2022年3月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書45章22
    マタイによる福音書28章16〜20
●説教 「与えられた使命」

 
   マタイ最終回
 
 マタイによる福音書を、この礼拝でずっと読み続けてきましたが、本日で終わりとなります。振り返ってみますと、2018年4月15日に第1回目をはじめましたので、4年近くかかったことになります。そして今日で158回目となります。
 最終回。連続テレビドラマなどを見ていて、いつも思うことですが、最終回って難しいなあって思います。夢中になって見た大河ドラマや歴史上の人物を描いたドラマも、最終回を迎えてラストシーンを見ると、なんだかもの足りないような感じがしてしまいます。では聖書のこのマタイによる福音書はどうでしょうか?‥‥そんな興味を抱きながら、きょうの聖書の箇所を味わいたいと思います。
 
   11人となった使徒
 
 そうすると今日の聖書箇所は、復活なさったイエスさまと弟子たちと会う場面になっています。
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」‥‥「11人の弟子たち」と何気なく書かれていますが、私はここに非常な痛みを感じるんです。これまでは、このマタイによる福音書でも「12人」という言葉でくり返し出てきました。イエスさまがお選びになった使徒である12人ですね。しかしきょうは「11人」。一人欠けています。欠けているのはイスカリオテのユダです。
 イスカリオテのユダは、ご承知のようにイエスさまを裏切った人です。12人の中の一人でありながら、祭司長たちから銀貨30枚をもらって、イエスさまを捕らえる時と場所の手引きをした人です。そしてお金でイエスさまを裏切ったという罪責感から、自ら命を絶った人です。そのように、自殺で一人欠けている。「11人」という書き方は何気なく思いますが、そのような重みと言いますか、痛みを感じます。
 いっぽう、そのユダを除く11人は、やはりイエスさまを見捨てた人たちです。イエスさまによって選ばれながら、十字架の前にイエスさまを見捨て、逃亡し、あるいは否認し、イエスさまの十字架の死にあたっては葬ることもせず、人々を恐れて家に閉じこもっていた人たちです。人間的な言い方をすれば、イスカリオテのユダは自らの裏切りの責任をとり、他の11人は恥をさらし、醜態をさらしながら生きながらえている。そういう11人です。
 
   ガリラヤの山
 
 その11人の弟子、言い換えれば使徒たちと、復活されたイエスさまとの再会の場面が今日の聖書箇所です。マタイは復活のイエスさまと弟子たちとの場面として、この一つだけを書いています。もちろん、復活なさったイエスさまが、その次にいきなりこのガリラヤの山に行かれたわけではありません。この前に、すでに11人の弟子たちとはお会いになっています。16節には、弟子たちが「イエスが指示しておかれた山に登った」と書かれていますが、イエスさまがガリラヤのどの山に行くように指示しておられたのかはどこにも書かれていません。つまり、マタイによる福音書では、その場面も含めて、復活されたイエスさまのできごとについてかなり省略して書いています。
 十字架の死から3日目の日曜日の朝、墓場に行った婦人たちと復活されたイエスさまとの出会いのあと、どういうことがあったのか? 他の福音書を見ると、だいたい次のようなことがあったことが分かります。すなわち、その日の午後、日が傾いてきた頃、エマオという村へ戻っていく二人の弟子たちのところに、復活されたイエスさまが現れました。このことはルカによる福音書に書かれています。そのあと夜、エルサレムの町の中の弟子たちが集まっていた家に、イエスさまが現れました。このことは、ルカによる福音書とヨハネによる福音書に書かれています。それから一週間後の日曜日、再びエルサレムの家に集まっていた弟子たちのところに現れます。それから、ガリラヤに戻った使徒たちがガリラヤ湖で漁をしていた時の朝、そこにまたイエスさまが現れています。そして弟子たちに朝食を用意されていて、一緒に食事をとったことなどが書かれています。これもヨハネ福音書に書かれています。そしてルカ福音書では、またエルサレムに戻り、そこでイエスさまが天に上げられたことが書かれています。
 そのように、復活なさったイエスさまが、弟子たちの前に何度も姿を現され、共に食事をなさったりなさいました。
 
   イエスの最後の言葉として
 
 しかし、マタイによる福音書では、最初の復活の日曜日の朝のできごと以外は、この一つのできごとのみを記しています。それが今日の聖書箇所です。そしてこれはキリスト教会では、イエスさまの「大宣教命令」と呼ばれています。全世界に行って福音を宣べ伝えるように、イエスさまが弟子たちにお命じになった箇所です。
 実はこの時このガリラヤの山にいたのは、11人の弟子たちだけではなかったと考えられています。他に500人以上の兄弟姉妹たちがいたと考えられています。なぜなら、コリントの信徒への第1の手紙15章で、復活されたイエスさまがペトロと使徒たちに現れた後、「次いで、500人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(1コリント15:6)とパウロが書いているからです。そうすると今日の聖書で、復活のイエスさまに会って「疑う者もいた」と書かれている理由が分かるんです。11人の使徒たちは、すでに何度か復活されたイエスさまに出会っているから疑っていない。しかし他の500人以上の兄弟姉妹たちは、そのほとんどが初めて復活のイエスさまにお会いしているので、疑う者もいたということになります。
 11人の弟子たちと、その他のこの多くの兄弟姉妹たちは、やがて教会の一員となっていく人たちです。ですから、一般に「大宣教命令」と呼ばれる今日のイエスさまの言葉は、教会に対して語られた教えであると言うことができます。
 
