2022年2月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エズラ記5章5
    マタイによる福音書27章62〜66
●説教 「封印」

 
   新型コロナウイルス対策
 
 新型コロナウイルスの検査陽性者数が今までにないほど拡大しています。ご存じのように、同じ新型コロナウイルスでも「オミクロン株」という変異種となり、その感染力がこれまでのものよりも相当強いからだとされています。ただ感染力は強力でも、その毒性はこれまでの株に比べて低いということだったわけですが、検査の陽性者数がここまで増えますと、分母が増えることになるので警戒が強まっています。
 そういうことで、突然ですが、当教会も本日から感染対策を一段強化しました。礼拝では讃美歌の数を減らしました。よろしくご理解下さい。
 コロナ禍が始まって2年が過ぎようとしています。長い戦いになっています。しかし、これがいつまでも続くわけではありません。近ごろ、日に日に昼間の長さが長くなっているのが感じられるように、冬の後には必ず春が訪れます。明けない夜もありません。このコロナ禍も必ず終わりが来ます。
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で述べています。
(ローマ5:3〜5)「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
 キリストによって与えられている希望は、私たちを欺くことがありません。夜が終わって必ず朝が来るように、それはたしかなこととして約束されています。そしてそれらを保障する根拠が、キリストの復活です。
 
   墓を封印する人々
 
 さて、本日の聖書箇所は、イエスさまが亡くなられてから復活されるまでの間の出来事です。62節に「明くる日、すなわち、準備の日の翌日」と書かれています。回りくどい言い方ですが、要するに、この日が安息日であったということです。
 安息日というのは、これまでも何度も出てきました。ユダヤ人にとっては、いっさいの仕事を休んで神を礼拝する日です。イエスさまが十字架上で死なれたのが金曜日の午後3時頃。葬られたのが、おそらく午後6時ごろ。日没の時です。その日没から次の日が始まるのが、当時のユダヤの日の数え方でした。そしてきょうの個所は、その安息日の出来事となります。すでにイエスさまはなくなって墓に葬られている。
 前回申し上げたとおり、イエスさまのお選びになった弟子すなわち12使徒は、すでに十字架の場面からいなくなっていました。代わりに、それまで出てこなかったアリマタヤのヨセフが中心となってイエスさまを墓に葬りました。使徒たちにとっては、イエスさまの出来事はもう終わった出来事となっていました。かつてイエスさまが予告された「十字架の死と復活」のうち、復活の方は使徒たちにとって信じられていなかったのです。
 ところがここに、意外にもイエスさまの「復活」という言葉を気にかけていた人たちがいました。それが今日の聖書箇所で登場する祭司長たちとファリサイ派の人々でした。彼らはイエスさまに敵対してきた人々であり、十字架に追いやった人々です。その人たちがイエスさまの復活を警戒している。それは、彼らが総督ピラトに言っているとおり、イエスさまが復活を予告していた言葉を覚えているのです。
 それでピラトに訴えたのは、墓を見張ってくれという要望でした。「人を惑わすあの男」と彼らが言っているのは、イエスさまのことです。イエスの弟子たちがイエスの遺体を墓から盗み出して「イエスは死者の中から復活した」と民衆に言いふらすかもしれないと。それでピラトは、彼らの番兵、すなわちローマ兵を貸しました。そして見張らせればいいと言いました。
 なぜ祭司長とファリサイ派の人たちは、自分たちで見張らなかったのでしょうか?
 その理由は、一つには、ローマ兵という第3者に墓を見張らせることによって、いざとなった時に自分たちの主張が正しいことを証言してもらおうと考えたのでしょう。そしてもう一つは、それが安息日だったからです。安息日は、彼らの掟、律法では、何も仕事をしてはならない日でした。しかし墓を見張るとなると、墓を見張るという仕事をしたことになります。それは律法違反となる。それで、外国人であるローマ兵によってイエスさまの墓を見張らせたと思われます
 そしてピラトからローマ兵を貸してもらった彼らは、イエスさまが葬られた墓の入り口をふさぐ墓石に封印をしました。そして番兵を置きました。封印は、墓石と墓の間に紙を貼ったのでしょう。もしイエスさまの弟子たちが墓石を動かしたら、紙が破れて、動かしたということが分かる。まるで裁判所による差押物件のようです。
 しかし彼らが心配するまでもないことでした。というのは、先ほど申し上げたように、イエスさまの弟子たちは、イエスさまの遺体を盗んで復活をでっち上げるなどというようなことをする気力さえ失っていたからです。使徒などの弟子たちは、家に閉じこもっていました。イエスさまが殺され、今度は自分たちも捕らえられ迫害されるのではないかと恐れていたのです。ヨハネによる福音書によれば、弟子たちは自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。イエスさまの遺体を墓から盗んで、復活を捏造するなどということなど、考えも及ばないほど絶望していたのです。
 
