2022年4月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書50章5〜6
      フィリピの信徒への手紙2章5〜11
●説教 「キリストの従順」

 
   棕櫚の主日
 
 先ほど讃美歌1編の130番を歌いました。「よろこべや、たたえよや」という歌詞で、たいへん有名なヘンデルの作曲です。今週は受難週で、イエスさまが十字架にかけられることを思い起こす時ですが、この曲は、その受難週にふさわしくないのでは?と思われた方もいるかも知れません。なぜこの曲を歌ったかと言いますと、今週は受難週ですが、今日は教会暦で「棕櫚の主日」という日だからです。2千年ほど前のきょう、イエスさまはロバの子に乗って、エルサレムの都に入られました。そのとき、群衆がイエスさまを歓迎して叫びました。マタイによる福音書によると、群衆は、「ダビデの子にホサナ(万歳)。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」(マタイ21:9)と歓声を上げて、イエスさまをお迎えしました。このイエスさまこそ、新しくイスラエルの王となられる方だ、自分たちを苦しみから救ってくれる方だ。そういうことで歓声を上げて迎えたのでした。
 しかし実に、その週の金曜日にイエスさまは十字架につけられることになります。そのとき、多くの人々はイエスさまのもとを去っていきました。「この人は救い主ではなかった」と思いました。
 しかし今日の聖書は、その十字架にかかられたイエスさまこそ、いと高き方であり、真実にホサナと呼ぶべき方なのだということを強く教えています。
 
   1〜4節
 
 さて、本日の聖書箇所は使徒パウロがギリシャのフィリピの町の信徒たちに宛てて書いた手紙の中の箇所です。今日は5節からの所を読みましたが、実はその前の1節〜4節の部分も読んでみたいと思います。
 "そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。"
 この中に「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいと書かれています。相手を自分よりもすぐれた者だと考える。このことについて、自分が尊敬する人については、相手を自分よりもすぐれた者だと考えることができるでしょう。しかし、自分が嫌いな人、あるいは好ましくない人については、自分よりもすぐれた者だと考えることはできません。むしろ、軽蔑し、低く見るに違いありません。
 しかしここでパウロは条件を付けていません。すなわち、「尊敬する人を自分よりもすぐれた者と考えなさい」とは言っていないのです。つまり、誰であっても互いに相手を自分よりもすぐれた者だと考えよ、と述べています。そのようにして、他人のことにも心を留めなさいと言っている。そして続くのが、本日の聖書箇所である5節〜11節です。
 
   人となられたキリスト
 
 5節に「互いにこのことを心がけなさい」とあります。これは、その前の1〜4節のことを指しています。そしてなぜそのように、へりくだって互いに相手を自分よりもすぐれた者だと思い、他人のことにも注意を払わなくてはならないかということの理由が次に述べられています。「それはキリスト・イエスにも見られる」からだと。キリストであるイエスさまがそうであった、そしてあなたもそういうキリストによって救われたのだよと、そのようにパウロは語りかけています。そしてそのキリストが、いかにへりくだられたかということを述べていきます。
 6節で「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と述べています。
 ここで「神の身分」という言葉ですが、身分というとたしかに分かりやすいのですが、本当は「神の形」あるいは「神の姿」という言葉になっています。すなわち、聖書では天地の造り主である神を見ることはできないと書かれています。その目で見ることのできない神の形、姿がキリストであるということです。三位一体の神で、目で見ることのできる方がキリストという言い方もできるでしょう。神の子としての神です。
 そのキリストが、「人間と同じ者になられた」と7節に書かれています。つまりこれがイエスさまが人の子としてこられた、ということを言っているわけです。このことは、キリストがお生まれになる前から、存在しておられたということでもあります。その神の形であり姿であるキリストが、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(6節)人としてこの世に来られた。それはつまり、高さの極みにおられた方が、私たちの所まで低く下られたということです。それが「へりくだって」(8節)ということです。
 これはとても考えられないようなことです。例えば、ある国の独裁者が、きょうから大企業の社長である人が、いきなり平社員になれと言われて、なれるでしょうか?‥‥普通なら腹を立てて会社を辞めてしまうでしょう。あるいは、大スターである俳優が、明日から俳優を辞めて新人の付き人に慣れと言われたらどうでしょう。おそらく、これも腹を立てて事務所を辞めてしまうでしょう。
 神の形であられた方が、人の子となって低く下られたというのは、それ以上のことに違いありません。天地の造り主、私たちを造った神の形である方が、私たちと同じになって、しかも私たちに仕える。いったい何のためにそうなさったのか?と、不思議に思います。そしてその目的はなんだったのか?
 
