2022年4月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記22:15〜18
    ヘブライ人への手紙5:7〜10
●説教 「キリストの願い」

 
 本日はヘブライ人への手紙の中の聖書箇所を通して、キリストのご受難の恵みを分かち合いたいと思います。ヘブライ人への手紙は、書いた人が誰であるのか分かりません。差出人が書かれていないのです。むかしはパウロが書いたのではないかと言われていましたが、パウロの場合は必ず自分が差し出したことを手紙の中で書いていますので、そうではなさそうです。誰が書いたのかは今となってはよく分からないけれども、手紙の内容は実に福音に満ちています。
 
   キリストの受難と叫び
 
 さて、今日の聖書箇所の中で、たいへん印象的なことが書かれています。それは7節に書かれていることです。もう一度お読みします。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
 この中で「肉において生きておられたとき」というのは、神の御子であったイエスさまが人の子として地上を歩まれた時のことを指しています。つまり福音書に書かれているイエスさまです。そのイエスさまが、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈られたと書かれています。イエスさまが、そんなにも激しく叫び声を上げて祈られ、また涙を流して祈られたということに、私たちは衝撃を受けるのではないでしょうか。
 イエスさまは、なぜ涙を流して激しく祈られたのでしょうか? イエスさまが神の子であるならば、そして死んでも父なる神が復活させてくださることが分かっているならば、何も恐れることなどないのではないか?‥‥そのように思います。
 しかしそれが、神の子であるイエスさまが、人の子となられたということです。「肉において生きておられたとき」、つまり私たちと全く同じように、この肉体を持つ人の子となられた。肉体ですから、たたかれれば痛いし、お腹もすくし、生きるためには食べなければなりません。そして死が訪れます。すなわち、人の子となられたということは、人間の味わう恐れ、悲しみ、苦しみを味わわれたということです。
 このことは、逆に私たちが自分の身に置き換えて考えてみると、黙想することができます。自分に十字架の苦しみと死が目前に迫っている。そのように考えてみると、だんだん分かってきます。そして私という人間が、最後に十字架につけられて死ぬことが分かっているとすると、どうでしょうか?‥‥恐怖に覆われると思います。
 それが神の子がそのようなことに直面されたわけですから、「なぜこんな苦しい目にあわなければならないのか」と疑問を感じて、十字架への道をやめることもできたはず。ところがイエスさまは、その十字架へと向かって行かれた。それが8節に書かれている「従順」ということです。完全に神に従って行かれた。それが従順であり、へりくだりということです。
 
   キリストの涙
 
7節「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
 この「激しい叫び声」をあげられたのはなぜでしょうか? そして「涙を流しながら」御自分を死から救う力のある方に、すなわち天の父なる神に祈りと願いをささげられたのはなぜでしょうか? それは、十字架にかかって死ぬことから救ってくださいということでしょうか?‥‥しかしイエスさまは、ヨハネによる福音書によれば「成し遂げられた」と言って十字架の上で息を引き取られました。そしてきょうの7節では、イエスさまのその祈りが「聞き入れられました」と書かれています。十字架の上で死なれたのに、祈りが聞き入れられたと。では何が聞き入れられたのでしょうか?
 それは復活、すなわちよみがえりです。十字架にかけられて死ぬのだけれども、よみがえる。それが聞き入れられました。では、何のためによみがえられたのでしょうか? イエスさま自身が死を免れるためでしょうか?
 そのことの答を出す前に、イエスさまが激しい叫び声を上げ、涙を流しながら父なる神に祈りと願いをささげられたというのは、いつのことなのか。福音書には、イエスさまが涙を流して祈られたということは書かれていません。しかし福音書は、イエスさまのなさったこと、教えられたことをすべて書いているのではありませんから、どこかでそのようにして祈られていたことが分かります。具体的には、十字架の前の晩のゲッセマネの祈りの時が考えられます。あのときイエスさまは、苦しみもだえて長い時間祈られました。しかしそれ以外にも、涙を流して祈られたのだと思います。というよりも、イエスさまは、しばしばそのようにして祈られたのだと思います。
 
