2022年5月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記1章1
    使徒言行録17章22〜34
●説教 「知られざる神」

 
 本日は「母の日」です。今年も母の日にちなんだ讃美歌を歌っていただきました。
 
   パウロの世界伝道の旅
 
 本日の聖書箇所は、使徒パウロの世界伝道の旅の中の出来事です。この旅は、一般にパウロの第2回世界宣教旅行と呼ばれています。この旅で、パウロは初めてヨーロッパに足を踏み入れました。それは全く主の導きによって踏み入れたのでした。
 そして今日の舞台はギリシャのアテネです。ギリシャという国は、非常に古くから文明が栄えました。そしてまたギリシャ神話やギリシャ哲学も有名です。さらに民主主義発祥の地とも言われます。そのように古代には非常に文明の栄えた所ですが、新約聖書の時代にはローマ帝国の支配下にありました。しかし政治はローマ人が支配しましたが、依然として文化の中心でした。そしてユダヤを含む地中海世界の共通語はギリシャ語でした。だから新約聖書もギリシャ語で書かれたわけです。
 きょう読んだ箇所の直前の21節にはこう書かれています。「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」なんとも暇な人たちだと思いますが、アテネが文化・学問の中心であったことがうかがい知れます。使徒パウロは、そのような所にやって来ました。
 
   伝道者パウロ
 
 パウロはアテネで、同労者であるシラスとテモテを待っていました。すると、この町の至る所に偶像があるのを見て憤慨しました。何しろギリシャ神話の神々は、日本の八百万の神々と同じく、たくさんの神さまがいます。そういう神々の像や祠(ほこら)があちこちにありました。真の神さまではないものを拝んでいる。それでパウロの伝道者魂に火がついたのです。
 この町にもユダヤ人の会堂がありました。それで、安息日にはユダヤ人の会堂でイエス・キリストのことを語り、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていました。その中にはギリシャ哲学のエピクロス派やストア派の哲学者たちもいました。それで、毎日新しいことを話したり聞いたりして時を過ごしていたアテネの人たちは、パウロの語ることが珍しくて、その教えを詳しく聞かせてもらいたいと思い、パウロをアテネのアレオパゴスの丘にある会議場に連れて行きました。そしてパウロに話しをさせたというのが今日の聖書箇所です。
 みんなが話しを聞きたいというのですから、私は、パウロはキリストの伝道者ですから、ワクワクしたに違いないと思うんです。
 日本の戦国時代に、キリスト教を伝えたのはご存じの通りローマ・カトリック教会の宣教師フランシスコ・ザビエルですが、サビエル神父は山口の殿様、大内義隆の許可を得て辻説法をした時のことを次のように書簡に書いています。
 「私はすでに白髪の老人になってしまいましたが、身体は一生涯の中、最も強いといってよいと思います。まじめに魂の救いを求める人々のために働きつづけられることは、何という喜びでありましょう。私が山口にいました頃、領主の許可により説教を始めると、民衆が集まって私たちの周囲をとり巻いたときの感激は、生まれてこの方、初めて生きることのありがたさを感じたほどでした。」
 ですから、使徒パウロも多くの人の前で、しかも多くの人が話を聞かせてくれと言うのですから、こんな喜びは伝道者としてないほどだったと思います。
 
   伝道説教に学ぶ
 
 そのようにして、キリストの伝道者が、当時の世界の文化の中心であったアテネで、哲学者をはじめとした多くの知識人や市民を前に、キリストの福音を語ったのが今日の聖書箇所です。そういう意味でもたいへん興味が湧きます。というよりも、わたしたちもキリストのことを誰かに語るときの参考となります。
 するとパウロは、最初に「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」(22節)と語り始めました。「信仰の厚い方である」と、敬意を表しています。これは大切なことだと思います。その人たちが、真の神ではない偶像を拝んでいるからと言って、軽蔑したり、批判したりしない。神への信仰心のある方だと言って、まず相手を受け入れるところから始めているのです。
 これは、日本の戦国時代に日本に来た宣教師たちも同じでした。ザビエルと共に山口で伝道したトルレス神父は、イタリアに送った手紙の中で、次のように記しています。
 「彼ら日本人は、高い理性を持った国民です。理性によって支配されているのです。日本人は一度、霊魂が不滅であることを認めると、私たちに反抗して来た人々や、また、生まれてこのかた偶像を拝んで来た人々までが偶像を捨て、父母の反対も押し切って信徒になります。彼らは非常に人好きがよく、信心深い人たちです。彼らの美徳、良い習性について語ろうとするなら、それを書いてしまう前に、インクと紙がなくなるでしょう。」
 これは現代の日本人に当てはまるようには思えませんが、少なくとも当時の日本人はそうであったようですし、宣教師はそのように見ていたのです。
 パウロも、ギリシャのアテネの人たちが信心深い人たちであると言ってほめています。そしてそれは決して心にもないことを言ってよいしょしているのではありません。信心深いというのは良いことだからです。それは、そのあとの27節でパウロ自身が語っていることと関係あります。すなわち、「人に神を求めさせる」と語られていることです。もちろんギリシャの人たちも、戦国時代の日本の人たちも、天地の造り主である真の神さまのこと、イエスさまのことを知らないのはしかたがありません。聞いたことがなかったのですから。だからそれを語るのが伝道者であり、キリスト者であるのです。
 
