2022年2月20日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書60章1
    マタイによる福音書28章8〜10
●説教 「復活〜よみがえり〜」

 
   人は生きてきたように死んでいく
 
 淀川キリスト教病院の理事長である柏木哲夫さんは、日本で初めてのホスピスプログラムをスタートさせた方です。そして1984年にホスピス病棟を立ち上げ、そこで20年以上にわたって2千5百人の方を看取ってこられました。
 この柏木さんが書いておられる文章に書かれていたことですが、柏木さんが実感しているのは「人は生きてきたように死んでいく」ということだそうです。「ですから、しっかり生きてきた人はしっかりなくなって行かれますし、表現はおかしいけれどもベタベタ生きてきた人はベタベタ亡くなっていく。それから、周りに感謝して生きておられた方は、我々にも感謝をして亡くなられるし、不平ばかり言って生きてきた人は不平ばかり言って亡くなっていくんですね」と書いておられます。そして「このことは、よき死を迎えるためには、よき生(せい)を生きなければいけない、ということを教えてくれていると思うのです」と述べておられます。
 この「よき生」というのは、なにが「よき生」であるかということに個人の主観が入るから人によって違うけれども、やはり前向きな人生ということ、それから周りに感謝できるということ、その二つに集約されると思うと述べておられます。ものごとには必ずプラスとマイナスがありますが、ものごとのプラス面をしっかり見た生き方をしてこられた方々、そういう方々の生は、やっぱり前向きでよき生なんだろうと思う、と。そして「感謝」というのはとても重要なキーワードであると言われます。家族や周りの人たちに対して、最後に「ありがとう」と言いながら、そして自分も相手からありがとうと言ってもらいながら生を全うできるのも、よき生だと思うと書いておられます。
(『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』、致知出版社、2020年)
 
 「あ〜そういうことなんだなあ」と思いました。人は生きてきたように死んでいく。私たちも、良き死を迎えるために、良き生を生きたいものだと思いました。そして「感謝」ということがとても重要なキーワードだと柏木さんは書いておられますが、これも本当だなあと思いました。
 少し前の礼拝で、イエスさまが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた箇所を学びました。そしてマタイによる福音書では、十字架上でイエスさまが言われた言葉として、この一つだけを取り上げているということをお話しいたしました。それはイエスさまがそのように叫ばれて、私たちに代わって神に見捨てられてくださったということを伝えたいのだということを申し上げました。
 そしてそのマタイは、イエスさまが十字架上で最後に再び大声で叫んで息を引き取られたと書いているけれども、その言葉が何であったかを書いていないわけです。これも「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を強調し、そこにイエスさまの十字架の意味を表しているからだと申し上げたわけです。
 しかし、イエスさまが十字架上で亡くなる前に最後に発した言葉が何であったか?‥‥マタイによる福音書とマルコによる福音書は書いていませんが、ルカによる福音書は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って息を引き取られたと書いています。またヨハネによる福音書では「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取られたと書かれています。
 いったいどっちが本当なんだ?と詮索しても、あまり意味がないと思います。なぜなら、ルカとヨハネは、それぞれ印象に残った言葉を記していると思われるからです。そうすると、実際に最後にイエスさまが口にされた言葉はなんだったのか?
 その時の説教をした礼拝が終わった後に、ある方が私におっしゃいました。「私はイエスさまが最後におっしゃった言葉は『ありがとう』だったと思います」と。私は思わずその方に、「良い言葉ですね」と答えました。「ありがとう」、それは日常でよく使う当たり前の言葉です。しかし実に、十字架の意味を表しているように思います。
 先ほど、淀川キリスト教病院の柏木哲夫さんが、「人は生きてきたように死んでいく」と実感されたと言いましたが、イエスさまの場合はまさに人々の罪や重荷を担って生きられた。そして十字架はまさにそのイエスさまの歩みをすべて表していると言うことができます。そして十字架にかけられたイエスさまは、私たちに代わって神に見捨てられて下さったのだけれども、しかし父なる神への感謝のうちに、すべてをゆだねて息を引き取られた。そんなふうに考えることもできます。
 
   復活〜よみがえり〜
 
 今日の聖書箇所です。ここで、イエスさまの墓に行った婦人たちは、よみがえられたイエスさまに出会います。
 安息日が明けた日の朝、マグダラのマリアをはじめとした婦人の弟子たちは、イエスさまが葬られた墓に急ぎました。そこでまず彼女たちは、神の使いに出会う。そしてイエスさまの復活を告げられました。彼女たちが、安息日が明けた日の朝早く墓に急いだのは、あわただしく葬られたイエスさまのご遺体に、香料を塗るなどして差し上げようという思いと、もう一つは、かねてからイエスさまが十字架の予告と共に復活の予告もなさっていたことを心に留めていたからだと前回申し上げました。
 またイエスさまが十字架上で亡くなられたあと、彼女たちがアリマタヤのヨセフらと共にイエスさまを墓に葬り、そのあとも墓の方を向いて座っていたのは、先ほどの柏木さんの言葉を借りれば、彼女たちもイエスさまに感謝をしていたからだと言えるでしょう。
 その彼女たちが、まず神の使いに出会う。そしてイエスさまの復活を告げられる。いきなりよみがえったイエスさまに出会うのではなく、その前に神の使いを通して語られた神の言葉を与えられる。これは、まず言葉が先にくるということです。私たちが今は、実際のイエスさまにお会いすることはできないけれども、それを約束する神の言葉を与えられているというのと同じです。神の言葉が確実にその通りになることを強調しているのです。
 そして神の使いの言葉を聞いた婦人たちは、今日の聖書では「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と書かれています。「恐れながらも大いに喜び」というのは、そのときの心境をよく表していると思います。ユダヤ人にとっては、神の使いに出会うということは、神に出会うということとほぼ同じことなんです。神に出会うと恐れを感じる。これは人間の自然な感情です。そしてイエスさまの復活を告げられたことの喜び。そういうものが入り交じった。そして御使いが言ったとおりに、エルサレムの町の弟子たちのいる所に戻っていこうとしたその途中で、イエスさまに出くわす。天使たちの言葉の通り、神さまのメッセージの通り、本当にイエスさまは復活なさっていた。
 
