2022年2月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書49章18
    マタイによる福音書28章1〜7
●説教 「告知」

 
   失敗
 
 北京でおこなわれている冬季オリンピックもたけなわです。先週は、スキーのジャンプの団体で失格とされた選手が相次ぎ、物議をかもしました。とくに日本の女子選手も失格となり、皆さんに迷惑をかけたということで、インターネット上で謝罪声明を出しました。もちろん謝罪などする必要はないし、そもそも検査のやり方に問題があったと言われているわけですが、それでも本人は自分がみんなに迷惑をかけた、失敗をしたと思っているのでしょう。本当にかわいそうですし、立ち直ってほしいなと思います。
 私はそのニュースを見ながら、自分自身が多くの失敗をしてきたことを思い返しました。私の失敗の場合は私自身に原因があるわけですが、あのときあんなことをしなければよかったとか、あのときあんなことを言わなければよかった、あんなことにはならなかったと‥‥そういうことがありました。しかし失敗というのは、時間をもとに巻き戻すことができないわけですから、どうすることもできません。けれども「失敗は成功のもと」というように、失敗を糧として成長していくという事もあります。
 それに対して、イエスさまの弟子たちはどうでしょうか。使徒たちをはじめとした男の弟子たちは、この場にはいません。イエスさまが十字架にかかられる前の晩、イエスさまが捕らえられた次の瞬間に、使徒たちは逃げて行きました。そしてエルサレムの町の中の家に閉じこもっていました。ヨハネによる福音書によれば、弟子たちは人々を恐れて家の戸に鍵をかけていました。
 しかし「人々を恐れて」ということだけではなかったと思います。自分たちがイエスさまに対して「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と言った。ところが、いざイエスさまが捕らえられると、イエスさまを見捨てて逃げて行ってしまった‥‥。言わば、大失敗をしたわけです。自分たちの弱さのために、自分たちの保身のために、神の子キリストと信じたイエスさまを見捨ててしまった。大失敗です。「失敗は成功のもと」というようなレベルでの失敗ではない。もうイエスさまは十字架にかけられて死んで墓に葬られているわけですから、取り返しのつかない大失敗です。それはむしろ「覆水盆に返らず」ということわざのほうでしょう。イエスさまを裏切った罪、その罪責感に打ちのめされていたことでしょう。自分の大失敗を自分で責め続けていたに違いありません。
 それに対して、本日の聖書箇所のイエスさまの復活の告知は、考えられないような福音であると言えるでしょう。弟子たちの罪を赦して余りあるような喜ばしい知らせです。
 
   墓場にて
 
 今日の聖書箇所は、イエスさまが十字架上で死なれて墓に葬られて3日目の朝の出来事です。安息日が明けて、その早朝に婦人の弟子たちはイエスさまの墓に行きました。マタイによる福音書では、墓に行った人として、マグダラのマリアともう一人のマリアの名前が挙げられています。この時墓に行った人について、4つの福音書を比べると少しずつ違いがありますが、それはたいした問題ではないでしょう。マタイによる福音書では、このマグダラのマリアともう一人のマリアの名前を挙げているというだけのことです。
 ただし、4つの福音書共にマグダラのマリアの名前は共通して書いています。マグダラのマリアという人は、ルカによる福音書8章2節によれば、「七つの悪霊を追い出してもらった」という人です。「七つの悪霊を追い出してもらった」というのは具体的にどういうことなのか、聖書には書かれていないので分かりませんが、いずれにしてもイエスさまによって大きな苦しみから救っていただいたということは間違いありません。それゆえ、イエスさまに対する感謝で満ちていた人であると言えるでしょう。
 そしてそれゆえに、イエスさまの言葉の一つ一つを心に刻んでいた人に違いないと思うのです。前回も申し上げましたが、イエスさまは十字架にかかる前までに、マタイによる福音書によれば4回もイエスさまの死と復活について予告なさっていました。そして男の弟子たちのほうは、そのうちの「復活」のほうは心に留まらず信じられなかったようですが、おそらくマグダラのマリアは心に留まっていたに違いないと思うんです。
 安息日が終わり、次の日である日曜日の朝早く、イエスさまの墓に急いだのは、そういう理由があったと思います。イエスさまの復活の予告の言葉を覚えていて、もしかしたらよみがえられたイエスさまに会えるかもしれないという期待です。
 他の福音書、たとえばマルコによる福音書とルカによる福音書では、マグダラのマリアたちは、イエスさまの遺体に塗る「香料」を持っていったと書かれています。金曜日の夕方、イエスさまは日没までの短時間のうちにく葬られました。そのようにあわただしく葬られたので、ご遺体を丁寧に処置をすることができなかった。それで墓に行ってイエスさまの遺体に、香料を塗ろうとしたことがマルコ福音書とルカ福音書には書かれているわけです。しかしマタイによる福音書には、彼女たちが香料を持っていったことは書かれていません。もちろん、持って行ったんでしょうけれども、マタイはそれを書いていない。その代わりに、「墓を見に行った」(1節)と書いているんです。つまり、マグダラのマリアたちがなぜ朝早くイエスさまの墓場に行ったのかということについて、やはり、イエスさまがおっしゃっておられた「復活」に期待をかけていたと言いたいのだと思います。
 こうして、復活について全く忘れたか信じていない男の弟子たちと、復活という言葉を心に留めていた婦人の弟子たちという、対称的な姿が浮かび上がってきます。
 
   なぜ天使?
 
