2022年1月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章9
    マタイによる福音書27章55〜61
●説教 「脇役の出番」

 
   夢
 
 きのうの朝、テレビの「週刊ニュースリーダー」という情報番組を見ていましたら、84歳の社長さんの活躍を取り上げていました。この方は、燃えない木材を開発したということでした。ご存じのように、木造建築の弱みは火に弱いというところにあります。ところがこの方が開発した木材にガソリンをかけて火を付けても、やがて火は消えてしまい、損傷がないという実験も放送の中でなされていました。実際に、東京の山手線の高輪ゲートウェイ駅の建築に使われているそうです。この方は最初からそういう仕事をしていたわけではなく、最初は商社のサラリーマンであったそうです。しかしやりたいことがあって転職したりして、現在はその会社の社長をしているそうです。そしてその燃えない木材を作ることに取り組み始めたのが、72歳の時だったというんです。どうしてその方はそのようなことに取り組んでいるかというと、日本を見渡すと、日本には資源というものが何もなく、「木」しかない。だから、その木を生かさないといけないと考えたそうです。とてもお元気な方で、キャスターが「健康の秘訣は何ですか?」と尋ねると、この方は「夢だ」と答えていました。続いてキャスターが「その夢とは何ですか?」と聞くと、「日本を救うことだ」と答えました。
 私はそれを見ていて、これは聖書の法則だなと思いました。聖書では、人を祝福する人が神さまから祝福されます。彼は木を用いて日本を救いたいという夢を持っていると答えました。それは祝福を与えることです。だから祝福され、用いられているのだなあと思いました。
 「もう年を取ってしまって、体も悪いし、何もできないよ」と思われる方もいるかもしれません。しかし、個人としての夢を持つことができなかったとしても、教会の夢を共有することはできます。そして共にワクワクして喜ぶことができます。教会の夢というのも、もちろん日本を救うことであり世界を救うことです。現在、コロナ禍の中にあり、ともすると「守る」ということにばかり目を向けがちですけれども、主から教会に与えられている「夢」を見失ってはならないと、一般の方からあらためて教えられたように思いました。
 
   脇役
 
 さて、今日の説教題は「脇役の出番」と付けさせていただきました。脇役といいますと、昔やっていた国民的ドラマの「水戸黄門」で言えば、助さん、格さんということになるでしょうし(古いですね)、今やっているテレビドラマの「相棒」で言えば、水谷豊が主役で反町隆史が準主役のような感じになり、脇役というと捜査一課の伊丹刑事たちということになるでしょう。それら脇役の人たちは、脇役ではあるけれども、いないとストーリーが成り立たない存在ですし、おもしろくなくなってしまいます。
 では聖書はどうかと考えますと、それはもちろん主役は神さまです。福音書ではイエスさまが主役ということになります。そうすると人間はみな脇役ということになりますが、福音書では人間の中では使徒たちがイエスさまから選ばれていますから、主役ではないにしても準主役ということになるでしょう。
 今日の聖書箇所は、主役であるイエスさまが十字架上で息を引き取られた後、つまり死なれた後になります。そして使徒たちも出てこない。使徒たちはイエスさまを見捨てて逃げてしまったきりです。最もヨハネによる福音書では、使徒ヨハネと思われる人が、十字架上のイエスさまから母マリア様を託されたことが書かれていますけれども。いずれにしても、主役であるイエスさまが死なれた後である今日の聖書箇所では、準主役である使徒たちは出てこない。代わりに登場するのが、アリマタヤのヨセフという人であり、またイエスさまに従っていた婦人たちです。
 
   イエスが死んで
 
  イエスさまの十字架の死を見守った人たちとして、マタイによる福音書は、イエスさまがガリラヤで福音を宣べ伝えておられた頃からイエスさまに従って世話をしていた婦人たちを挙げています。準主役とも言える12使徒はここにはいません。彼らは、もうイエスさまのことは終わってしまったことであると思っている。メシア、救い主であると信じていたイエスさまが捕らえられ、十字架に張りつけにされ、死なれた。それでもうすべては終わったのだと思ったに違いありません。
 しかし、もし仮に終わったとしても、物事というものは終わった後には片付けということが残っているものです。私は、片付けをする人、掃除をする人というのは偉いと思うんです。そういう私の牧師室は散らかっていて全然片付いていないんですけれど、だからよけいに偉いと思います。片付けというのは地味です。なにかのイベントでも、スポットライトを浴びる人や、料理を提供する料理人の方は華やかです。しかし、そのあとには必ず片付けがあるわけで、そちらが注目されることはまずありません。しかしなくてはならない存在です。そして片付けや掃除というものは、単に元通りきれいにするというだけではなく、次に備えるということがあるわけです。ですからそういうことを黙々とする人は、本当に偉いと思うんです。
 人が亡くなった場合は、そのあとにしなければならないことは待ったなしです。まず葬りの準備をしなければなりません。イエスさまが亡くなった。しかし、イエスさまによって選ばれた側近である使徒たちは誰もいない。じゃあ、どうする?‥‥そういう問題に直面したわけです。
 しかもその日は、安息日の前の日でした。ユダヤでは、次の日というのは日没から始まります。そして日没の時刻は、イエスさまが十字架にかかられた時はちょうど春分の日のあたりですから、午後6時頃ということになります。つまり午後6時から次の日である安息日が始まります。安息日が始まると、掟によって何もしてはならないことになります。イエスさまが十字架上で死なれたのが午後3時と書かれていますから、日没まで3時間しかありません。もしそれまでにイエスさまを十字架から取り下ろし、葬ることができなかったとしたら、次の安息日はまるまる十字架上に放置することになりかねません。遺体の腐敗が始まる、また烏やハゲタカが寄ってくる、ということになります。なによりも、遺体となったイエスさまを、そのまま十字架上でさらしものにし続けることになってしまいます。そういう状況です。
 
