2022年5月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書34章31
    ペトロの手紙一2章21〜25
●説教 「お任せできる方」

 
   主の羊の群れである私たち
 
 先ほど読んでいただきました旧約聖書のエゼキエル書の言葉を、もう一度見てみたいと思います。
(エゼキエル書34:31)「『お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である』と主なる神は言われる。」
 これは主なる神さまの言葉です。「お前たち」というのは私たちのことです。「群れ」というのは羊の群れで、私たちのことを指しています。聖書ではよく神さまが羊飼いに、私たちが羊にたとえられます。羊というのは群れで生活します。そして弱い動物です。猛獣から身を守ることができません。またどこに飲み水があるか、どこに食糧である草があるかよく分からないという動物です。ですから羊飼いが必要です。野獣から守り、草や水の有る所に連れて行く。その羊飼いが神さまにたとえられています。
 「お前たちはわたしの群れ」だと言っておられます。私たちは神さまのものであると言ってくださっています。そして「わたしの牧草地の群れである」と語っておられます。日本では、雨が多いのでどこでも草が生えますが、イスラエルでは荒れ野というものがあります。そこはほとんど草が生えません。わたしがイスラエルに行きましたときに、草が生えていない殺伐とした山の斜面で山羊が何か食べていました。それは乾燥した所に生えている低い木の枝をポリポリと食べていました。本当は青々とした草を食べたいのでしょうが、ないから仕方ありません。
 しかし今日のエゼキエル書の聖書箇所では、主は「わたしの牧草地の群れ」と言っておられます。豊かに草が生えている牧草地なんです。もうどこかに牧草を探しに行く必要がない。主なる神さまの元で養って下さるといわれるんです。心配しなくて良いと。
 今年は作家の三浦綾子さんの生誕100周年だそうです。三浦綾子さん自身は、亡くなられてから23年経ちますが、いまだに多くの読者がいます。今月号の月刊誌『百万人の福音』に、生前、三浦綾子さんが星野富弘さんの所を訪ねて対談したときの記事が載っていました。星野富弘さんは、ご存じのように、首から下が全く動かないという障害を負っているわけですが、その対談の中にこのようなやりとりがありました。
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[三浦] 私もむやみやたらと病気ばっかりしましてね。問題は、どこから来たかわからないけど、神さまのみこころによってこの世に生まれた。そして、どこに行くのかということも、神さまのおっしゃるとおりであれば、神さまが備えていてくださるところへ行くわけでしょう。私には、それがどこかわからないけれども、神さまがいらっしゃるから安心だって思うのよ。私が死んで、神さまも死んでしまうんだったら心配ですけどね。神さまがなさることだから、風はいずこより、人間はどこから来て、どこへ行くのか、それも神さまは知ってらっしやる、とそう思うんです。
[星野] どこへ行くかわからないけど、神さまは自分が死んだあともいてくださる。いつも誰かが見ていてくれるというのは心強いですね。・・・
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 本当にそうだなと思いました。「わたしはお前たちの神である」と主は言われます。ありがたいことです。
 
