソング‥‥と言い換えても良いでしょう。昔は聖書の「詩編」は、メロディーをつけて歌ったのです。どれも主なる神をほめたたえる歌です。信仰の歌です。
 主を賛美する音楽の力というものがあるのです。きょうは旧約聖書はサムエル記上16:23を読んでいただきました。もう一度読んでみます。「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」
 イスラエルの国の初代の王様はサウルという人でした。サウルは最初は神さまに従う人でしたが、だんだん神さまに従わなくなりました。そうすると悪霊がサウルを苦しめるようになりました。今日の聖書で「神の霊がサウルを襲うたびに」と書かれていますが、この「神の霊」というのはここでは悪霊のことです。神さまは悪霊もコントロールできるからです。サウルは悪霊によって苦しめられるようになりました。しかし、まだ当時は若かったダビデが、サウルの傍らで神を賛美する音楽を竪琴で奏でると、悪霊が彼を離れたと書かれています。そのように、讃美歌や神を心から賛美する音楽は、悪霊を制することができるのです。
 私の母はもう亡くなりましたが、よく讃美歌を歌っている人でした。台所仕事をしながら、また洗濯などの家事をしながら、よく賛美歌を口ずさんでいました。それで用いられたのだと思います。
 ですから、自分の力で自分を良くしようと思ってもできませんが、聖書の言葉をよく読んで聞いて、みことばが私たちの内に豊かに宿るようにする。お互いに教えあい諭しあう。讃美歌やプレイズソングを口ずさんで神を賛美し感謝する。ここに書かれているとおりです。そうして私たち自身が変えられていく。聖霊が変えてくださるのです。そこに道があります。


[説教の見出しページに戻る]