2022年1月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章11〜12
    マタイによる福音書27章50〜54
●説教 「死の扉」

 
   椎名麟三
 
 終戦後に活躍した椎名麟三という小説家がいます。この人はクリスチャンでした。彼は、十字架上のイエスさまの叫び声について興味深いことを述べています。それは「バルトの芸術論」という講演の速記録の中でです。バルトというのは、昔のドイツの有名な神学者であるカール・バルトです。
“聖書のマルコ伝に(この場面はマタイもマルコもほぼ同じです)、十字架につけられたキリストが、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」と叫ばれて後に、つまり神に見捨てられて後に、「イエス大声を出して息絶えたもう」という聖句が続いています。この大声、この言葉にならなかった大声が、文学の本質であると思うのであります。どんな文学作品も、それがどのように形づくられていようとも、すべてが、このイエスのたった一つの大声に根拠を置いているだけでなく、その大声以上に出ることができないという宿命をもっております。‥‥(中略)‥‥イエスが息の絶える間に出された大声、‥‥この大声は実に凄惨な感じがします。どうしてそのように凄惨な感じがするのか。それは「神なし」と僕たちに強くひびくからです。言い換えますと、人間には救いがないという感じがするからであります。‥‥(中略)‥‥何らかの意味において、人間の可能性を、人間的に期待することすら、最終的に鋭く拒絶されている場所、それはイエスの十字架上の大声であり、同時にそれは文学の限界でもあります。”
 そして椎名麟三は、「神はない、それは文学の常に答であり、同時に問いであるところのものです」と述べます。私が思うには、それは文学に限らない。人間の根源的な答であり問いであると思います。
 
   十字架上の最後の言葉
 
 マタイによる福音書は、マルコによる福音書と共に、十字架上のイエスさまが語られた言葉として、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というこの一言だけを記しています。このことは前回申し上げたとおりです。そして今日読んだ聖書箇所は、その続きですが、50節で「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」と書かれています。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた後、続けて再び大声で叫ばれた。なんと言って叫ばれたのか?‥‥マタイは書いていません。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、同じ言葉を続けて叫ばれたとは思えません。
 もっとも、ルカによる福音書と、ヨハネによる福音書のほうは、イエスさまが息を引き取る前におっしゃった最後の言葉というものを記録しています。それぞれ違う言葉を記録しています。
 ルカによる福音書では‥‥"「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。"(ルカ23:46)
 ヨハネによる福音書では‥‥"「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。"(ヨハネ19:30)と書いています。
 どちらが本当にイエスさまがおっしゃった最後の言葉か、などということを詮索しても始まりません。ルカもヨハネも、すべてを記録しているわけではありません。それぞれが書き記したかった言葉を書き記しているからです。
 しかしマタイは、あえて書いていない。そこが先ほどの椎名麟三が触れていることと関係してきます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望的な言葉に続いて、神の子であり人の子であるイエスさまが、何を叫ばれたのか。‥‥神に見捨てられたあと、人間に語る言葉があるとしたら何か?‥‥もし私たちが神を信じない者であったとしたら、イエスさまが最後に叫ばれた言葉として、ここに何を入れるでしょうか? 何か私たちが考えついたとして、それが希望を与えるもの、つまり未来のあるものとなるでしょうか?
 マタイは、あえて書かないことによって、そのような問いを投げかけていると言うこともできるでしょう。まさに人間の可能性を、人間的に期待することが、全くできなくなっている場所であります。私たち人間にとっての未来は閉ざされ、力なく生きていくしかないような私たちが残されます。「死」ということをあまり考えないようにして、他のことで気を紛らわせて生きて行くしかない。それが人間の現実の姿です。
 
   イエスの死
 
 最後の言葉を大声で叫ばれた後、イエスさまは息を引き取られました。ちなみにこの「息を引き取られた」という言葉ですが、原文のギリシャ語を見では「その霊は行った」となっています。イエスさまの霊は行った、と。どこに行ったのでしょうか?‥‥それは、のちほど唱和する「使徒信条」で述べられているとおりです。
 「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」です。イエスさまの霊が陰府に行かれた。陰府とは死んだ人の霊が集められる場所です。私たち人間の霊が死んでから行く場所。三位一体の神であり神の子であるけれども、全く人の子として私たちの世に来られたイエスさま。私たちの罪を担って十字架にかかられ、死なれたイエスさまは、他の人間と全く同じように死んで陰府に行かれた。それが聖書の記すところです。
 
   行動を起こされた父なる神
 
 すると次の瞬間、突然、出来事が起ります。エルサレムの神殿の中の垂れ幕が真っ二つに裂ける、地震が起こって岩が裂ける、墓が開いて死んでいた多くの聖なる者が生き返る‥‥。まさに、あっけにとられるような出来事の連続です。そして、このようなことをなさることのできる方は神さましかいませんから、これは神さまがそのように動き出されたということになります。
 振り返ってみれば、イエスさまの受難の出来事に入ってから、父なる神はずっと沈黙してこられました。イエスさまが全く不当な裁判を受けている時も、神はなにもなさいませんでした。十字架の判決を受け、ローマ兵たちから茨の冠をかぶせられ、つばを吐きかけられて棒でたたかれて侮辱を受けている時も、父なる神は沈黙しておられました。イエスさまがゴルゴタの丘で十字架に釘で打ちつけられる時も、なにもなさいませんでした。十字架にかかられたイエスさまを、人々がののしった時も、神は黙っておられました。そしてイエスさまが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫された時も、神は沈黙しておられました。まさしく父なる神は、子なるイエスさまをお見捨てになったのでした。私たちを愛するがゆえに、そして私たちを救うために、愛する独り子イエスさまをお見捨てになったのだということを、前回学んだばかりです。
 ところがその神さまが、イエスさまが息を引き取られたその時点から、いきなりコトを起こされたのであります。沈黙を破られたのです。そして神がなさったことは、イエスさまを十字架に追いやった者や、あざけった者に鉄槌を下すことではありませんでした。代わりになさったのは、先ほど読んだ聖書の通りのことでありました。
 