 すると「大きな地震が起こった」と書かれています。それはエルサレムを震源とする大地震ということではなく、墓の地面が大きく揺れたということです。それは「主の天使が天から下って近寄り、石を脇へころがし」たからだと書かれています。
 ここに天使が登場いたします。天使などという存在が登場すると、たちまちおとぎ話のように聞こえてくるかもしれません。とくに天使というと、昔のヨーロッパの画家たちが書いた絵のように、羽が生えている姿を想像してしまうからです。しかし実は天使は羽が生えていません。いや羽が生えているのは、ケルビムと呼ばれる天界の存在であって、ふつう人間に遣わされる天使は羽など生えていません。昔の画家の絵に描かれた天使が羽が生えているのは、これは天使ですよと分かりやすく説明するために描いているだけです。
 その証拠に、たとえば旧約聖書の士師記に出てくる有名なサムソンの生まれる前、サムソンの両親は自分たちの所に訪れた人を天使と知らないでもてなしました。羽が生えていたら、すぐわかるはずですね。サムソンの両親たちは、訪れた人を預言者かなにかと思ったのです。そのように、人間のところに訪れる天使は、普通は根が生えていません。ですからこの場面でも、マルコによる福音書のほうは、天使と書かずに「若者」と書いています。人間の若者と変わらない姿です。
 そしてその天使が婦人たちにイエスさまの復活を伝えます。‥‥しかしそうすると、なぜ天使が最初に現れてイエスさまの復活を告げるのか?という疑問が生じます。このあとすぐ、婦人たちは、実際に復活されたイエスさまに会うことになるからです。なにも天使が現れなくても良いではないか、直接イエスさまが登場してもよいではないか、と思います。復活されたイエスさまが直ちに登場すれば済む話ではないか。なぜ間に天使が登場する必要があるのか?‥‥
 この疑問について考えられることは、まずイエスさまの復活が神のわざであることをはっきりとさせているのではないかということです。つまり、イエスさまの復活=よみがえりという奇跡は、イエスさま自らの力でよみがえったというのではなく、父なる神さまがイエスさまをよみがえらせたのだということを、はっきりと示しているのです。旧約聖書を読むと分かりますが、旧約聖書では天使が現れるということは、すなわち神さまご自身が現れたに等しいものとされています。天使、御使いを見たということは神を見たのと同じように書かれています。ですから、墓の入り口をふさぐ丸い大きな重い墓石をどかしたのも神さまのなさったことなのだ、そしてイエスさまをよみがえらせたのも、父なる神さまご自身がなさったことなのだ、ということです。
 前回の個所で、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、イエスさまの弟子たちがイエスさまの遺体を盗み出して復活を捏造することを警戒し、墓に番兵を置き、墓石に封印をしましたが、そのようなものは神さまにとっては何の役にも立たなかったことを、きょうの墓場での出来事は明らかにしています。
 
   神の言葉のたしかさ
 
 もう一つ、なぜ天使が現れているかということの答えですが、やはり神の言葉が確かであることを教えようとしていると思います。
 天使はイエスさまの復活を告げました。そして弟子たちヘの伝言をことづけました。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかる」と伝えなさい、と。そのように、天使たちは、まずイエスさまの復活を告げました。言葉によって告げました。そしてそのあと、実際に復活したイエスさまと会うことになったのです。
 天使の言葉は神さまの言葉をそのまま伝えているわけですから、これは神さまの言葉が確かにその通りであることを強調していると思います。神さまの言葉は真実なのだと。それはイエスさまの言葉もそうです。イエスさまは、今まで4回も十字架と復活を予告なさってきました。言葉によって。そして十字架が事実その通りになりました。だから復活も実際にその通りになる。そのイエスさまの言葉が確かであることを、私たちに教えようとしているのです。そして婦人たちは、実際にイエスさまと出会う。
 私たちは今、このようにして礼拝をし、聖書の神の言葉を聞いています。聖書という言葉を通して神の言葉を聞いています。そのわたしたちが聞いている神の言葉も、同じように確かなものなのだ、実際にその通りになるのだ‥‥ということを、この出来事は教えています。私たちは礼拝で神の言葉を聞き、毎日の生活の中で聖書を開いて神の言葉を読み、耳を傾けている。それらの神の言葉も、言葉だけで終わらないのだと。実際に力を与え、確実なものとなるのだということを、私たちに教えています。
 たとえば、きょう2月13日の『日々の聖句』(ローズンゲン)に記されていた聖書の言葉は、新約聖書の言葉はヨハネの黙示録3:20の言葉でした。新共同訳聖書では次のようになっています。=「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
 イエスさまの言葉ですね。イエスさまが私の心の扉をたたいておられる。もうイエスさまが私たちのところに来てくださっている。そして、私たちが戸を開けてイエスさまをお迎えしさえすれば、イエスさまは私たちのところに入ってきてくださって、共に食事をしてくださる。共に食事をするというのは、親しい関係ですね。私たちを責めるために入ってこられるのではありません。私たちを裁くために入って来られるのでもありません。私たちと共に食事をするために入って来られると書かれているんです。そこには何の条件もありません。私たちが立派な人にならなければ入って来ないとは書かれていません。今の私たちのまま、この私たちの所に来るために戸をたたいておられる。私たちは、その戸を開ければいいだけなんです。
 例えばこの今朝のローズンゲンが選んだ聖句一つをとってみても、この神の言葉は確かだということになります。天使たちがマグダラのマリアたちに告げた神の言葉がその通りであったように、神の言葉が確かなものであるということです。そのような言葉を私たちはいただいている。このことを喜びたいと思います。


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