2022年3月27日(日)逗子教会主日礼拝説教
●聖書 コリントの信徒への第2の手紙1章3〜7
    イザヤ書54章10
●説教 「苦しみの中の慰め」

 
 本日は、使徒パウロがギリシャのコリントの町、およびその地方の教会に宛てて書いた手紙から、主の恵みを分かち合いたいと思います。
 
   父である神
 
 本日の聖書箇所の新共同訳聖書には、「苦難と感謝」という見出しが付けられています。本日は教会の暦で受難節第4主日ですが、『ローズンゲン』の聖書日課では、ここを読むように指定されています。
 もう一度3節を読んでみます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」
 この中の「ほめたたえられますように」という言葉は、「ほむべき」とか「賛美されるべき」と訳すことのできる言葉で、新約聖書では神さまとイエスさまに対してしか使われていない言葉です。つまり最高の賛美とほまれをあらわしている言葉です。そしてその「ほむべき」という言葉は、原文では最初に来ています。直訳すると、だいたい次のようになります。
「ほむべきかな、神であり私たちの主イエス・キリストの父である方、慈愛の父、すべての慰めの神」‥‥私たちの神さまについてそのように述べられています。「ほむべきかな」と。
 この世の独裁国家では、独裁者である人間がほめたたえられます。人々が独裁者を万雷の拍手でもって迎えます。しかしそれは、みんな心からそうしているのでしょうか?割れんばかりの拍手をし、全力で賛美してほめたたえないと、あとでどんな仕打ちを受けるか分からない。そういう恐怖におびえてほめたたえているのでしょう。つまり、態度ではほめたたえていても、心は全く違っているわけです。
 しかし神さまはそうではありません。ほめたたえられるべき神は、父であると言われています。しかもその父とは、気難しい父ではありません。私たちの主イエス・キリストの父です。そして同時にそこでは、私たちの父でもあるのです。神は、本当は私たちの父ではなかった。しかしイエスさまが十字架にかかってくださって、私たちの罪を全部背負ってくださったので、私たちは神の子となり、神はわたしたちの父となられました。イエスさまによってそういう関係にしていただいたのです。
 3節では、その父である神が「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」と言われています。「慈愛」というギリシャ語には、同情、慈悲、憐れみという意味があります。また「慰め」と訳された言葉には、もう少しいろいろな意味が含まれていて、懇願とか、励まし、教えという意味があります。この「慰め」と訳された言葉は、もともと「傍らに呼ぶ」という意味から来ています。父となってくださった神が、私たちを傍らに呼ぶ。人をすぐ側に呼び寄せるときはどんなときでしょうか?‥‥もちろん慰めるために呼び寄せることもあるでしょう。また、励ますためである時もあるでしょう。また、丁寧に教える時もあるでしょう。いずれにしても、傍らに呼び寄せる時というのは、その人のために親身になっている時でしょう。そのように、この「慰め」という言葉は、非常に神が親しく私たちを呼び寄せ、親身になってくださることを表しています。神がそのように、苦難の中で私たちのために親身になってくださると言っているんです。
 旧約聖書を読んでいると、神さまはたいへん厳しく、罪を裁く恐ろしいイメージがしますが、ここではそのように慈愛に満ちた父であると言われています。それは、先ほど申し上げましたように、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪を代わりに負ってくださったからです。そういう十字架の恵みが現れています。
 
   苦難と慰め
 
 今度は6節を見てみたいと思いますが、前半には次のように書かれていました。
 「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」
 パウロたち、ここではパウロと若い伝道者のテモテということになりますが、そのパウロたちの悩み苦しみが、あなたがたの慰めと救いになるという。これを普通に考えてしまいますと、パウロのような人たちでさえ苦しみ悩むことがあるのであれば、自分たちに悩み苦しみがあるのは当然だなと。自分たちだけが苦労しているのではない、だからがまんしてがんばろう‥‥と、そのような意味であると思ってしまわないでしょうか。他人の苦労を見て、自分たちだけではないと思って励まされるというふうにです。
 しかし続けて後半を読むと、それが誤解であったことが分かります。
 「また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」
 すなわち、パウロたちの苦しみが、あなたがたの慰めになるのではなくて、パウロたちが苦しんでいる時に受ける慰めが、あなたがたの慰めになるということです。ではその慰め、パウロたちが受ける慰めとは何なのでしょうか? そのことが4節に書かれています。
 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」
 神さまの慰めです。パウロたちが苦難の中にある時に、神さまが慰めてくださる。その神さまの慰めは、単に自分たちを慰めてくれるだけではなくて、あらゆる苦難の中のいる人々を慰めることができるんだと、そのようにパウロは言っています。それが神さまの慰めです。
 
