2022年3月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記50章19〜20
    ロ−マの信徒への手紙5章1〜5
●説教 「苦難を誇る」

 
   3.11
 
 先週3月11日は、東日本大震災の発生から11年目となる日でした。昨日の新聞に、津波で流された娘の手がかりを探すために、南相馬市の海岸を歩くご夫婦のことが記事として掲載されていました。11年経っても、毎月11日に自分たちが住む新潟県から南相馬市に車で通い、車内で寝泊まりしながら海岸に何か手がかりが落ちてはいないかと探しているとのことでした。防潮堤や町の再建というハード面では復興は進んでいる様子ですが、家族を失った一人一人の心の傷は癒やされることがないということを感じました。神様の導きがあるようにと祈りました。
 
   苦難を誇る
 
 さて、先週でマタイによる福音書の連続講解説教は終わり、今日からしばらくの間、『日々の聖句』(ローズンゲン)の日曜日の聖書日課に記されている使徒書の聖書箇所に従ってまいります。きょうは、ローマの信徒への手紙の5章からとなります。
 その3節に「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」と書かれています。使徒パウロの言葉です。苦難を誇りとする。‥‥印象的な言葉です。というよりも、ありえない言葉です。いったい誰がそのようなことを言えるというのでしょうか?
 誰も苦しい目に遭いたい人などいません。そういうものは避けて通りたいと思うものです。苦しい目に遭うと、神から見捨てられたと思うのではないでしょうか?あるいは、神さまは私のことを気にかけて下さらない、と思うのではないでしょうか? 多くの人は、苦難は忌むべきものと見なします。それで苦難が続くと、厄払いをしなければならないとか、占い師に頼ったりする人がいるわけです。
 しかし今日の聖書箇所では、苦難を誇るというんです。「苦難が来るのは仕方がない」というのなら、まだ分かります。しかし、それどころの騒ぎではありません。「苦難をも誇りとします」というんです。
 
   希望を生むから
 
 なぜパウロは、苦難を誇るというのか。4節には「希望」を生むと書かれています。なぜ苦難が希望を生むのか、飛躍したように感じますが、そこに希望を生む方程式ともいうべきことが書かれています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と。苦難がいきなり希望になるんではないんですね。苦難が忍耐を生み、忍耐が練達を生み、練達が希望を生むという。
 順番に見てみましょう。まず苦難が忍耐を生むという。この忍耐という言葉は、ギリシャ語では「その場に踏みとどまる」ことを言います。苦難の中に踏みとどまる。植物がそうです。植物は、じっとそこに生えている。例えば麦。小麦は秋に種が蒔かれます。そして芽を出すと、麦踏みをして踏みつけられる。良い麦を育てるためです。また雪が積もって覆われる。その雪の下でじっと時を待ちます。そして春が来て成長し、ペンテコステの頃に穂を実らせ、収穫の時となります。私は富山で、麦畑が収穫の季節になると一面黄金色にかがやいている光景を忘れることはできません。そのように、その場に踏みとどまるのがここでいう忍耐です。踏みとどまらないで逃げることができれば良いのですが、中には逃げることのできない苦難もありますね。そういう苦難の中にいる人にとっては、このことは慰めであり希望になると思います。
 次に、忍耐は練達を生む。ちなみに新改訳聖書は、この「練達」という言葉を「練られた品性」という言葉に訳しています。忍耐が練られた品性を生む。これは分かりやすいかもしれません。例えば、がまんすることを教えられずに育った子ども、甘やかされて育った子どもはおとなになってわがままな人になるということがあります。だから忍耐は必要だということは理解しやすいことです。しかし、それだけで終わってしまうと、それはこの世の考え方と同じことになってしまうでしょう。たとえば「若いときの苦労は買ってでもせよ」ということわざがありますが、そういうことなんだ、で神さま抜きで終わってしまいかねません。
 実はこの「練達」というギリシャ語には「実証」という意味があるんです。実証実験の実証です。するとなにを実証するかということですが、それは聖霊なる神さまが共にいて下さることが実証されることだと、私は思います。苦難の時、そして逃げることもできずそこにとどまらざるを得ないとき、神さまは私をお見捨てにならない。そして約束通り、聖霊なる神さまが共にいて下さる。そのことが分かる。そのことが実証される。そういう経験をするということです。そこが、単なるこの世のことわざとは違うところです。聖書の言葉の真実を実証する。そうして私たちの信仰が練り清められると。
 そしてその練達が希望を生むというのです。それは御言葉に裏付けられた、確かな希望です。キリストによる希望です。ゆえに苦難はそのように、御言葉の真実、聖霊の真実を体験できるできごととなるということになります。
 私はこの言葉をあらためて思い、苦しみに遭ったことを振り返ってみて、本当にそうだなと思いました。
 
