2022年4月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教・復活祭礼拝
●聖書 サムエル記上2章6〜8
コリントの信徒への手紙一15章1〜11
●説教 「新しく生きる命」
イースターおめでとうございます。このようにあいさつをしまして、一方では、現在の世界はとても「おめでとう」などとのんきにあいさつできるような状況ではないと思われる方もいらっしゃるかも知れません。新型コロナウイルス感染症はまだ収まっていません。また、ロシアによるウクライナへの戦争によって多くの人々が命を落とし、傷ついています。それだけではなく、世界にも日本国内にも、多くの苦しんでいる人がいます。そのようなことを教会は知らないのか?‥‥そのように思われる方もいらっしゃるかも知れません。
しかし、にもかかわらず、このキリストの復活を祝う言葉は誰も取り上げることのできないものです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストは、そのような悲惨と苦しみの中にある私たちを救うためにこそ十字架にかかられ、そして神がそのキリストをよみがえらせてくださったからです。それゆえ、ここにこそ救いがある、ここにこそ希望がある、そういう思いで「イースターおめでとうございます」と申し上げています。
福音の再確認
本日与えられた聖書箇所は、使徒パウロが書きましたコリントの信徒への第一の手紙の中の箇所です。コリントというのは、ギリシャの国の中にある大きな港町です。パウロは聖霊の導きによってここで伝道し、教会の群れができました。そのコリントの町の兄弟姉妹たちにパウロが手紙をしたためて、教えを述べているのがこの手紙です。
1節でこう述べています。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」
かつてパウロが、初めてコリントの町にイエス・キリストの福音、すなわち喜ばしい知らせを告げ知らせた。その福音をもう一度知らせると書いています。もう一度語らなくてはならないと述べている。なぜもう一度語らなくてはならないのか? それは、間違った方向に行ってしまわないために、もう一度語らなくてはならないということです。それは、きょう読んだ箇所のあとの所に詳しく書かれているのですが、要するに、「復活」ということを否定する人が教会の中に現れた。復活を否定したら、福音がひっくり返ってしまう。それでパウロは、もう一度語って知らせると述べているのです。
その福音は「あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音」であると言っています。この「生活のよりどころにしている福音」という文言は、直訳すると「その中に立ってきた福音」というような文言になります。私たちの人生は、どこに立つかということが肝心です。たとえば氷の上に立ったらどうでしょうか?‥‥つるつるすべって、うっかりすると転んでしまいます。泥沼の上に立ったらどうでしょうか?‥‥徐々に沈んでいってしまいます。立っているだけで精いっぱいということになってしまいます。他に何もできません。
新共同訳聖書では先ほど読んだように「生活のよりどころにしている」と訳していますが、これももわかりやすい訳です。つまり、私たちが生きていく上での拠り所はなにかという問いを含んでいます。お金を拠り所とするのか、それとも誰かの人間を拠り所とするのか、なにを生きていく上での拠り所にするのかという問いです。ここでは「生活のよりどころにしている福音」と書かれていますから、あなたがたが信じて、そこに立ってきた福音、イエス・キリストの福音ということになります。それは、頭の中だけのことではない。わたしたちが生活し、生きていく時に力になるから福音なのです。
そのように、あなたがたは信じて福音に立ってきたではないか、キリストの福音をよりどころにしてきたではないかと、思い起こさせているのです。お金をよりどころにしてきたのではない。人間をよりどころにしてきたのではない。「あすのことを思いわずらうな」とおっしゃったイエスさまを信じて立ってきたではないかと言っているんです。そのことを思い起こしてほしいと。
十字架と復活が中心であること
3節に「最も大切なこと」と述べられています。すなわち、それが福音の中心であるということです。キリスト信仰の中心であるということでもあります。キリストが、聖書(この場合は旧約聖書を指しています)で預言されているとおり、私たちの罪のために死なれたこと、そして葬られたこと、そして聖書で預言されていたとおり三日目に復活したこと。すなわち、十字架と復活が最も大切な福音の中心であると述べています。そしてそれらは荒唐無稽な作り話ではなく、実は聖書で神があらかじめご計画なさっていたことであったといいます。
ここで、十字架だけで復活がなかったとすると、「わたしたちの罪のために」という言葉が「わたしたちの罪のせいで」となってしまいます。つまり、イエスさまはわたしたちの罪のせいで十字架で死んでしまわれた、と。死んでしまったら、もう手遅れです。「覆水盆に返らず」ということわざの通りです。
