2022年2月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書9章1
    マタイによる福音書28章11〜15
●説教 「光と闇」

 
 ロシアがウクライナに侵攻し、戦争を始めました。目を疑うような光景がニュースで流れています。大国が、さしたる理由もないのに隣国に堂々と攻め込むなど、まるで第二次世界大戦の時代に逆戻りしてしまったかのような光景です。平和というものが一瞬で粉みじんにされるということを、私たちは目の当たりにしています。私たちは、理性や常識といったものが、独裁的な指導者にとっては何の役にも立たないことを思い知らされています。
 この根底には、もちろん人間の罪があります。罪と向き合おうとしない人間の問題があります。神さまを抜きにして、人間の思いと力で目的を果たそうとするところに罪があります。プーチン大統領がただちにこの暴力を停止して、戦争を終わらせるように、そしてウクライナの国民の命が守られるように、私たちは祈る者でありたいと思います。
 
   番兵たちの報告
 
 いよいよマタイによる福音書の説教も、あと1回を残すのみとなりました。そして今日登場する人たちも、今回のウクライナを侵略している指導者と同じように、神さまを抜きにして、人間の思いと力で目的を果たそうとする罪の姿をあらわにしています。
 イエスさまの復活、それは人類史上最大の喜ばしいできごとだと思います。死という絶対の暗闇が打ち破られ、私たちに命の光が差し込んだというできごとです。ところがそれを喜ばしいと思わない人たちがいました。それどころか、復活をなかったことにしようとする人々が、今日の登場人物です。それは、ユダヤの祭司長たちであり、議会の有力者である長老たちです。祭司長といえば、それはエルサレム神殿の礼拝をつかさどる人たちであり、宗教指導者たちです。神さまのことを人々に教える立場の人たちです。
 彼らにイエスさまの復活について報告したのが、墓を見張っていた番兵たちでした。その番兵たちは、この祭司長たちがローマ帝国の総督であるポンテオ・ピラトにお願いして、イエスさまの墓を見張るために出してもらったのでした。番兵を出してもらった理由は、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗み出してイエスの復活をねつ造するかも知れない、というものでした。そして、イエスさまの葬られた墓を見張らせました。
 ちなみに、イエスさまの墓を番兵が見張っていたことについて記録しているのは、このマタイによる福音書だけです。マタイは、この福音書で、イエスさまのできごとについて淡々と事実を書いていくようなところがあります。それはマタイが、もとは徴税人であったからかもしれません。
 それはともかく、祭司長たちは総督ピラトからローマ兵を借りて、番兵としてイエスさまの墓を見張らせました。そしてイエスさまが墓に葬られて3日目の朝、イエスさまの復活が起きたわけです。
 番兵たちは、そこでなにを見たのでしょうか?‥‥28章の前半に書かれていることからすると、まず大地が大きく揺れて、イエスさまの葬られた墓の入り口の墓石が転がされたのを見たでしょう。そして、白い服を着て光り輝く人がその上に座ったのを見ました。それで番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになったと書かれています。そしてその光り輝く人が、墓場に来た婦人たちに語りかけるのを見ました。そしてそのあと婦人たちが、もと来た道を帰っていくのを見ました。そして婦人たちが戻っていく途中で、よみがえったイエスさまに出会った場面も見たかもしれません。つまり婦人たちが墓からエルサレムへと引き返していったそのすぐあとに、イエスさまが現れたと考えられるからです。というのは、今日の聖書箇所の11節に「数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」と書かれているからです。「この出来事すべて」は、前の箇所を指していて、そこには復活なさったイエスさまが婦人たちに会う場面が含まれているからです。さらに言うと、もしかしたら番兵たちは、イエスさまがよみがえって墓から出てくるところを見たかもしれないのです。だから彼らは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)‥‥そのようにも考えられます。
 