   大祭司
 
 10節を見てみましょう。そこに「メルキゼデクと同じような大祭司」という言葉が出てきます。このメルキゼデクという人ですが、これは旧約聖書の最初の創世記14章にだけ出てくる人です。そしてこの人は「いと高き神の祭司」だと書かれています。「いと高き神の祭司」ということは、聖書に書かれている真の神の祭司であるということです。しかしこの人はイスラエル人ではありません。しかし、真の神さまの祭司であったという。そしてこの人は、アブラハムを祝福したのです。まだイスラエルの民というのが誕生する前の出来事です。つまりこの人は、不思議なことに人類を代表するような祭司として登場しているんです。
 祭司というのは、神と人間の間を取り持つ人です。仏教で言えば僧職でありお坊さんですし、神道で言えば神職、神主さんということになります。キリスト教でいえば牧師ということになりますが、本当の祭司、つまり大祭司はイエス・キリストだということになります。旧約聖書では、ただひとり大祭司だけが神の前に出ることができました。そして人々の罪の赦しを受けました。
 前任地の教会にいたときに、不動産屋さんと知り合いになりました。その不動産屋は教会と同じ町内にありました。そして教会の土地のことに関連して、その不動産屋の営業の方と仲良くなりました。彼は私を信頼してくれて、悩みを抱える人を私のところに連れて来たりしました。その彼が、あるとき聖書を買い求めて読み始めたんです。そして私に言いました。「イエスさまっちゅうのは、要するに私ら不動産屋とおんなじようなもんやね」と。イエスさまが不動産屋と同じだという話しは聞いたこともないので、「そりゃどういう意味ですかね?」と聞きますと、彼は「つまり私らは不動産を人に仲介するわね。そして「イエスさまは私らを神さまに仲介する人だね」と言うんです。彼は教会の礼拝に出たこともないのに、自分で聖書を読んだだけでそこまで分かるというのはたいしたものだと思いました。
 まあしかし、仲介するという意味では確かにそう言えなくもないわけですが、不動産屋さんと違うのは、イエスさまのほうは御自分の命を捨てて仲介しているところが大きく違います。つまり十字架です。私たちと神さまを仲介するのに、イエスさまは十字架にかかって御自分の命を献げてくださっている。
 そうすると、これが先ほどの問いの答になっています。すなわち、イエスさまが激しい叫び声を上げ、涙を流しながら父なる神に祈り願い、聞き入れられて復活されたというのは、いったい何のためであるのか?という問いです。
 御自分が死んでもよみがえるためではない。答は、私たちを救うためであるということです!イエスさまの叫びと涙と苦しみは、私たちのためです。私たちと神さまを仲介して、私たちを神さまの所に連れて行くためです。それが、イエスさまが大祭司であるということです!
 私たちを神さまの所に連れて行く。神の国に連れて行く。そのために、イエスさまは激しい叫び声を上げ、涙を流しながら父なる神に祈られ、十字架で命を献げることによって私たちを神さまに仲介なさったのです。
 
   祈りを学ぶ
 
 もう一度7節を読んでみます。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
 私が死んだとして、どれほどの人が涙を流してくれるだろうと考えたことはありませんか? あるいは、私の救いのために、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら神に祈ってくれる人がいるでしょうか?‥‥イエスさまは、この私たちひとりひとりのために、激しい叫び声を上げるほどに、そして涙を流して祈りと願いを神にしてくださった。そしてその神を畏れ敬う態度のゆえに、聞き入れられた。私たちのために、そこまでしてくださるという方がイエス・キリストです。また、ひとりの魂の救いのためには、そこまでして祈り仕える価値があるということでもあります。
 
 毎年母の日に、『讃美歌』(1954年版)の510番を歌うことが多いですが、その歌詞は、母が我が子の救いのために祈るという内容になっています。その中の第4節は以下のような歌詞になっています。
  "汝がために祈る母の いつまで世にあらん
  永遠(とわ)に悔ゆる日の来ぬまに 疾(と)く神に帰れ
  春は軒の雨、秋は庭の露 母は涙 乾く間なく 祈ると知らずや"
我が子が神とキリストを信じて救われるようになるために、母親が涙を流しながら絶えず祈っている。心に感じる讃美歌です。そこには親の愛が現れています。
 私が神学生の時に通っていた教会で、いつもこの歌をうたっていたご婦人がいました。その教会は毎週木曜日に聖書研究祈祷会があり、その前にみんなで会堂清掃をするのですが、そのご婦人は、いつも窓拭きを担当していました。そして窓拭きをしながら、この賛美歌を口ずさんでいました。それがいつもこの讃美歌を歌いながら窓拭きをしているのです。そして聖書研究祈祷会の司会は、参加者が順番に担当することになっていて、そのご婦人が司会の時は、必ずこの讃美歌を皆で歌いました。つまりそのご婦人は、自分の息子が教会につながるようにいつも祈っていたのです。
 やがて私が東神大を卒業して、その教会を去り、時が流れ、あるときその教会から送ってきた週報を見て驚きました。ある日の週報に、彼女のご子息の名前が礼拝の司会の所に書かれていたのです。私は、感慨深く思いました。主は、彼女のあの讃美歌の祈りを聞き入れてくださったのだと。
 
 私たちは、このキリストの激しい祈りと涙によって、祈りというものを学ばされます。何かちょっと祈って、神さまは祈りを聞いてくれないと言っていないでしょうか。イエスさまは、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、祈りと願いをささげられました。そしてその畏れ敬う態度のゆえに、聞き入れられました。
 私たちは、家族のために、そして隣人の救いのために、それほどの思いで祈っているだろうか。そのように思わされずにおれません。もとより、私たちの祈りは不十分な者でありますが、キリストはそのようにして私たちのために、そして私たちが祈りに覚えている人のために祈っていてくださる。そのしるしが十字架であります。このことに真実の慰めと励ましを与えられます。


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