   アリマタヤのヨセフ
 
 そこに現れたのが、アリマタヤのヨセフという人だったのです。今まで聞いたことのない人です。
 この人は何者なのか?‥‥このマタイ福音書では、アリマタヤという町出身の金持ちであり、イエスの弟子であったと書かれています。そしてこの人は、新約聖書の4つの福音書すべてに、この場面で出てきます。そしてそれらの福音書でアリマタヤのヨセフについて書かれていることは、ちょっとずつ違っています。それらをまとめてみると、だいたい次のようになります。
 このヨセフという人は、金持ち(マタイ)で有力な議員(マルコ)であるとともに、善良な正しい人(ルカ)であり、十字架の前の真夜中のユダヤ議会ではイエスへの死刑宣告には同意していなかった(ルカ)。イエスさまの弟子(マタイ・ヨハネ)だったけれども、人々を恐れてそのことを隠していた(ヨハネ)。しかしこの時、勇気を出して(マルコ)総督ピラトの所に引き取りの許可を得に行った。そして、許可を得てから自分の新しい墓(マタイ・ルカ・ヨハネ)を提供し、同僚の議員であるニコデモの持参した没薬と沈香を混ぜた香料(マタイ)を添えて、ヨセフの買った亜麻布をイエスの遺体に巻き(マルコ・ヨハネ)、イエスさまを葬った。‥‥そういうことになります。なお、ニコデモとは、ヨハネによる福音書の3章で、イエスさまのところに教えを乞いに行った人です。
 すなわちヨセフは、わずか3時間の間に、できることを精いっぱいやったのです。ヨセフはイエスさまの弟子であった、つまりイエスさまを信じる人であったけれども、人々の目を恐れて、これまでそのことを隠していました。しかし死んだイエスさまが十字架の上に張りつけにされたままになったこの時、ヨセフはそのような人々の評価など、いっさいをかなぐり捨ててて、イエスさまを葬ることに全力を尽くしたのです。今までイエスさまの弟子であることを隠していた、そのことを恥じ、埋め合わせるかのような行動です。
 もう、他人からどのような目で見られてもいい、私はイエスさまを信じていたんだ‥‥というようなものを見ることができます。それが、証しになっています。
 
   婦人たち
 
 ガリラヤからイエスさまに従って行動を共にして来た多くの婦人たちの姿もありました。男の弟子たちはどうしたのかと思うと本当に情けない限りです。この婦人たちは、アリマタヤのヨセフとニコデモを手伝ったことでしょう。
 そしておそらく、日没にぎりぎり間に合うようにヨセフの墓に葬られたイエスさま。石灰岩の岩山に掘られた横穴式の墓の中にイエスさまの遺体が葬られ、入り口には大きな丸い石がころがされてふさがれました。そして、ヨセフを初めとした他の人々は墓を去っていきましたが、マグダラのマリヤともう一人のマリアは、そこに残って墓の方を向いて座っていた、というところで今日の聖書箇所は終わっています。
 この二人の女性は、何を思って墓を向いて座っていたのか。イエスさまについての、尽きることのない様々なできごとを思い出していたのでしょうか。私たちが、亡くなった家族のことを墓参りの時に、走馬灯のように思い出すように。
 
   復活を待つ
 
 もちろん、そういうこともあったでしょう。しかしもう一つ気になるのは、彼女たちはイエスさまの復活について、どう思っていただろうかということです。すでに学んできたように、十字架にかけられる前までに、マタイによる福音書では、イエスさまは4回もご自分の受難と復活(よみがえり)のことを予告なさっていたからです。たとえば、17章22〜23節ではこのようにイエスさまが語っておられます。
"一行がガリラヤに集まった時、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、3日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。"
 このように、イエスさまは十字架の死だけではなく、その後よみがえることも予告なさっていました。ところが弟子たちは「非常に悲しんだ」。つまり、イエスさまが殺されると言うことだけが耳に入って、復活するということは右の耳から左の耳に抜けていってるんです。復活などという事はありえない、最初から信じていない。
 しかしこの婦人たちはどうなのか? イエスさまの「復活する」という言葉が耳に残っていたに違いないと、私は想像するんです。そういうイエスさまのおっしゃった言葉を思い返していたかもしれません。そしてそれが、翌日の安息日の次の日、つまり安息日が開けた次の日の朝早く、この墓に向かったことに表れているのではないか。そして3日目の朝に、復活のイエスさまと出会うことになります。
 たしかにその時、婦人たちは驚いていますが、だから復活を全く信じていなかったとは言えないでしょう。私たちにも、事前に知っていても、いざ直面すると驚くということがあると思うからです。たとえば、私たちキリストを信じる者は、この世の旅路を終えて死んだ時、キリストによって神のみもとに迎え入れられることを信じています。しかし、実際に私たちがこの世の命を終えて旅立った時、実際に神の国でイエスさまにお目にかかった時は、本当に驚き、感激し、涙を流して喜ぶでしょう。「信じられない」というような喜びに満たされることでしょう。それと同じことです。
 いずれにしても、この脇役であるご婦人たちは、翌々日に、その感動を味わうことになります。誰よりも早くです。彼女たちは、最後までイエスさまに付き従ってまいりました。イエスさまは、誰よりも先に、この人たちにその復活の栄光の姿を、現されたのです。そしてその喜びを伝える人となったのです。


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