   へりくだり
 
 8節の「へりくだって」という言葉にもう一度注目してみます。ここでいう「へりくだり」とは、どういうものだったのか。それはただ人の子となられたということにとどまらず、「僕の身分になり」(7節)というところまでへりくだられた。僕というのは、奴隷という言葉と同じです。仕える者です。つまり、私たち人間に仕えるしもべとなられたということです。
 と言っても、私たちの言いなりになるという意味での僕ではありません。8節に「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書かれています。この場合の「従順」とは、私たちに対して従順であったというのではなく、神への従順ということです。完全に神に従ったということです。それが十字架の死であったのです。すなわち、父なる神の御心は、キリスト・イエスさまが、私たちの罪を代わりに背負って償うことであった。それが十字架です。その神の御心に従順に従ったというのです。
 それゆえ、へりくだりということは、私たち人間の言いなるになることではないのです。神に完全に従って、私たちを救うために命を投げ出すという形で、私たちに仕えるということです。そのために、最も低い所まで行かれた。すなわち、十字架にかかられたということです。
 十字架は死刑台ですが、当時の人々にとっては最も忌むべきものでした。死刑の中でも最も卑しめられた呪いでした。十字架にかけられた死刑囚は、まず断末魔の苦しみを味わいます。そして絶命いたします。そのあと、そのまま朽ちるまで十字架上に放置されたという説と、十字架から取り下ろされてその辺に放置されたという説がありますが、いずれにしても墓に葬られることもなく放置されたのが一般的だったようです。そして、鳥や獣のエサとなった。そういう末路をたどることもあって、十字架刑は最も卑しむべきもの、言わば人間の中で最も低い場所であったと言えます。
 イエスさまは、そこまでへりくだって、私たちの救いのために仕えられたのです。
 
   神の敵であった私たちのために
 
 神の形であられたキリストが、底まで低く下って仕えられた、その私たちというのはどういう存在か。神を信じず、神にそむき、神の敵であったのが私たちです。そういう私たちは、神さまから見たらまさに救うに値しない者に違いありません。しかし神は、その救うに値しないような私たちをあわれみ、救うために御子イエス・キリストを遣わされた。それにキリストは完全に従った。そういうことです。
 7節に「自分を無にして」という言葉があります。キリストが、自分を無にした。無にしたとはどういう意味かということですが、これはギリシャ語で言うと、ガサッと中身を空けてしまうことを言うそうです。すなわち、キリストが、ご自分の命を私たちのためにガサッと空けてしまわれた。それが十字架です。そこにキリストの愛が現れています。
 
   誉めたたえられるべき方キリスト
 
 そのようにへりくだって仕えたキリストを、神が高く引き上げたというのです。9節に「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と書かれています。それは最も高く引き上げられたということです。十字架という最も低い場所から、最も高いところに引き上げた。
 「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(11〜12節)
 「天上のもの」とは天使や天界の存在です、「地上のもの」とはこの世で生きている私たちのことです。「地下のもの」とは、死んで陰府に下った者たちのことです。そうしたすべてのものがキリストを主と仰ぐ。そのことが神の御心であるということです。最も低く下られたキリスト。そして神によって最も高く上げられたキリスト。この方こそ、我が主である。そのように告白して、父なる神をたたえる。それが神の御心であると述べられています。
 
   仕える者となれ
 
 そのようにしてあなたがたは救われた。それゆえ、あなたがたも互いに仕え合いなさい、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えられているのです。あなたもキリストによって用いられる。それは、あなたがへりくだってこそ用いられるのであると。
 
 「青年塾」を展開している上甲晃(じょうこう・あきら)さんが、マザー・テレサに会った時のことを文章に書いておられました。上甲さんは、マザー・テレサにぜひ会いたいという思いを募らせ、インドのカルカッタ(現・コルカタ)へ行ったそうです。彼女に直接、どうしても聞いてみたいことがあったからだそうです。‥‥当時のカルカッタは人口1千万人のうち2百万人が路上生活者で、至るところに生死も分からない行き倒れの人が転がっていました。全身から膿を出している人、ウジ虫の湧いている人、とても側に寄れたものではありません。しかしマザー・テレサと仲間のシスターたちは、一番死に近い人から順番に抱きかかえて、「死を待つ人の家」に連れていき、体を綺麗に洗ってあげ、温かいスープを与えて見送るのです。せめて最期の瞬間くらいは人間らしくと願ってのことでした。運よく、カルカッタの礼拝堂でマザーに面会することのできた私は、「どうしてあなた方は、あの汚い、怖い乞食を抱きかかえられるのですか?」と尋ねました。マザーは即座に、「あの人たちは乞食ではありません」とおっしやるので、私は驚いて「えっ、あの人たちが乞食でなくていったい何ですか?」と聞くと、「イエス・キリストです」とお答えになったのです。私の人生を変えるひと言でした。マザーはさらにこうおっしやいました。「イエス・キリストは、この仕事をしているあなたが本物かどうか、そしてこの仕事をしているあなたが本気かどうかを確かめるために、あなたの一番受け入れがたい姿であなたの前に現れるのです」。目から鱗が落ちる思いでした。マザーの言葉を伺った瞬間、私が松下政経塾で、あんな人は辞めてほしいと思っていた塾生が、実はイエス・キリストであったことに思い至ったのです。
 自分はこれまで、他人を変えようとするあまりどれほど人を責めてきたことだろうか。しかし、いくらそれを続けたところで人を変えることはできない。人生でただ一つ、自分の責任において変えられるのは自分しかない。常に問われているのは、自分から変わる勇気を持てるかどうかだ。このことに気づいた途端、心が晴れ晴れとしてきたのです。
(『1日1話読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』致知出版社、より)
 「イエス・キリストは、この仕事をしているあなたが本物かどうか、そしてこの仕事をしているあなたが本気かどうかを確かめるために、あなたの一番受け入れがたい姿であなたの前に現れるのです。」‥‥それは、神にとって一番受け入れがたい私という人間を、我が子を十字架にかけてまで受け入れてくださった、その神の愛を知ったときに初めて分かってくる言葉に違いありません。
 この一週間、十字架にかかられたイエスさまを思いつつ過ごしたいと思います。


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