   「おはよう」
 
 そしてよみがえったイエスさまの第一声が「おはよう」でした。「おはよう」、なにか当たり前のあいさつ過ぎて拍子抜けするような気がいたします。
 ちなみにこの「おはよう」と日本語に訳された言葉は、直訳すると「喜びなさい」という意味の言葉です。そしてユダヤ人の普通のあいさつの言葉です。朝であれば「おはよう」、昼であれば「こんにちは」、別れるときであれば「さようなら」といつでも使えるあいさつの言葉です。同じようにふつうに使うあいさつの言葉として「シャローム」という言葉がありますが、こちらは「平安あれ」という意味です。つまりイエスさまは、彼女たちに朝のあいさつの言葉をおっしゃったんです。朝、人に会ったら「おはよう」とあいさつするように。当たり前のようにです。しかしその「喜びなさい」という普通のあいさつが、文字通り本当に喜ばしいこととなっているのが、この復活のイエスさまによって語られているということです。
 婦人たちは近寄って、イエスさまの足を抱いて、その前にひれ伏したと書かれています。この時の彼女たちは、どんな思いだったかなあと想像いたします。驚きと、うれしさと、感激と‥‥涙が止まらなかったのではないかと思います。
 しかしこの驚きと喜びと感激は、決して他人事ではない。昔話ではないということを聖書は言いたいのです。それはキリストを信じるものの復活です。たとえば次のような聖書の言葉があります。
(Tコリント 6:14)"神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。"
 それゆえ、この婦人たちが約束通り実際に復活のイエスさまにお目にかかったように、私たちもまた神の国においてイエスさまにお目にかかる約束が与えられています。そうすると、この婦人たちが味わった感激を、私たちもまた経験することができるということになります。
 
   わたしの兄弟たち
 
 感激に浸る婦人たちに対し、イエスさまは役割を与えます。それが、家に閉じこもっている弟子たちにメッセージを伝えるということでした。復活のイエスさまが現れる前に、天使が婦人たちに復活のメッセージを伝えたように、それから実際にイエスさまに出会ったように、今度は婦人たちが弟子たちに復活のメッセージを伝えるように言われたのです。そしてそのあと実際に弟子たちに復活のイエスさまが現れるという順序です。イエスさまに出会った者が、人々にそのことを伝えていく。そのようにして福音は宣べ伝えられていくのです。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)そのように伝えなさいと、イエスさまは言われました。
 「わたしの兄弟たち」とおっしゃっています!「わたしの兄弟たち」‥‥それは誰のことでしょうか?‥‥弟子たちのことです。今、人々を恐れて、そしてイエスさまを見捨てたという罪責感に打ちのめされて絶望し、エルサレムのある家の中に閉じこもって鍵をかけている弟子たちのことです。本当に情けないほどに弱く、不信仰な弟子たちのことです。その弟子たちについて、イエスさまは「わたしの兄弟たち」とおっしゃる!
 いったいこの弟子たちのどこに、イエスさまから「わたしの兄弟」と呼ばれる資格があるというのでしょうか?‥‥何もありません。イエスさまによって選ばれ、イエスさまのおそばにおいていただき、イエスさまから愛されながら、いざ我が身に危険が及ぶとなるとイエスさまを見捨てて逃げて行った弟子たち。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しながら、いざとなるとイエスさまのことを「そんな人は知らない」と言って否認する弟子。イエスさまが十字架上で亡くなったというのに、墓に葬ることを手伝うことすらせず、家にこもってガタガタ震えていた弟子たち。まったく、最低であります。救いがたい弟子たちであります。この復活の場にも居合わせていないのであります。どこにも弁解の余地はありません。もう破門どころか、神の裁きを受けても当然であります。
 しかるにイエスさまは、その人たちについて「わたしの兄弟たち」とおっしゃる。信じられません。信じられなけれども、確かにそのようにおっしゃっています。それはまるで、イエスさまがそのために十字架にかかられたと言わんばかりです。
 しかしこのことは、この私たちも同じようにイエスさまによって受け入れられていることを教えてくれます。私は、若き日にイエスさまのもとを去っていったことを思い出します。幼き日にイエスさまによって命を助けられながら、恩知らずにもイエスさまのもとを去っていきました。また、あらためてイエスさまを信じるようになってからも、何度主の言葉を疑ったことでしょうか。まさに、この弟子たちと同じであります。しかしそのような私にも主は「わたしの兄弟」と呼んでくださる。感謝であります。大いなる感謝です。
 「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。ガリラヤは、12使徒の出身地です。かつてそこでイエスさまの弟子となった。イエスさまに従って行った。その最初の場所です。その原点の場所です。
 こんなにも弱い弟子たちであることをご存じであったイエスさま。その上で弟子たちを愛し、導かれ、そして今また「兄弟」と呼んでくださるイエスさま。弟子たちはイエスさまを見捨てたけれども、イエスさまは弟子たちを見捨てない。そのイエスさまは、私たちのことをもすべてご存じの上で、招かれ、導いてくださるのです。


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