   神との間の平和があるから
 
 そのように、パウロが苦難から忍耐、練達を経て、確かな希望が与えられると断言する理由はなんでしょうか? 苦難というものは災難である、あるいは神の罰ではないと言える理由です。
 そのことが1〜2節に書かれていることです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
 キリストによって神との間に平和を得ている。この「平和」という言葉は、最も好ましい状態を表します。すなわち、私は罪人であるにもかかわらず神さまとの間に平和を得ている。キリストが、罪人であるこの私を救うために十字架にかかって下さったからです。ここに根拠がある。こうして私という人間が、かつては神の敵であったけれども、キリストがとりなしてくださったので、今や神さまとの間に平和を得ているということです。
 そしてそのことは、「信仰によって義とされた」結果だというのです。神さまから見て自分は義ではない、つまり正しい人間ではない。しかしイエス・キリストを信じることによって、罪を赦して下さった。救われたんです。それが「信仰によって義とされた」ということです。それで、もはや神の敵ではなくなり、救われた。神の子としていただいたのです。そして聖霊を受けたのです。
 それが5節の後半につながることです。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」罪人である私たちが、イエス・キリストを信じることによって、罪を赦され、義と認めていただいた。神の子とされた。愛されている。そのしるしとして聖霊が与えられているということです。
 こうして苦しみは神の罰ではなくなりました。むしろ神が私たちを愛してくださり、苦難を通して神の言葉の確かさを実証してくださり、希望を確かなものとする機会となるということです。それで、苦難を誇りとするという言葉に至ります。
 
   苦難を経た人々
 
 さて、そのように言うパウロ自身はどうだったのか? 何かパウロはいい加減なことを行っているのではないか、と思われる方もいるかも知れません。調子が良すぎると思われるかも知れません。しかし、パウロが書いたコリントの信徒への第2の手紙に次のように書かれている箇所があります。
(Uコリント 11:24〜27)"ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。"
 伝道者としてキリストの福音を各地で宣べ伝えたパウロは、そのような苦難に遭ったと言っているのです。なんともすさまじい苦難です。とくに私は「一昼夜海上に漂ったこともある」と述べていることについて、想像しただけでもゾッとします。船が難破したのでしょう、海に放り出されて、一昼夜海の上を漂ったという。おそらく難破した船の板きれか何かに捕まってでしょうけれども、広い海、陸地の見えないような海の真ん中に放り出され、そこを漂ったとしたら、もう絶望のあまりおかしくなってしまうのではないかと思います。「神さまはこんなところで本当に助けてくれるのか?」と思うのではないでしょうか。信仰のチャレンジですね。そういう時に、聖霊なる神さまが共におられることを信じる。また、神の御言葉を思い出して、神さまにすがる。まさに信仰のチャレンジです。まさに御言葉によって練り清められる。練達です。
 そういう多くの苦難を経たパウロが、今日の聖書箇所を書いたのです。机上の空論ではないのです。実際にパウロが経験したことに基づいて、本当に苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと述べているのです。
 
