2022年3月20日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編35:8
     エフェソの信徒への手紙5章1〜7
●説教 みならう人

 
 ウクライナおける戦争で多くの人々が命を落としています。ロシア軍の攻撃によって、病院が被害を受ける、あるいは学校も攻撃されるという状況で、多くの子どもたちも命を失っています。この戦争が一日も早く終わることを祈ります。このような状況で、ロシア国内ではどうなっているかというと、なんとプーチン大統領の支持率が上昇しているということです。どうしてそんなことになるかというと、国内のテレビや新聞では、真実が伝えられていない。プーチン大統領の主張に沿った報道ばかりがなされている。しかもその報道は事実とは言えないようなものであるとのことです。つまり本当のことを知らされていないということです。また、インターネットも、ツイッターなどのSNSサイトが遮断されて、外国からの情報が入って来にくくされている。そういうことで、多くの国民が正しい情報が入って来ない状況にある。それで正しい判断ができなくなってしまっているということになります。
 私たちの国はどうでしょうか。確かにさまざまなあらゆる情報が入ってきます。自由に情報を得ることができます。しかし、神さまの情報は一般のテレビや新聞やインターネットニュースからは、ほとんど入ってきません。つまり、そのままでいると神さまに関する情報は入ってこないことになります。それは、私たちが自発的に情報を得る必要があるということです。聖書を読み、教会に通う。そういうことが必要になります。そのことを思わされました。
 
   神に倣う者となる
 
 さて、きょうの聖書で目を引く言葉は、1節の「神に倣う者となりなさい」という言葉だろうと思います。神に倣う、この言葉はギリシャ語で「マネをする」「見ならう」という意味があります。それは私たちにとって、非常にハードルが高い言葉のように聞こえます。いったい、なにを倣えというのでしょうか?
 もちろん、神さまに倣う、神さまのマネをすると言っても、天地宇宙を造ったり、あるいは太陽を動かして見せたり、雨を降らせたりといったようなことはできません。ですからここでいう神に倣うというのは、神さまのご性質や態度に倣うということになるでしょう。そして、実は具体的なことが、きょう読んだ前の箇所に書かれているんです。
(4:31〜32)"無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。"
 積極的な言葉としては後半の32節です。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」
 これを人間を見ならうのではなく、神さまを見ならいなさいというのです。人間を見ならうというよりも、神さまを見ならうとなると、たいへん難しいことのように思えてきます。どうしてそんなことができるかと思う。それについて聖書は1節で「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と述べています。あなたは神さまから愛されている子供である、だからできるでしょうということです。
 子供というものは、生まれてからのことがすべて初めて経験することばかりです。そして人間は、経験によってしか学ぶことができません。愛されたことのない子供は、愛というものが分かりません。また、赦されたという経験がないと、赦しということを知りません。
 しかし、あなたは神から愛されている子供だというのです。愛を知っているでしょう、と。その神の愛とはどんなものでしょうか?‥‥そのことが2節に述べられています。「キリストが私たちを愛して、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」。これは教会で繰り返し学んでいることです。キリストが十字架にかかられたことについてです。イエス・キリストが、この私たちを救うために十字架にかかってくださった。御自分の体をいけにえとして十字架に献げてくださった。そこに私たちへの究極の愛が現れています。そうして神に対する私たちの罪を赦してくださった。そのようにあなたがたは、罪人であるけれども赦された者である。だからあなたがたも赦し合うことができるでしょうと、そのようにつながります。
 確かに人を赦すということはとても難しいことです。「赦せない」ということは簡単にできても、「赦す」と言うことはたいへん難しいことです。しかし、十字架のキリストを見上げつつ、その十字架が何のためであったのかを思う。そしてその赦しの愛を思い起こすことを求めているわけです。
 先週、クリスチャン新聞福音版である『聖書をいつも生活に』の3月号を読んでいましたら、キリスト教ジャーナリストの守部喜雅さんが、自分の赦しの経験について書いていましたのでご紹介します。
 それは守部さんがクリスチャンになってから、人間関係に亀裂が入るという経験をしたことについてです。次のように書かれていました。‥‥” 一番大きな亀裂は、わたしを信仰に導いてくれた牧師との確執があります。教会に来て一〇年余りがたった時、互いの意見の違いから、わたしの心の中に、牧師を裁く思いが膨れあがり、それは憎しみに変わっていきました。しかし、幸いなことに「あなたの敵を愛しなさい」という聖書の言葉が解決の扉を開いてくれたのです。そして、どうすることもできない人間関係の確執の中で、イエス様が「あなたに助け主を送る」と言われ、信じる者の心に宿して下さった"聖霊"のとりなしによって、赦せないと思っていた牧師のために祈ることができるようになったのです。聖書に出て来る"助け主"という言葉は、英語の聖書では(カウンセラー)と訳されています。わたしは、祈りの中で、偉大なカウンセラーである"聖霊"に、カウンセリングを受けていたことになります。そのカウンセリングの中で、わたしの心にあった牧師を裁く思いがいつの間にか消え、牧師に謝罪の言葉を伝える勇気が与えられたのです。「先生、私を赦してください」。牧師の前で、私のロから、そんな言葉が自然に出てきました。その後、涙を流しながら私の手を取ってくださった牧師と共に祈った時の心の底から沸き上がる喜びの感情を決して忘れることはありません。”
 たしかに赦しは、キリストの十字架を証しするなあとあらためて思いました。イエスさまが送ってくださった聖霊、すなわち助け主のとりなしによって、ゆるせない人のために祈ることができたと書かれていました。実際に赦すということが難しいけれども、まず聖霊の助けによってその人のために神さまに祈ることができた。まず神に祈るということから始まっていることに、手がかりがあると思います。
 
