2022年4月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マタイによる福音書7章7〜12
●説教 「信仰のビジョン」

 
   希望は神にある
 
 私が購読している新聞に短歌が掲載されていました。こんな短歌が目に止まりました。「突然に世界の終わりがあり得ると妻がつぶやき頷く朝(あした)」
 ウクライナで起きている戦争。ロシアの大統領が、核兵器の使用をちらつかせています。その大統領は、核のボタンを持っています。核ミサイルは1時間以内に世界のあらゆる所に届きます。まさにこの短歌が現実味を持って感じられる、そういう絶望的な現実が世界を覆っています。連日報道されている、ロシアのウクライナに対する侵略戦争。信じられないような残酷な現実がそこにあります。報道を見ていて、胸が痛くなります。まさに戦争とは人殺しでしかないことが、あらためて明らかにされています。
 かつて、悲惨な第2次世界大戦を経験した人類は、それを教訓にして進歩できるという楽観論がありました。さまざまな問題が山積しているけれども、人間の英知によってそれを乗り越えることができるという楽観論です。しかし、それは幻想であったことが今や明らかになっています。今この地球で起こっていることは、まさに黙示録の世界を見ているようなできごとです。いや、まさに私たちは黙示録の描く時代の中にあるのです。
 私たち人間は、少しも進歩しないことをあらためて覚える必要があります。私たち罪人は罪人のままです。しかし、その罪人である私たちの罪をゆるして神の前に立たせてくださるキリストがおられ、そしてそういう私たちを清めて変えて行ってくださる聖霊におすがりしたときに、希望がある。すなわち、このような人間を見捨てないでいて下さるキリストがおられるというところに希望があり、救いがある。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。その真の光であるイエス・キリストを信じる者でありたいと思います。
 
   今年の主題聖句
 
 本日の聖書箇所は、「ローズンゲン」の聖書日課からいったん離れまして、このあとの教会総会で提案する今年度の主題聖句を含む箇所といたしました。主題聖句として提案いたしますのは、マタイ福音書7:7のイエスさまの言葉です。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 おととし新型コロナウイルス感染症が始まって以来、社会も教会も防戦一方でした。特に当初は、得体の知れないウイルスであると思われ、どうやって教会に来る人を感染から守るかを第一に考えることとなりました。それで、おととしの4月12日のイースターから5月31日のペンテコステ礼拝までの約2か月、教会堂に集まっての礼拝を休止いたしました。誰も経験したことのないことです。
 その礼拝堂に集まっての礼拝を休止している期間中、いつもの礼拝の時刻には、インターネットの動画配信をするために、牧師と役員のみによって礼拝を守っていたわけですが、たまにそこに入ってくる方がいました。教会堂の玄関の鍵は締めないことにしていたからです。その礼拝堂に入ってきてライブ配信のためにいる者と共に礼拝を守る。
 私はそれを見て、あらためて「教会は何のために建っているのか?」と自らに問いました。教会は何のために建っているのか?‥‥もちろん礼拝をするためですが、「教会」という言葉自体が礼拝するために集まっているという言葉ですので、礼拝は礼拝するためにあるというような意味になってしまい、答にはなっていません。「教会は何のために建っているのか?」‥‥それはやはりイエスさまご自身がおっしゃった言葉に答を求めなければならないでしょう。そしてその答とは、復活されたイエスさまが弟子たちに向かっておっしゃった言葉にあります。マタイによる福音書の一番最後です。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 ひと言で言えば伝道です。そうして、世の終わりまでいつも私たちと共にいて下さるキリストと共に歩んでいくということです。そのことをあらためて強く示されました。
 
   求めなさい
 
 昨年度の主題は、一昨年度と同じ「主を証しする教会」でした。困難な中でも、いや困難な中でこそ主は生きておられる。そのことを証ししたい。そういう思いでした。いかがでしょうか?主が生きておられることを確認できましたか?‥‥私は、教会として、生きておられるキリストを確認することができたと思っております。しかしそれを証しするということについては、十分ではなかったと反省しております。
 そして今年度は、今日の説教題となっていますが「ビジョンを持つ教会」です。未来の教会の姿を見ようというわけです。そしてその根拠となる主題聖句が、マタイによる福音書の7章7節です。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 イエスさまの言葉です。「求めなさい」と言われます。私たちの積極的な願いを求めておられます。ただいつものことを繰り返し行っていればいいというのではありません。「求めなさい」と呼びかけておられます。「探しなさい」「門をたたきなさい」と、私たちの積極的な応答を求めておられます。そしてこの「求めなさい」というのは、自分で努力して求めなさいということではありません。神さまに向かって求めなさい、ということです。求める相手がいるのです。それが神さまです。神さまに向かって求めなさい、そうすれば与えられると言われます。
 もちろん、この言葉だけを取り出して、願ったものは何でもかんでもかなえられると思ってしまってはなりません。
 先日、テレビを見ておりましたら、プーチン大統領が十字を切っている姿が映っていました。それがいつの映像が知りませんが、何を祈ったのでしょうか。そしてその祈りは聴かれるのでしょうか?
 私たちはこのイエスさまの言葉が、5章から始まっている、いわゆる「山上の説教」の中で語られている言葉であることを忘れてはなりません。そうすると、この7章7節の直前には「人を裁くな」という教えがイエスさまから語られています。その前には「思い悩むな」と教えられています。さらにその前には「天国に宝を積む」ことが教えられています。そしてそのもう少し前には、「敵を愛しなさい」という教えが述べられています。そして「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という教えがあります。そのような一連の教えの中で、「求めなさい」という言葉が語られているのです。その「敵を愛しなさい」という主の言葉をプーチン大統領は聞いているのか。もちろん、これは何もプーチン大統領だけの問題ではありません。私たちの問題です。敵を愛しなさいという言葉、その他のイエスさまの教えの言葉を聞かずに、ただ自分の願いをかなえてくれということだけでは、それは偶像礼拝になってしまいます。偶像は何も語ることができないからです。そうであってはならないのです。
 そうすると、私たちもまた神さまに求める資格がない者に違いありません。しかしその山上の説教は、マタイ福音書の5章から始まっていました。その最初の言葉は、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)というものでした。私たちは心の貧しい者である。イエスさまの教えをちゃんと守ることのできない罪人である。しかしそういう私たちを「幸いだ」とおっしゃって下さる。そのように、私たちが罪人であることを認め、祈りをきいていただく資格がないことを自覚したときに、イエスさまの「求めなさい」という言葉が恵として聞こえてくるのです。そうして感謝して、「求めなさい」という招きの言葉にお応えして、求めて良いのです。
 