   パウロの経験したこと
 
 そしてその苦難の中で神さまから受けた慰めの実例を、きょうは読みませんでしたが、このあとの8節から書いているんです。そこを読んでみます。
 「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」
 このアジア州というのは、今のトルコにあたる地方ですが、そこでパウロたちが直面した苦難が何であるかは、よく分かっていません。というのは使徒言行録にはそれについて記録していないからです。だから具体的なことは分からないのですが、ここでパウロが書いていることを見ると、その苦難とは、耐えられないほどの圧迫を受けて、生きる望みさえ失うようなひどい苦難だったということです。使徒パウロや、テモテのような伝道者が生きる望みを失うような苦しみであり、試練であったと聞くと、私たちは恐れおののきます。そんな苦しみが自分を襲ったらどうしよう、と。
 いや、パウロはそれ以外にも多くの苦難に遭遇してきました。前回引用しましたように、この第二コリント書の11章でも体験した多くの苦難が書かれています。
(本書11:24〜27)「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
 これらの苦難のどれ一つをとっても、私はそんな苦しみに遭いたくないと思うものばかりです。元に戻って、8節で書かれた苦難は、生きる望みを失い、死の宣告を受けたようなひどい苦難でした。しかし続く9節に次のように書かれています。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(9節)この苦難は、死ぬことになるに違いない。しかし、死んだとしてもなお希望があるとすれば、それは神さまだけです。私たちの神は、私たちが死んだとしても復活させてくださる力のある方だからです。しかしそのような大きな死の危険から、神は救ってくださった。そういう経験をパウロたちはしたのです。だから、これからも救ってくださると信じることができるようになった。そして、自分を頼るのではなく、神を頼ることのすばらしさを学んだのです。
 このパウロの証しを聞いたコリントの教会のクリスチャンたちは、「ああ、神はそんな絶望的な苦しみからも救ってくださるのだなあ」と、慰められ、励まされる。それが4節でパウロが書いていることです。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」
 
   ヘレン・ケラー
 
 私は、若い時にヘレン・ケラーの言葉を目にした時のことを思い出します。ヘレン・ケラーについては皆さんもご存じだと思いますが、彼女は1歳の時に高熱を伴う髄膜炎の影響で視覚と聴覚を失いました。つまり、見ることも、聞くことも、しゃべることもできない、いわゆる三重苦の障害を負いました。しかし、やがて両親が家庭教師につけたサリバン先生の働きによって、ヘレン・ケラーはものごとを覚え、意思疎通の仕方を学び、やがて世界に影響を与える社会事業家となりました。日本の障害者福祉にも大きな影響を与えました。
 私は若い時に、そのヘレン・ケラーの次の言葉を目にしたのです。「私は自分のハンディキャップを神に感謝している。そのことによって私は自分自身を、神の仕事を、自分の神を見いだしたからである。」
 私は、それを見た時に驚きました。‥‥ハンディキャップ(障害)を神に感謝する?どうしてそんなに重い障害を神に感謝することができるのだろうか?いや、神を見出すということがそんなにすばらしいことなのだろうか?自分もそのような神のすばらしさを知りたい‥‥そのように思いました。最初に、きょうの聖書に出て来る「慰め」という言葉には、励ましとか教えという意味もあると申し上げましたが、まさに神を知るということについて励ましを受け、神のすばらしさについて教えられたのです。
 
   苦難はある
 
 私は、聖書では、信じれば苦難が無くなると言わないところが本物だと思います。ちゃんと、苦難があるということを言っているところが真実だと思います。しかしその苦難について、イエスさまは次のようにおっしゃっています。
(ヨハネ16:33)「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 イエスさまも「あなたがたには世で苦難がある」とおっしゃっています。「しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」‥‥私たちは、一人で歩んでいくのではありません。すでに世に勝っている方と共に行くのです。このように語られたイエスさまご自身、十字架への苦難を受けられました。それは私たちを救うためでした。すなわち、私たちを愛するがゆえの苦しみでした。6節にこのように書かれていました。
 「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」
私たちが悩み苦しむ時、そしてそれが神からの慰め、励ましを受けて癒やされる時、それは他の人の慰めと救いのために用いられることになります。そこにキリストと同じように用いられる喜びが生まれます。
 
   赦されている
 
 キリスト教ラジオ放送局FEBCが発行している『月刊FEBC』の2月号を読んでいましたら、リスナーからの投稿が掲載されていて、そのうちの一つが目に止まりました。 その方は、ヨハネによる福音書の7章〜9章を読んでいて、教会に通い始めた当時のことを思い出したとのことです。その前の年にお父さんがガンで亡くなったのだそうですが、お父さんがそれまで家族にしてきたことを赦すことができず、お父さんを助けなかったそうです。そのような自分自身をゆるすことができず、いくら教会で罪の赦しについて聞いても、「私は赦されてはいけない人間です。その資格がありません。でも教会に来て良いですか?御言葉を聞いていると落ち着くんです。礼拝にそっと参加することをお許しください」と、そのように心の中でイエスさまに言っていたそうです。
 そんな思いで教会に通っていてある日の朝、ハイデルベルグ信仰問答のテキストを一人で読んでいて、そこにこう書いてあったそうです。「たとえわたし良心が私に向かって‥‥責め立てたとしても、神は‥‥ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とを私に与え‥‥」。涙が出てきて、イエスさまは、私の罪も、赦される資格がないと思っていることもご存じなのだということが分かって、それでも「わたしのもとに来て良いんだよ」とおっしゃってくださると感じ、その日に洗礼を受けたいと申し出たそうです。
 キリストによって赦されている。この私の罪も赦されている。それは、キリストが十字架にかかられたことが確かであるように、確かなことです。それゆえに、パウロたちだけではなく、この私という人間もまた神が傍らに引き寄せてくださり、真実の慰めと励ましを与えてくださると信じることができます。


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