   復活をもみ消そうとする人々
 
 ともかく、番兵たちは自分たちが見たことを祭司長たちに報告しました。すると祭司長たちは、長老たち(議会の有力者たち)と集まって相談したという。祭司長たちと長老たちと言えば、これはイエスさまを捕らえて死刑にすることを決めた人たちです。そしてどうすることにしたかというと、番兵たちに多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言えと頼んだのでした。
 つまりこれは、イエスさまの復活をなかったことにしたということです。イエスさまの復活という、人類の歴史上もっともすばらしいことと言えるできごとを、その神の奇跡をもみ消そうとしたのです! イエスさまのよみがえりは、天の神さまのなさったことです。その神さまのなさったことを、なかったことにしようとしたのです! しかも、お金で神の奇跡をもみ消そうとしたのです!‥‥これはもう彼ら祭司長たちは、宗教者の名に値しません。
 彼らは、番兵たちがウソをついているとは言っていません。また、番兵たちがウソをついたとも思っていないでしょう。なぜなら、墓を見張る任務に就いていた番兵たちが、イエスの弟子たちがやって来て墓からイエスの遺体を盗むことを許したということになれば、番兵たちの罪が問われるからです。それは、警察が警備していたのに、目の前で泥棒に入られたようなものです。
 たとえば、使徒言行録12章では、使徒ペトロがヘロデ王によって捕らえられたことが書かれています。教会ではペトロのために熱心に祈りがささげられていました。すると夜中に主の御使いが現れて、ペトロを牢から連れ出すという出来事が起こりました。神さまが御使いを遣わして、ペトロを牢から出したのです。そういう奇跡が起きました。朝になってみると、牢屋にいるはずのペトロがいない。当然、牢屋で番をしていた番兵の責任が問われます。そして番兵はどうなったと思いますか?‥‥死刑になりました。それぐらい厳しかったのです。
 今日の聖書箇所に戻りますが、だから番兵がウソをつくはずもない。イエスの弟子たちが遺体を盗んだはずもないことになります。そうすると、本当にイエスは復活したということになる。しかしそれは、祭司長や長老たちにとってまずいわけです。なぜなら、イエスさまを死刑に追いやったのは自分たちだからです。
 彼らは、番兵たちからイエスさまの復活の報告を聞いて、正直どう思ったんでしょうか? ウソであるとは思わなかった。だとしたら、その復活は悪魔のわざであるとでも思ったのでしょうか? 以前、イエスさまのなさる奇跡について、悪霊の頭によって悪霊を追い出しているのだと言ったわけですから(マタイ12:24)。しかし、悪魔が死んだ人をよみがえらせることができるでしょうか? 悪魔は人を破滅させることはできても、良いことをすることはできません。なぜなら、それが悪魔だからです。悪魔が命を与えることなど、絶対にできません。
 しかしこの時彼らは、なにがなんでもイエスの復活をもみ消そうとしました。多くの金を払い、番兵たちにウソを言わせました。そして番兵たちには、祭司長たちから総督ピラトに上手に言って処罰を受けないようにするからと言って、安心させました。こうして、ユダヤの人々には、イエスの弟子たちがイエスの遺体を墓から盗んで復活をねつ造したというウワサを流したのです。
 こうして祭司長や長老たちは、人々の信仰の模範であるはずなのに、実は本当は神を信じていないことが明らかになったのです。
 
   もし信じていたとしたら
 
 もしこのとき、彼らが番兵からイエスさまの復活を聴いたとき、悔い改めていれば全く違った人生になったでしょう。「自分たちはイエスを死刑にしたが、間違っていた。本当にイエスは神の子キリストであった」と悔い改めていたとしたら、それは彼らにとっても全然違う、すばらしい世界が開けたことでしょう。
 悔い改めた祭司長たちは、復活のイエスさまに出会うことができたでしょう。そして、赦されるはずのない罪を赦していただいたことでしょう。キリストの赦しのすばらしさを体験したことでしょう。涙を流して、主の喜びに包まれたことでしょう。神さまが本当に生きておられ、永遠の神の国への道が開かれたことでしょう。
 そのように、彼ら自身にとってもせっかくのチャンスを、彼らは自らつぶしてしまったのです。ウソが怖いのは、神さまに出会うチャンスを奪うところにあります。
 