   避けるべき言葉
 
 きょうの聖書の後半は、今度は何を言ってはならないかというが書かれています。「聖なる者にふさわしく」(3節)という。そういわれても、私は「聖なる者」ではないと思うでしょうけれども、これはキリストによって聖なる者とされたということです。罪人であり聖なる者ではないのだけれども、キリストが十字架にかかってくださって、聖なる者とされたのです。聖なる者ではなかったけれども、聖なる者にしてくださった。その聖なる者とは、神のものにされたということです。だから、という順序です。以下のことを守ったら聖なる者となるのではない。聖なる者とされたのだから、以下のようにしなさいという順序です。
 このことについては、前の章の29節でも言われています。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」
 つまりは相手のためになる言葉を口にしなさいということになります。それもまたキリストに倣うということです。そのように、私たちが、神さまのために働く器として用いられる。そういう使命を与えられているということが分かります。それがまたきょうの最後の言葉、8節の「光の子として歩みなさい」という言葉につながっています。
 そうしてみると3〜4節で書かれているのは、逆に相手のためにならない言葉です。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」
 そしてそれは、偶像礼拝者となってしまうということだと述べられています。偶像というのは、人間が造った神さまです。人間が造った神さまですから、ものを言うこともできません。そしてなぜ偶像礼拝がはやるかというと、まさに偶像はものを言うことができないというところが人間にとって都合が良いわけです。何もうるさいことは言わない。人間が何をしても勝手です。しかし人間の願いは聞いてくれる。もちろん聞くこともできないわけですが、聞いてくれるような気がする。だから、人間にとって都合が良く便利なわけです。
 私たちが主によって救っていただいたのに、神に愛されている子供なのに、その神さまのみ心をおこなわないならば、それはこちらの願いだけ申し上げて神の言うことは聞かない偶像礼拝者と同じになってしまうということです。
 だから神さまの御心を行うようになりなさいと。ここでは、みだらなことや汚れたことを口にしてはならないのだと言われています。
 
   語る言葉によって
 
 そのように、この個所では口から出す言葉について注意を向けているわけですが、言葉だけ正しくしても仕方がないと思われるかも知れません。たとえば、イエスさまは「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」(マタイ 15:18)とおっしゃったからです。言葉だけ正しても、心の中が変わらなければムダではないのかと思われます。
 しかし一方で言葉が人を変えていくということもあります。例えばヤコブの手紙3章2〜3節に次のように書かれています。(ヤコブ 3:2−3)「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。」
 馬を行きたい方向に操るには、口にはめたくつわで馬を操ればよい。それと同じように、自分の口を制御すれば、自分の前身を制御できるということです。言葉によって人は造られていく。たとえば、先ほども述べましたように、幼子は親が語る言葉によって言葉を覚えていきます。成長していきます。言葉が人間を造っていくとも言えます。
 だから、そのようなことを口にしてはならないというのです。そういう人間になってしまうと。そして4節の最後にこう書かれています。「それよりも、感謝を表しなさい。」ここにも感謝という言葉が出てきました。
 
 先日、テレビを見ていましたら、今話題のプロ野球日本ハムファイターズのビッグボスこと新庄監督がインタビューを受けていました。新庄監督というのは、いつも笑顔で、何か魅力を感じる人でもあるように思います。すると新庄さんはとてもポジティブにものを考える人だということが分かりました。インタビューの中で、新庄さんが逆に質問したんですね。「たとえば、外出しようと思ったときにサンダルの鼻緒が切れてしまったらどう思います?」と。するとインタビューをしていた女性は、「最悪だ」と思いますと答えました。すると新庄さんは、「僕は違うんです」と。「良かったと思う」と言いました。「外出前で良かった、ありがとうと。だって、外出先で鼻緒が切れたら、代わりのサンダルを捜さなくちゃならないでしょ」と。(正確にそういう話しだったか自信がありませんが、だいたいそういうやりとりでした。)
 私はそれを見ていて、あ〜、すごいなと思いました。なぜなら私は新庄さんが、「外出しようと思ったときに鼻緒が切れたらどう思うか?」と聞いたときに、「あ〜あ」と思うなと思ってしまったからです。まだまだですね。しかしいわれてみればおっしゃるとおりです。ましてや私たちは、イエスさまを信じているわけです。「外出前で良かった、感謝!」と言えるはずです。
 そのように、神さまイエスさまに対する感謝の言葉を、思うだけではなく口にしていく。そうして、私たちの全身が主の言葉によって動かされていく、作られていくということになるのだと思います。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。神に愛されている子供だという言葉が、私たちを安心感で包んでくれます。


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