しかし「十字架」に続いて「復活」が起きました。復活によって、イエスさまは「わたしたちの罪のせいで死んでしまわれた」ということが、「イエスさまはわたしたちの罪を背負って死なれたけれども、復活されてわたしたちを罪から救ってくださった」ということになったのです。この罪人である私たちが赦され、神さまに受け入れられるものとなったのです。ゆえに、復活がないとわたしたちは救われないままとなってしまいます。
復活の事実
続けてパウロは、その復活が事実であることを語ります。
5節で、復活のイエスさまがケファに現れたと書かれていますが、このケファとはペトロのことです。そして、12使徒に現れた。さらに500人以上の兄弟たちに現れたと書きます。この出来事は、おそらくマタイによる福音書の最後の場面、つまりガリラヤの山での出来事のことを言っているものと思われます。そののち、「すべての使徒」に現れた。この「すべての使徒」というのは、12使徒とは別に書かれていますから、12使徒のあとに教会の中で使徒として選ばれた人たちということです。使徒というのは教会のリーダーで、イエスさまの復活の証人でもあります。
そして最後にパウロは、「月足らずに生まれたような私にも現れました」と述べています。自分は教会を迫害したのだから「使徒と呼ばれる値打ちのない者」である。にもかかわらず、そういう私の所にも、復活されたイエスさまは現れてくださった、という深い感動と感謝がこめられている言葉です。
復活は何をもって証拠とするか
そのようにして、パウロは、キリストの復活が事実であったことを述べます。しかし、そのようにあの人も復活のイエスさまと会った、この人も復活のイエスさまと会ったと言って、それがキリストが復活したことは事実であると証明しようとしているのでしょうか?
たしかにそのように復活されたイエスさまと会った人たちが現にいるということは、イエスさまがよみがえられた証明にはなるでしょう。しかしそれは「過去に」イエスさまが復活された、という歴史的なエピソードで終わってしまうことになりかねません。
しかし、パウロは自分で「最後に月足らずで生まれたような私にも現れました」と言っていますが、パウロの復活のキリストとの出会いは、12使徒や500人の弟子たちの場合とはちょと違っています。というのは、パウロは復活して天に昇られたあとのキリストに出会っているのです。12使徒や500人の弟子たちは、昇天する前の復活のイエスさまと会っている。しかしパウロの場合は、復活されて40日経ってイエスさまが天に昇られて父なる神の所に戻られた、その天に戻られたあとのイエスさまと出会っているのです。
使徒言行録の9章を見ると、パウロは最初キリスト教会が憎くて迫害していました。キリスト教徒というのは神の敵であると思っていました。そしてキリスト教徒を迫害している最中、使徒パウロは突然天からの光に照らされたのです。そして地面に倒れる。そしてキリストの声を聞くのです。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか?」と。パウロに同行していた人たちも光に照らされ地面に倒れて声を聞いたのですが、その声の主の姿は見なかったと書かれています。しかしそれはたしかに、キリスト・イエスさまの声でした。それはそのときのパウロとの会話、そしてその後のできごとを読むと分かります。
パウロはショックを受けました。キリスト教会を激しく迫害していたパウロ。しかしそのとき、キリストが光と声をもってパウロの所に現れた。しかもパウロを罰するのではなく、ゆるして招くために現れなさった。さらに、そのパウロを世界に福音を宣べ伝えるようにされた。パウロの感激は、いかばかりであったことでしょうか。
生けるキリストと共に
そのようなことで、パウロもキリストの復活の証人となりました。それは、復活のあとイエスさまが天に昇られて、それで終わりではないということです。天に帰られたあとも、イエスさまはわたしたちとお会いになることができるのです。生きておられるキリストです。パウロは、自分の罪がゆるされ、そして復活のキリストと共に歩む。それを身をもって経験していったのです。
それゆえ、私たちも復活のキリストと会うことができるのです。イエス・キリストは生きておられる。そのキリストと共に歩むことができる。それが福音です。喜ばしい知らせです。
最初の1節に「生活のよりどころとしている福音」という言葉がありました。それは直訳すると「その中に立ってきた福音」という意味であると申し上げました。すなわちそれは、復活されたキリストの中に立って生きるということです。わたしたちはよみがえられ、生きておられるキリストの中に立って生きることができる。ひとりぼっちではない。生けるキリストと共に、そのキリストの中に入れられて、キリストという揺るぎない足場に立って生きる。このことを今一度思い起こしたいと思います。
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