   ヨセフ+アルファ
 
 きょう読んだ旧約聖書は、創世記の終わりのほうのヨセフの言葉です。ヨセフという人は、イスラエルという名前を神さまからいただいたヤコブの12人の息子のうち、下から2番目の息子でした。お父さんのヤコブはヨセフをたいへんかわいがりました。それで、兄たちからねたまれることになりました。
 ヨセフは17歳の時、父ヤコブの知らぬうちに外国の商人によって奴隷としてエジプトへ売り飛ばされました。そしてそこでも苦労を重ね、無実の罪で牢屋に入れられましたが、あるとき、エジプトの王様の夢を解き明かして、一気にエジプトの宰相の地位を与えられました。もちろん、神様の力によって解き明かしたのです。そのとき40歳となっていました。そして王の夢を解き明かしたとおり、エジプトとその近隣諸国はそのあと7年の大豊作、続けて7年の大飢饉に見舞われました。その飢饉の時に、食糧を買うためにカナンからやって来た兄たちと再会することになるのです。ヨセフは、エジプトの宰相ですから、かつてヨセフを殺そうとし、また奴隷として売ろうとした兄たちに復讐することも簡単にできたはずです。しかしヨセフは兄たちを赦し、自分がエジプトに奴隷として売られたのも、この飢饉から家族を救うための神のご計画だったのだと言った。それが、きょう読んだ創世記50章の中の言葉です。
 したがって、このヨセフもまた、苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が主にある確かな希望、そして主のご計画を成就するためのものであることを証ししています。
 
 インターネットに、共同通信社と全国の47の新聞社によって作られている「47ニュース」というWebサイトがありますが、先週ある記事が目に止まったのでご紹介いたします。それは「アルコール依存症で自暴自棄だった男性が、ホップ栽培に見いだした生きがい」という見出しで、大阪に住むSさんという男性の方についての記事でした。
 Sさんは、父親の不倫によって、望まれずに生まれた子だったそうです。子どもの頃、親に抱っこしてもらったという記憶がないそうです。高校卒業後就職しましたが、体を痛めて転職してから、接待などで浴びるように酒を飲むようになったそうです。34歳で結婚しましたが、35歳の時、覚醒剤所持で逮捕され、妻とは数年で別居となったそうです。その頃から酒に歯止めがきかなくなったとのことです。次第に働く気力がなくなり、生活保護となり、その保護費もほとんど酒に消えるという生活。ビールは一日に20本も飲み、それを体が受け付けなくなると焼酎に変えましたが、そちらも一升瓶を1日で開けるほど飲む。そして周囲にうながされて医者に行くと「アルコール依存症」との診断。それが47歳の時だったそうです。突然意識を失って倒れ、病院の集中治療室で生死をさまよったこともあるそうです。しかし、よい医者に出会い、一緒にがんばろうと言われたり、周囲の人に助けられて酒を止めることができたそうです。
 そのSさんは、クリスチャンなんです。きっかけは、覚醒剤で逮捕され、拘置所で手にした一冊の本『刺青クリスチャン 親分はイエス様』。36歳の時のことだったそうです。執行猶予の判決で拘置所を出て、自宅のポストに入っていたチラシを見ると、その本に書かれていた牧師が講師の伝道集会の告知。そして教会に行ったそうです。その元極道の牧師の話に心が揺さぶられたそうです。終盤、「イエス様のために祈りたいと思う人はいますか」と牧師が呼び掛けると、自然と手を挙げていた。祈りの後、「あなたの罪は全て許されました」と言われた。「自分の中にあるどす黒いものが、どろっと流れた気がした」そうです。翌月に洗礼を受けたそうです。
 しかしまた酒に溺れるようになると、教会に行かなくなる。その教会の牧師、村田先生という現在97歳の女性牧師によると「なにか問題を起こすと、戻ってくる」とのこと。村田先生は「私にはうそばかりついていました。お酒をやめたとか、たばこをやめたとか。本当のことは顔を見れば分かるんですけれどね」という。Sさんはあるとき、村田先生に問い掛けたそうです。「なぜ僕みたいに繰り返し放蕩する人間を、この教会は受け入れてくれるんですか?」。村田先生は穏やかに言いました。「神様は、たとえ自分を裏切った人でも愛します。あなたもキリストの弟子。愛されているんですよ」
 その愛が重かったそうです。「愛をもって接してくれてるのに、自分はうそをついてばかり。自己嫌悪の繰り返し。何かを成し遂げてから戻ろうって、そればかり考えていた」とのこと。しかし、今は心の底から悔い改め、堂々と通えるようになったそうです。「自分の栄光はどうでもええと気付きました」‥‥。そう語っておられました。
 きょうのローマ書の5章1〜2節をもう一度読みます。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」


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