   死から命の神へ
 
 まず、エルサレムの神殿の幕が真っ二つに裂けた。なんだこれは?と思われるかもしれません。このことを理解するには、神殿の構造と意味を知らなくてはなりません。聖書を学び祈る会にずっと出ておられる方は、以前、旧約聖書の出エジプト記やレビ記を学びましたので、そのことを思い出していただきたいのです。そこでは「神殿」と言われずに「幕屋」と言われていました。神殿も幕屋も同じです。石造りか、天幕かの違いだけです。モーセは、神の言われるとおり、神さまを礼拝する場所である「幕屋」を作りました。幕屋の外側は庭、つまり境内になっています。そして幕屋本体は、手前が聖所、奥が至聖所と呼ばれます。そもそも幕屋の中は、祭司しか入ることができず、さらに奥の至聖所には大祭司しか入ることができませんでした。それは最も神聖な場所でした。そして、そこで神さまは大祭司とお会いになるという場所であったのです。つまり大祭司は、人間の代表として、いけにえをささげ、様々な手順を踏んだ後、ようやく神さまにお目にかかることができるということでした。神さまには簡単にはお目にかかれなかったのです。なぜなら、人間はみな罪人であったからです。
 そしてその至聖所と、手前の聖所を隔てていたのが「垂れ幕」だったのです。その垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたという。まるで、もうこのような物は全く必要ではなくなった、と言わんばかりです。そうです。イエスさまの死によって、神と人間とを隔てていたものが取り除かれたのです。それまで私たちは、直接神さまにお会いすることはできなかった。しかし十字架のイエスさまの死によって、障壁が取り除かれたのです。私たちは、イエスさまのお名前によって、直接神さまにお会いすることができるようになった。祈りを聞いていただけるようになった。そのことを、神さまは、いの一番になさった。それがこの「垂れ幕が裂けた」ということです。
 続いて地震が起こった。そしてその結果、岩が裂けて墓が開いた。そしてさらに、その墓に葬られていた聖なる者、すなわち神を信じていた者たちが多く生き返るということが起こったという。そして、イエスさまが復活された後、墓から出てきてエルサレムに入ってきたという。もうここで、イエスさまの復活に触れてしまっています。フライングですね。イエスさまの復活は28章になって描かれるんですから。しかし、イエスさまの十字架の死によって、この人たちまでもが生き返ったということを言うためにフライングするしかなかったのです。
 つまりこのことは、イエスさまの死と引き換えにして起こった。死から生に向かって扉が開かれたということになります。死というものは、人間にとって決して抵抗できない絶対的な扉です。後戻りは決して出来ません。そしてご承知の通り、すべての人間はこの死の扉をくぐらなくてはなりません。しかしその絶対である死の扉が、イエスさまの十字架の死によって生へと開かれた。この驚くべき、そしてこの上もなく良い知らせを、直ちに伝えたい。‥‥何かそのような神の御心が現れているかのようです。もちろん、このとき墓から生き返った人たちは、やがてまた死んだことでしょう。今生きていないわけですから。しかし、少なくとも、イエスさまの十字架の死によって、私たち人間の死というものが、イエスさまによって破られるということを証言するには十分な出来事です。
 
   信仰告白
 
 しかしこれらのできごとが書いてあるのを読んで、「だからイエスの復活は事実なのだ」と言われたとしても、にわかには信じがたいものがあるでしょう。あるいは、おとぎ話のように思われるかもしれません。
 しかしここには、神殿の垂れ幕が裂けたり、地震が起きたり、死人が生き返ったりという物理的現象だけが書かれているのではありません。これらのできごとを見た百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちが非常に恐れて「本当に、この人は神の子だった」と言ったということが書かれている点です。イエスが神の子であるというのは、短いですけれども信仰告白です。これは不思議な自然現象、物理現象だというのではありません。信仰の言葉です。それが生じた。
 百人隊長とはローマ兵の隊長で、十字架刑の現場責任者であり死刑執行人です。百人隊長と一緒にイエスさまを見張っていた人たちというのは、おそらくその部下たちです。イエスさまを嘲り、茨の冠をかぶせ、つばを吐きかけた人たちです。それらの人たちが、イエスさまについて「本当に、この人は神の子だった」と言うに至ったのです。そういう神の子を、自分たちは何も知らずに十字架につけてしまった。もちろん、命令によって十字架につけたわけですが、そのときは、イエスというのは単なる犯罪者の一人としか思わなかったでしょう。だから「非常に恐れた」。
 本来なら、神によって真っ先に鉄槌を下されても文句は言えない。しかし神がなさったのは、今見てきたとおりのことでした。神殿の幕を裂いて誰もが神に近づけるようにし、死人が生き返ることによって、そこに命の扉が開かれることのきざしを見せられた。そして自分たちは裁かれていない。‥‥ここに、罪の赦しと永遠の命のきざしを見たに違いありません。
 こうして、文学の限界、すなわち人間の限界は突破されたのです。確実に死へと向かって行く人間の、あきらめにも似た歩みは、主イエスの命によって光で照らされるものとなったのだと、聖書は語りかけています。こうしてキリストによって、生き生きとした、神の国への道を歩むことができるようになったのです。


[説教の見出しページに戻る]