2022年1月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章10
    マタイによる福音書27章45〜49
●説教 「究極の問い」

 
   エリ、エリ、レマ、サバクタニの衝撃
 
 本日の聖書も、十字架に張りつけにされたイエスさまを描いています。そして今日の個所は、その十字架上でイエスさまが叫ばれた言葉を一つ書き留めています。それが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」‥‥これはヘブライ語とアラム語の混ざった言葉だと言われています。そしてその意味は、聖書に書かれているとおり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」ということです。福音書は、他はすべてギリシャ語で書かれているけれども、この言葉だけは実際にイエスさまが十字架上で叫ばれたとおりの言葉、つまり昔ユダヤ人が使っていたヘブライ語で「エリ、エリ」、当時のユダヤ人が使っていたといわれるアラム語で「レマ、サバクタニ」と書き留めているわけです。ここだけ、まるで録音機でイエスさまの叫ばれた言葉を録音した通り再現しているかのように「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と記録している。つまりこのことは、イエスさまが実際に言われたとおり書き残さなければならないという思いで、マタイは書いていると言えます。本当にこうおっしゃったんだ、と。ちなみに、同じ言葉がマルコによる福音書のほうは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」になっています。「エリ」が「エロイ」になっている。こちらは両方アラム語です。どっちが本当かなどと詮索することは、あまり意味がないでしょう。十字架上に釘で張りつけにされ、ものすごい苦しみの中で発せられた言葉です。どちらとも受け取れるように聞こえたのでしょう。しかし意味は同じです。
 実に衝撃的な言葉です。イエスさまが、父なる神に見捨てられた。こんな驚くべきことがあるでしょうか。この私が神に見捨てられたというのなら分かります。私のような人間は、神さまに見捨てられても文句の言えないような人間だからです。けれども、イエスさまが見捨てられるとはどういうことか。神の子であるイエスさまが見捨てられるなら、みんな見捨てられてしまうのではないか?‥‥そのように思います。だからショッキングな言葉です。なぜイエスさまが神から見捨てられたのか?
 4つの福音書を読むと、イエスさまは十字架の上で七つの言葉をおっしゃったことが記録されています。しかし、このマタイによる福音書は、この一つだけを記録しています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。他の言葉を省略しています。この一句だけを取り上げ、強調しているんです。なぜなのか。衝撃的だからという理由もあるでしょう。しかし同時に、この言葉にこそイエスさまの十字架の意味がもっともよく表れているということでもあると思います。
 
   なぜ神の子イエスさまが見捨てられたのか?
 
 さて、この言葉を真正面から考えようとする前に、イエスさまは神から見捨てられたのはないという説があることを紹介しておく必要があるでしょう。イエスさまは本当は神から見捨てられたのではなくて、神から見捨てられたような苦しみを味わっているということなのだ、という説です。
 その説の根拠は、イエスさまは、実は詩編第22編の最初の1節の言葉を口にされたのだと考える説です。詩編22編はダビデが詠んだ詩です。そしてその1節を見ますと、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。」‥‥今日のイエスさまの言葉とほぼ同じです。さらに続けて読んでいくと、なるほど、十字架のイエスさまを予言しているような内容が書かれています。しかし最後まで読んでみると、見捨てられているわけではないことが分かります。そして主をほめたたえる言葉と主に対する約束の言葉で終わっています。だから、イエスさまは本当に神に見捨てられたと言っているのではなく、この詩編22編全部を朗唱しようとなさったのだ、と考える説です。
 たしかにそう考えたい気持ちは分かります。神の子であるはずのイエスさまが、父である神から見捨てられるなんて事があってはならないからです。
 しかし、やはりマタイは、本当にイエスさまが父なる神から見捨てられたことを書こうとしていると思います。その理由は、まず舞台装置です。昼の12時に全地が暗くなって、3時まで及んだと書いています。この暗黒は、神なき世界を表しているように感じます。聖書のいちばん初め、創世記の第1章の天地創造のところです。神が世界をお造りになる前、闇が支配していました。そして神が言われました。「光あれ。」こうして光ができたと聖書は書いています。その最初の創造の業である光が失われたような、天地創造前の闇に戻ってしまったかのような印象を受けます。神が十字架の立つゴルゴタの丘を去られたかのようです。
 次に、その場にいた人たちが、このイエスさまの叫びを聞いて、「エリヤを呼んでいる」と言って勘違いしていることです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の最初の「エリ」が、「エリヤ」に聞こえたのでしょう。エリヤと言えば、旧約聖書に登場する有名な預言者です。その最後は、火の馬車に乗って天に昇って行きました。そんな人は聖書の中でエリヤだけです。そして世の終わりの前に、再び神さまがエリヤを地上に遣わすと、旧約聖書のマラキ書で預言されています。人々は、イエスさまがそのエリヤを呼んでいるのだと勘違いした。もしこれが本当に詩編22編をイエスさまが言ったのだとしたら、ユダヤ人はすぐにイエスが詩編22編を歌い始めたのだと分かったでしょう。しかしマタイはそうは書いていません。エリヤを呼んでいるのだと勘違いしたと書いているんです。
 これらのことから、イエスさまは本当に神から見捨てられ、叫ばれたのだということを書いていると言えます。それでこの衝撃的な出来事、この一言だけを、十字架上のイエスさまの言葉として書き留めている。その事実に目を向けよ、とマタイは言いたいのだと思います。こうしてイエスさまは、弟子たちから見捨てられ、そして人々から見捨てられ、さらに父なる神さまから見捨てられたのです。ありえないことが起こっている。
 人間にとって最も深い絶望はなんでしょうか?‥‥それは見捨てられるということに違いありません。しかし神を信じる者にとっては、たとえ人間から見捨てられたとしても、神さまだけは自分を見捨てないというところに希望をつなぎます。しかし、その神さまから見捨てられたとしたら、それは希望がゼロになってしまうということです。
 