   復活はもみ消すことはできない
 
 そもそも、イエスさまの復活をもみ消すことなどできるのでしょうか?‥‥できるはずもありません。復活されたイエスさまは、そのあと生き続けるからです。復活された体は、そののち天にお帰りになりましたけれども、聖霊を通して今も生きておられるからです。
 『百万人の福音』の昨年の11月号に、大阪でカニ料理専門店を経営するTさんの証しが載っていましたのでご紹介いたします。
 大阪一の盛り場である道頓堀に、カニの足が何本もそそり立つ高さ2メートルを超える看板のある店が「大阪かに源」です。その看板が何者かに壊されてしまったというのは、ニュースにもなりましたから覚えておられる方もいるかと思います。カニの看板が壊される様子は防犯カメラに写っていて、2人組の男性が看板を何度もけって引き倒す様子が写っていました。それがニュースになりました。その後、2人の青年が「私たちがやりました」と訪ねてきたのが3日後のことでした。働いていた飲食店をコロナ禍の影響でクビになり、むしゃくしゃして酒に酔ってやったというのでした。Tさんは、2人を赦してあげました。そして、テレビのインタビューでTさんは、「ぼくはクリスチャン。キリストの教えは人を赦すこと」とはっきり答えたとのことです。
 この「大阪かに源」の社長であるTさんが教会に通い始めたのは、約4年前だったそうです。妻と不仲になり、妻が子どもたちを連れて家を出て行ってしまったそうです。子どもに会えないのがつらい。思い詰めたTさんは妻に危害を加えに行こうとして、車に乗り込んだ。そこに友だちが一緒について来たそうです。しかし目的地に着くと、友だちは一転して、身を挺して止めてくれた。その友だちともみ合いにまでなったそうですが、友だちは何度も「かならず神さまの光が見える。信じよう」と言ったそうです。友だちはクリスチャンだったのです。そして友だちに連れられて、初めて教会に足を踏み入れた。こんな自分でも救われるなら、とワラにもすがる思いだったそうです。そうしてこう述べておられます。「教会に入った瞬間に心を打たれたんです。十字架が光のようで、目を閉じている方がはっきりと見える感覚でした。今まで経験したことのない温かさと光を感じて、涙が止まりませんでした。それから教会に通って祈り続けました。いつも泣きながら祈っていました。教会に行けば心が落ち着いたんです。」そしてその一年後、洗礼を受けたそうです。
 Tさんは、昨年5月にコロナに感染したそうです。酸素飽和度が急速に低下して救急車で搬送され、そのまま意識不明になったそうです。結局助かったのですが、3週間入院し、枕元の聖書に手を伸ばせないほど苦しかったそうです。そして記事では、「今生きていられることが奇跡なんです。神様に完全に信頼して、教会に行き、祈る。こういう時期だけど、得るものも多い。本当に神様に感謝です」と述べておられます。
 看板を壊したあの2人の青年は、Tさんの通う教会にやって来たそうです。「必ず光が見えるから」と、自分が妻に復讐するのを止めてくれた友だちが言ったのと同じ言葉でTさんがその青年2人を教会に誘ったのだそうです。今も2人は教会に通っているそうです。Tさんが2人に、「義理で来なくていいぞ」と伝えると、彼らは「ぼくたちはTさんのことを信頼しています。いつかイエスさまのことが分かると信じています」と答えたそうです。‥‥
 
 私はこの記事を読んで、本当にうれしくなりました。このTさんに起こった出来事は、私たちを救うために十字架にかかられたイエス・キリストが、復活されたことを証ししていないでしょうか。一人の人が救われ、変えられる。それは罪を赦し、神のもとへと招いて下さる復活のキリストのわざです。
 私たちが救われたのも、同じです。キリストの復活を人間がもみ消すことはできません。復活されて、今も生きておられるキリストがおられるからです。


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