   大宣教命令
 
 そしてイエスさまがおっしゃったのは、まず「わたしは天と地のいっさいの権能を授かっている」ということでした。「天地とのいっさいの権能を授かっている」、誰から?もちろん父なる神さまからです。
 ではその権能とは何か?‥‥ヨハネによる福音書の17章2節によれば、それは「すべての人を支配する権能」であり、その目的は「永遠の命を与える」ことだということです。イエスさまを信じる人に永遠の命を与えることができる。ここに、復活が単にイエスさま1人にとどまらないものであることが明らかにされます。
 そして続けておっしゃったのは、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」でした。「すべての民」は、「すべての国民」と読むことができる言葉になっています。世界中のすべての国民、すべての民族です。「この国は例外だ」というものはありません。もちろん日本も入っています。そしてそのために、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と続けて言われます。「父と子と聖霊」、ここで三位一体の神の名が表されています。イエスさまご自身の口によってです。これが私たちの神です。
 すなわち、十字架にかかって死なれたイエスさまは、父なる神さまによって復活され、人々に永遠の命を与える権能を授かった。それゆえ、世界のすべての人々をこの永遠の命に招き入れるために、出かけて行って、人々を弟子として洗礼を授け、キリストの教えを教えなさい、と言われたのです。それは、教会というキリストの体に招くということでもあります。新しい神の民としての教会です。それを、キリストに代わってしなさいと。
 
   罪赦された者としての弟子たちに
 
 そのような使命を弟子たちに与えられました。しかしその弟子たちは、そのようなイエスさまの使命を担っていくには、最もふさわしくない人たちのように見えます。なぜなら、先ほど申し上げたように、この弟子たちは十字架の前にイエスさまを見捨て、裏切り、否認し、逃げて行った人たちだからです。まことに弱い、使い物にならないような弟子たちです。その弟子たちを、イエスさまは見捨てずに、このように世界の人々を救うために用いると言われる。
 理解できません。なぜそんな弱い、罪深い者を、お用いになるというのか?‥‥しかし一つ言えることがあります。それは、この弟子たちは、赦しのすばらしさというものを、身をもって体験したに違いないということです。イエスさまを見捨てて逃げて行った自分たちを、このように愛し、赦し、使命を託して下さるのですから。だから、イエスさまの赦しと愛を誰よりも身をもって知ったという点では、他の誰にもおとらない。そこです。赦しのすばらしさ、愛のすばらしさを彼らは知ったんです。そしてこんな弱く罪深い自分を救うために、イエスさまが十字架で命を捨てて下さったということを、だれよりもよく分かったに違いないからです。だから、その喜びを伝えなさい、と。
 私も同じです。本来ならば、「私は牧師です」と名乗るのも恥ずかしいような者であります。しかしはっきり胸を張って言えることがあります。それは、「こんな私のような者でも、イエスさまは救ってくださるんだ。ありがたい」ということです。その喜びは偽りのないものです。
 
   世の終わりまで
 
 最後にイエスさまは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃいました。「いつも」というと、なんだかあまり実感が湧かないかも知れませんが、この「いつも」と日本語に訳されている言葉は、「すべての日々において」という意味の言葉が使われています。つまり、この日も、この日も、この日も、すべての日において‥‥というような感じです。言い換えると、きのうも、今日も、あしたも‥‥ということです。きのうも、今日も、あしたも、私はあなたがたと共にいるとおっしゃる。
 マタイによる福音書が、復活のイエスさまが何をして、どんなことをおっしゃったのか、なぜもっとたくさん記録していないのか?と思うかも知れません。しかし、それはイエスさまを信じるあなたが、復活して今も生きておられるイエスさまを確認することができるのだ、だからもうこれ以上詳しく書く必要はない、あなた自身が生きておられるイエスさまを体験しなさい‥‥そういうことだと思います。
 「いや、でも先週を振り返ってみても、奇跡も起きなかったし、イエスさまが共におられたようには感じないなあ」と思うかも知れません。だとしたら、前にも申し上げたことですが、たとえば百個の感謝を探してみて下さい。例えばきのうのことを振り返るんです。きのうのことを忘れてしまったのなら、朝起きたときからのことを振り返ってみると良いです。‥‥朝目覚めることができた、感謝。起きてみたらまだ世の中が終わっていなかった、感謝。それは、神様が今日わたしに生きなさいとおっしゃっていることですから、それも感謝。鳥が鳴いている、感謝。歩くことができた、感謝。聖書を開くことができた、感謝。祈ることができた、感謝。水道から水が出た、感謝。‥‥という具合です。また、体に痛いところがあったら、今が受難節であることを思い出し、キリストの十字架の苦しみを覚えることができて感謝。また、痛いことを訴える神さまがおられることに感謝‥‥と、そうして感謝と賛美をしているうちに、主が生きておられるという信仰を取りもどすことができます。目が開かれて、復活の主イエスが生きておられることが分かってきます。
 なぜなら、詩篇100編に書かれているとおりだからです。「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。」‥‥感謝と賛美によって、生ける主に出会うことができるからです。
 主イエス・キリストが復活して、生きておられる。こうして、このマタイにる福音書で語られたキリストの教えがすべて過去のものではなく、今の言葉としてよみがえってまいります。
 最初に、連続ドラマの最終回は、何かどれを見ても物足りないような気がすると申し上げました。マタイによる福音書はいかがでしょうか? 私たちを救うために命を投げ出して十字架にかかって下さったイエスさまが、よみがえって生きておられる。話は終わっていないのです。今生きておられるキリストと共に、今日からまた新しく始まるのです。ここから永遠に成長していくという希望が満ちています。


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