   去る人残る人
 
 パウロがアテネを歩いていると、「知られざる神に」と刻まれた祭壇があった。「祭壇」というと何か旧約聖書の祭壇のように、動物のいけにえをそこで献げる場所かと思いますが、これはむしろ「祠」(ほこら)と訳したほうが良いでしょう。アテネの人たちが知らない神のための祠まであった。自分たちの知らない神さまがいるだろうから、その神さまも祀って、拝んでおこうということです。それはまさに、まだ日本人が信心深かった時代に共通するものがあります。
 そこでパウロは、アテネの人たちが知らない神について述べると言って、聖書に証しされている本当の神さまについて語り始めます。それは世界とその中の万物を造られた神です。その神は、天地宇宙の造り主、わたしたちの創造主ですから、人間の手で造った社にはお住みにならない。人の手で仕えてもらう必要もない。その反対であって、本当の神はすべての人に命を与え、すべての物を与えてくださる方であると語ります。
 そして「わたしたちは神の子孫」であると言う。すなわち、わたしたちは神によって造られた人間であるということを言っています。人間が神を造るのではなくて、逆に神が人間を造ったのであると語る。そしてその神が、今やすべての人を悔い改めさせようとしておられる。そうして「一人の方」についてパウロは語ります。その「一人の方」というのがイエス・キリストのことです。ですからここではまだパウロは、イエス・キリストの名前を出していません。「一人の方」と言っている。そしてその一人の方を、神は死者の中から復活させたと言って、十字架と復活を語ろうとする。
 ところが聞いていた多くの人々は、まだイエス・キリストの名前も聞かないのに、寝台人の「復活」という言葉を聞いた時点で、ある者はあざ笑い、ある者は「それにつては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と、つまりはバカバカしいと思って去っていきました。人間の手で造った偶像の神々を拝むことはバカバカしいこととは思わず、死からのよみがえりということはバカバカしいと思ったわけです。非常に残念なことです。
 しかし全員が去ったわけではない。少数の人が残り、信仰に入った人が数人いたことが記録されています。その人たちは、本当に神を求める人であったのでしょう。そして「神を求める」ということが、今日のパウロの説教のポイントです。
 
   神を求めること
 
 26節27節に不思議なことが書かれています。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」
 神がひとりの人、すなわちアダムから民族を作り出し、世界のあちこちに住まわせて境を決められたのは、人に神を求めさせるためであったと語っています。これは不思議です。なぜ人間を民族に分け、その民族の境目を決めることが、神を求めることにつながるのか、その理由は分かりません。しかし神さまの側には、そのような理由があったということになります。いずれにしても、それが私たちが神を求めるようになるためであることは間違いありません。
 知識であれば、ものごとを学び、研究することによって得られます。体力であれば、肉体を鍛え努力することによって得られるでしょう。しかし神はどうやって知ることができるのか?‥‥それは求めることによって知ることができるということです。私たちが心から求めるのです。そうすれば、神が与えられるのです。
 
 20世紀の初めに活躍したサンダー・シングというインド人の伝道者がいました。彼は「20世紀で最もキリストに似た人物」とも言われました。
 サンダー・シングは、1889年に北インドのある町の地主の子として生まれました。当時のインドはイギリスの植民地となっていました。家はヒンズー教の一派のシーク教で、特に母親は熱心な信仰者でした。彼はその感化を受けて育ちました。14歳の時、自分を誰よりも愛してくれた母が死にました。悲しみのあまり、彼はヒンズー教の聖典やコーランを読みふけったそうですが、平安を得ることができませんでした。そのころ、彼は地元のミッションスクールで聖書に接する機会があり、そして敵国の宗教であるキリスト教に激しい敵意を抱くようになりました。そして聖書を引き裂いて焼き捨て、宣教師に投石するなどの迫害をしたそうです。
 しかし15才の彼には、心に平安がなく、苦しみも深まりました。彼の心には満たされない切実な飢え乾きがあり、絶望が深まるばかりでした。そしてついに、あの世に行って安息を得ようと考えるに至り、鉄道の線路に横たわって、朝5時に通過する特急列車にひかれることにしました。午前3時にシーク教の定める沐浴を済ませると、一心に祈ったそうです。「神よ、もし本当にいるのなら、私に正しい道を示してください。そうすればわたしはサードゥー(修行者)になりましょう。さもなければ死にます」と。1時間半ほど祈っていた時のこと、突然大きな光が部屋を照らし、何か高貴な姿がそこに現れたそうです。そして声がしました。「おまえは、なにゆえわたしを迫害するのか。わたしがおまえのために十字架上で、わが命を捨てたことを思い起こせ!」
 それは、彼が待っていたクリシュナでもなく、仏陀でもなく、イエス・キリストだっ
たのです。彼は、キリストの神を求めたわけではなく、ただ命がけで神を求めたのです。その結果答えられたのがキリストであったのです。彼はキリストが生きていることを知り、その足下に自分の身を投げ出しました。そして求めに求めていた平安と喜びが心に充ち満ちたのです。こうして彼はキリスト者となりました。
 
 このサンダー・シングのできごとは、私自身のことを思い起こさせます。神を信じなくなり、やがて病のために死の淵まで行った私は苦しさのあまり神を思い出し、神に助けを求めました。そうして助かりました。私は神を求める資格が全くなかったにもかかわらず、神に助けを求めたんです。神さまはそんな私を憐れんでくださいました。そして今日の私があるのです。
 私たちは、たしかにキリスト信徒ですが、いつのまにか神を求めなくなってしまわないでしょうか。キリストを信じれば、それで終わりではありません。永遠に神の新しい恵みを求め続けるのです。ゆっくり歩いて神を求めるのではなく、走って神を求める者でありたいと思います。


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