   召された理由
 
 本日は、ペトロの第1の手紙から恵みを分かち合いたいと思います。きょう読んだ所の25節にこう書かれています。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方の所へ戻ってきたのです。」
 ここでも私たちが羊になぞらえられています。私たちは、まだ主を知らない頃は羊のようにさまよっていた。先ほど申し上げたように、羊は自分ではどうしたらよいか分かりません。しかし今は主を知り、主を信じることによって、魂の牧者、すなわち羊飼いである主イエス・キリストの所へ戻ってきたのだと言われています。
 「戻ってきた」と言われています。戻ってきたと言われているのですから、その前には離れていったということがあったはずです。私たちはみな神さまによって造られ、神さまによって命を与えられたはずです。しかし私たちは、その神さまのもとを離れていった。命を与えてくださった神さまのもとを離れていった。離れていったという意識すらなかったでしょう。多くの人は、自分が神さまによって造られ、神さまによって命を与えられたとも思っていなかった。神さまを知らなかったというのは、神さまのもとを離れていったんです。神など信じないということは、神さまのもとを離れているんです。羊飼いを失った羊のように、どこに行けば飲み水や青草があるのかも分からない。野獣に襲われればひとたまりもない。そういう生活をしていた。しかし、今は魂の牧者であるイエスさま、監督者であるイエスさまの所に戻ってきた。
 どうして戻ってくることができたのでしょうか?‥‥それが、その前のところに述べられていることによってです。そこに書かれているのは、イエスさまの受難についてです。
(23〜24節)「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
 このキリスト・イエスさまのおかげで、わたしたちは救われた。そのことを思い返すように、ペトロは導いています。
 実際、イエス・キリストが私たちを罪から救うために十字架にかかって死んで下さったということは、教会では繰り返し聞く話しです。だから耳にタコができてしまいそうになり、そのキリストの愛に鈍感になってしまいそうになります。しかし何度思い返しても尊いことであるに違いありません。
 三浦綾子さんの本を読んでおりましたら、次のようなことが書かれていました。
”「あなた一人だけのためにでも、キリストはあなたの罪を負って、十字架にかかって下さったでしょう」と、ある伝道師が言ったとき、私は旋律にも似た激しい感動を受けた。この自分の罪のために死んでくれた人がいた、ということが、理屈ではなくて肌身に沁みてわかったのである。” (『平凡な日常を切り捨てずに深く大切に生きること』p.15)
 教会ではよく「キリストは私たちを救うために十字架にかかって下さった」と言います。また「キリストは全人類を救うために十字架にかかってくださった」とも言います。しかし「私たち」とか「全人類」というのは本当なのですが、ともするとそれは集合写真の中に自分も見えるというように考えてしまうのではないでしょうか。大勢の中に、自分が小さくぼやけているというような印象です。
 しかしその伝道師の先生が言ったように「あなた一人だけのためにでも、キリストはあなたの罪を負って十字架にかかってくださったでしょう」という言葉。もし仮に、世界中の人がみんな罪を犯さない正しい人であって、ただこの私一人だけが罪人であったとしたら、イエスさまは十字架にかかってくださったのか? このつまらない、救っても何の価値もない、死んでも誰も困らないような私だけが罪人であったとしたら、果たしてイエスさまは、そんな私を救うために十字架にかかってくださったのか?‥‥そんな無駄なことをイエスさまはなさるのか?‥‥そのような問いを持ったときに、「あなた一人だけのためにでも、キリストはあなたの罪を負って十字架にかかってくださったでしょう」という言葉は、ほとんど信じられないぐらいの愛を感じるわけです。
 
   模範
 
 そして今日の聖書は、その尊いキリストの愛が、私たちの模範であると言っているのです。それで21節に戻ります。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」
 「その足跡に続くようにと模範を残された」‥‥。キリストを模範とすると言われますと、それはとても無理だとしか言い様がありません。特にキリストは、私たちを救うために十字架にかかって死なれたわけですから、そんなことは私たちにとっては不可能なことです。
 しかしここで言われているのは、キリストと同じように十字架にかかれということではありません。23節に書かれていることです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」ということです。
 私はむかし、ののしられたら、その何倍にもののしり返さないと気が済まない人間でした。やられたらやり返す。やり返さないと腹が立って腹が立って、どうにもならないと思いました。「苦しめられても人を脅かさず」と書かれていますが、苦しめられたら、どうやって仕返しをしようかと怒りと共に真剣に考えました。ですから、23節に書かれているように、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず」というのは何か別世界の話しのように感じられたことでしょう。
 しかしイエスさまを信じるようになり、その恵みの尊さを知るに従って、「やられたらやり返す」という復讐の感情が次第に薄らいでいくのが分かりました。それは本当に感謝なことでした。自分自身が憎しみに縛られていたからです。その憎しみから解放されていくというのは、ありがたいことでした。
 そして、イエスさまが命に代えて私たちを救ってくださったようなことはできるはずもありませんが、自分を苦しめる人を憎むのではなく、その人が救われるように祈るということを教えられたこともまた感謝なことでした。そのことができる、できないというよりも、そういう道があるということを教えられたことが感謝でした。
 
   聖餐式
 
 本日は、このあと聖餐式があります。それはまさに、神の敵であった私たちを救うために十字架にかかってくださったキリストを証しするものです。「私たちを救うため」というのは、この私を救うためということであり、三浦綾子さんの本にありましたように、「あなた一人だけのためにでも、キリストはあなたの罪を負って、十字架にかかって下さった」というキリストの愛の証しです。感謝して聖餐にあずかりたいと思います。


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