   死と復活の間のキリスト
 
 さて、私たちのもう一つの興味は、死んだイエスさまの霊はどうなったかということでしょう。これについては、この前の説教で、使徒信条が述べていることを申し上げました。すなわち「‥‥ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり‥‥」となっていることです。陰府とは、死んだ人の霊が行く場所です。この時点では、まだ天国は明らかになっていません。イエスさまの霊は、人間の霊が死んでいく場所に、同じように行かれた。ではその陰府で、イエスさまは何をなさっていたのか?‥‥
 話しは変わりますが、バッハ作曲の「マタイ受難曲」という作品がありますね。ヨハン・セバスチャン・バッハがマタイによる福音書の受難の場面、26章と27章を題材にした楽曲です。たいへんすばらしい作品だと思います。マタイ受難曲は68曲、ないし78曲によって構成されていると言われ、その第1曲、つまり全体の導入となる曲が「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け」と日本語に訳される合唱曲となっています。その第1曲を歌詞と共に聴いておりますと、深い感動と共にキリストの受難がリアルに浮かび上がってくるような感じがいたします。ヘンデル作曲の「メサイア」もたいへんすばらしいですが、このバッハの「マタイ受難曲」もすばらしく、いつの日か、逗子教会員の手でこれらの曲を演奏したいものだと思っているほどです。
 さて、その「マタイ受難曲」の最後の2曲は、イエスさまが息を引き取られた後のことを歌っています。その最後から2番目の曲は独唱と合唱が交互になっていますが、その歌詞を見ますと、「今や主は憩いに入りたまいぬ。我が主よ、憩いたまえ」というような歌詞で始まります。そして、最終曲にかけて「憩いたまえ」という言葉がくり返し出てきます。「憩いたまえ安らかに、安らかに憩いたまえ」(高橋昭訳)と。
 すなわち、地上での働きの生涯を終えられたイエスさまに対して、どうぞ休んで下さい、と歌っているんです。この世で福音を宣べ伝え、病める者を癒やし、目の見えない人の目を開き、悪霊を追い出し、貧しき者の友となられて寝る間も惜しんで人々の間で働かれたイエスさま。そして十字架で生涯を終えられたイエスさま。安らかに憩いたまえ、という人間の気持ちがそこで歌われています。そして復活を待つ。しかしそれは人間の気持ちの表現であって、実際のイエスさまはどうだったか? 陰府に下られたイエスさまの霊は、どうなったのか?
 そのことについて、ペトロの第1の手紙3章18〜19節にこう書かれています。
「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
 なんと、イエスさまは死なれた後、その霊は休むどころか陰府に下って、そこで福音を宣べ伝えられたと書かれているんです。このことについては本日は解説いたしませんが、イエスさまが死んでしまわれて、その間何もなさらなかったのではない。人間の目には死んでおられるように見えても、実は救いのために働いておられたんです。
 このことは、私たちにとって、大きな励ましと希望となります。私たちには終わってしまったと思えること、祈りが聞かれないと思われること、信仰が弱ってしまったように思えることがあります。しかし人間の目にはそのように見えても、実はイエスさまは我々の知らないところで働いてくださっているということです。そのことが、いつか分かるのです。明らかとなるんです。十字架で死んで終わったと思っていたイエスさまが、3日目によみがえられたようにです。主が私たちの救いを成し遂げてくださったという。罪が赦されたという。そのことが本当にそうだったと分かる時が来るんです。
 
   神の働きを止めることはできない
 
 さて、祭司長や長老たちは、墓石に封印をして番兵に見張らせました。彼らは、イエスさまの弟子たちがイエスさまの遺体を盗み出して、イエスは復活したと言いふらすことを懸念してのことでした。しかし当の弟子たちは、ひっそりと家にこもって戦々恐々としていて、それどころではなかったことはすでに述べたとおりです。
 しかし墓を見張らせ、墓石に封印をしたという行為は、なにかイエスさまの復活を阻止しようとしている光景にも見えます。それはすなわち、神さまのなさることを阻止しようとしている出来事のように見えます。神さまのなさる奇跡を、墓石に貼った封印で阻止しようとする‥‥考えてみれば滑稽なことです。神さまのなさることを人間が阻止できるのか?‥‥できるはずがありません。
 本日読みました旧約聖書は、エズラ記の中に書かれている言葉です。エズラ記は、ちょっと前に水曜日の聖書を学び祈る会で取り上げた箇所です。バビロン帝国によって国が滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れて行かれたユダヤ人。しかしペルシャ帝国に政権が交代して、ユダヤ人たちは祖国に帰ることが許されました。そうして祖国のユダの地に帰っていった人々は、破壊されていたエルサレムの神殿を再建する工事を始めました。しかし、周辺に住んでいた異民族は、それがおもしろくありません。工事を妨害しようとしました。そして神殿の再建工事は中断してしまいました。
 そのような時、預言者であるハガイとゼカリヤが、人々を励ます神の言葉を預言しました。それで人々は再び再建工事を始めました。そうすると、異民族が再び妨害しようとしました。その時の言葉が先ほど読んだ言葉です。
(エズラ記5:5)「しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、その報告がダレイオスになされ、それに対する王の返書が送られてくるのを待った。」
 神の目が注がれていたので、妨害者たちは工事を妨害することができなかったと書かれています。結局新しく変わった王の返事は、工事を許可し、誰もそれを妨げてはならない、費用は国の負担とするというものでした。そのように、神さまが決めたことは、誰も止めることができないことを教えています。神のなさることを人間が阻止しようとしても全くムダだということを表しています。
 きょうの聖書の出来事で、墓に番兵を置き、墓石に封印をしたということで、神のなさることを阻止できるのでしょうか? できるはずもありません。それは滑稽きわまりないことです。神さまがなさることを人間は絶対に阻止することはできないのです。そして約束通り、神はイエスさまを3日目に復活させられました。約束通りになったのです。神の言葉を、人間は阻止することができないのです。そのことを教えています。
 そのように、神さま、イエスさまが私たちに対してなさった約束は、必ずその通りになるということです。神さまのなさることを止めることはできないのです。イエスさまを信じる者に「あなたの信仰があなたを救った」とイエスさまがおっしゃった時、それは本当に救われたのです。イエスさまが「あなたの罪は赦された」とおっしゃった時、私たちの罪は本当に赦されたのです。誰もそれを止めることはできないのです。それほどに、私たちは救われているのです。罪を赦されているのです。
 そのことを確かなものとするために、イエスさまは復活されることになります。


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