   ビジョンを持つ
 
 そしてそれを今年度の教会の主題聖句としました。つまり、教会として主に求めるということです。ビジョンを持つということです。そのビジョンとは、教会が与えられた使命に従ったものでなくてはなりません。すなわち、多くの人が神さまを求めるようになること、そして多くの人がキリストのもとに導かれることです。そして教会に集うようになること。それらを具体的に神さまに求めて行きたい。ビジョンを持ちたいということです。
 しかし今は、日本のキリスト教会は低下傾向にあります。キリスト教会だけではありません。日本の宗教界全体が低落傾向にあります。それは人口減少や少子高齢化というだけではありません。日本人の中から信仰心が失われつつあるのです。それで日本のキリスト教会も困難な時を迎えています。日本基督教団の統計を見ても、教会数はこの10年間で約60教会も減っています。信徒数は2万人以上減少しています。こういうことから、今教団の中では、10年後には教会はこんなに減る、20年後にはこうなってしまう‥‥というような予測をする人もいます。
 しかし私は、それは間違っていると思うのです。単に数字だけ見て予測するのであれば、信仰は必要ありません。昔イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、ファラオの軍隊が追いかけてきました。しかし逃げようにも、前は海ですから逃げようがありません。絶体絶命のピンチでした。そのとき主は、モーセに持っている杖を海の上に向かって差し伸べなさいと言われました。モーセはその言葉にしたがって杖を差し伸べました。すると海が二つに分かれて、乾いた道が現れ、人々はそこを渡って逃れて行くことができました。これは人間の計算、予想を主が覆されることをよく表しています。
 人間というもの、危機にならなければ本当に神さまにすがりません。ですから、今の状況は、本当にこれらのみことばを信じて神さまにすがるように招いておられることだと思うのです。
 
   ビジョンを持つ教会
 
 私が伝道者となって最初に遣わされたのは、地方の人口がどんどん減っている地に建つ小さな教会でした。礼拝に来る人は私たちを入れても10人でした。しかも高齢者が多い。それで、まわりの教会には、この教会はやがてなくなってしまうと言う人もいました。しかし私はそうは思いませんでした。なぜなら、聖書にはそのようなことが書いていないからです。それどころか、教会は最初わずかな人たちから始まりました。そのとき、世界中に教会が建つことを誰が予想したでしょうか。
 またもう一つ、私には主からビジョンが与えられました。それは、海の潮が次第に満ちてくるというビジョンでした。それで私は、人間の計算ではなく、聖書の言葉と主から与えられたビジョンのほうを信じることにしました。そうして求め続けました。その結果どうなったかというと、町の人口はどんどん減っていきましたが、教会のほうは少しずつ人が増えていきました。かつて、この教会は年寄りばかりだからやがて皆亡くなって教会はつぶれてしまうと言った人は、もう何も言わなくなりました。
 このことはもちろん私の力によるものではありません。主の力です。主のみことばが本当であると思いました。私のような心の貧しい者でも幸いだとおっしゃって下さる主、罪をゆるして下さる主、そしてみことばによって希望を与えてくださる主がそうなさったのです。だから信じるということはすばらしいことだと言えるのです。みことばがすばらしいのです。主がすばらしいのです。
 今日の聖書の中で、神さまは私たちを我が子として見てくださっていて、子供には良い物を与えてくださると書かれています。人々が神を求めるようになる、これは良いことではありませんか? 人々が悔い改めて主イエス・キリストを信じるようになる、これは良いことではないでしょうか?
 イエスさまは、マタイによる福音書8章13節で「あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃいました。これを教会に対して語られた言葉として聞きたいと思います。私たちはどう信じるのか。私たちには無理でも、神にはできると信じたいと思います。喜ばしいビジョンを描きたいと思います。そして心を合わせて主に求めて歩みたいと思います。


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