   三位一体
 
 そもそも、父なる神さまとイエスさまとの関係は、普通の関係ではありません。父と子という関係です。それが新約聖書の書いていることです。
 イエスという存在は、単に神の子というのではなく、神であるということです。例えばヨハネによる福音書1章18節では、イエスさまのことを「父のふところにいる独り子なる神」(ヨハネ1:18)と呼んでいます。「独り子なる神」です。
 イエスが神であると言っても、なんでも神さまになり得るこの日本では、あまり不思議に思われないでしょう。何しろ日本では人間でも神になるからです。天満宮、天神様は、平安時代の貴族であり学者であった菅原道真を神として祀っていますし、多くの人が初詣に訪れる明治神宮は明治天皇夫妻を神として祀っています。死んだ故人が神となるどころか、戦争中は昭和天皇が現人神(あらひとがみ)、つまり現に生きている神とされたぐらいですから、イエスが神であると言ったとしても、多くの日本人は「ああ、そうですか」と言って別に不思議にも思わないでしょう。最近では、すばらしいことをしてくれる人がいると「神だ」とか「神ってる」と若者が言うぐらいになっています。
 しかし聖書では、まことの神は天地の造り主である神お一人であり、唯一の神と言われます。唯一の神であるならば、イエスは神ではないではないかと思う。そこが神秘であるわけです。私たちの日本基督教団信仰告白が述べていることですが、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。」‥‥そのように、父なる神、子なる神キリスト、そして聖霊なる神は、三つであるが一つであるという。それが、三位一体の神ということです。そしてこのことこそが、全キリスト教会の共通の信仰です。
 神は人間ではありませんから、一人といわずに一つというわけですが、三つならば一つではないはずだし、一つならば三つではないはずです。人間の自然の理解を超えている。そこが神秘であるわけです。そして、きょうの聖書のイエスさまの叫びを聞くと、三位一体の神とは、「一人三役」ではないことだけは、はっきりと分かります。三位一体の神とは、一人の神が、ある時は父なる神、ある時は子なる神であるキリスト・イエスさまになり、またある時は聖霊としてふるまう‥‥という、一人三役なのではないことだけは分かります。
 つまり、父なる神と、子なる神は別人格(ペルソナ)であることが分かります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、そのことをはっきりとさせています。別なんです。では、父なる神とイエスさま、そして聖霊なる神さまは、どうやって一つになっているか。内村鑑三は、それは「愛」によって一つなのだと語ります。それが聖書が言う「神は愛である」(1ヨハネ4:8)ということであると。愛というものは、一人では成り立ちません。必ず愛する対象があって、愛は成り立ちます。永遠の昔から神が愛であるということは、永遠の昔から神は単独ではなかったということになります。すなわち、永遠の昔から神は三位一体の神であったということです。
 
   神の愛の現れ
 
 三位一体の神学的な解説をここでするつもりはありませんが、今少し説明させていただいたのは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というこの言葉がどれほど深刻であるかということを知っていただきたかったからです。それほど愛によって一つであるほどに結びついていた父なる神と、イエスさまが、ここで断絶してしまっていることの深刻さです。父なる神が、人となられた子なる神であるイエスさまを見捨ててしまわれている。この衝撃です。いったいなぜ父なる神はイエスさまをお見捨てになったのか?
 今日もイザヤ書53章の預言を見てみましょう。
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」(イザヤ書53:10)
 人々の病、重荷を負って苦しむこの人とは、イエスさまのことを指しています。そしてイエスさまは自らを「償いの献げ物とした」と。私たちの罪を償うために、罪深い私たちの罪を代わりに背負い、自らを犠牲として、償いの献げ物としてささげるために十字架にかかられている。私たちが自らの罪によって、神と断絶し、滅びに向かっている。その私たちの罪を償う犠牲の献げ物として、私たちの代わりに十字架にかかってくださっている。
 つまりそのことは、私たちが神さまから見捨てられる代わりに、神の子であるイエスさまが見捨てられていると言うことです。そしてそれは、愛によって父なる神と一つであるはずのイエスさまを見捨てる。それはつまり、神が私たちをそれほどに愛してくださっているということに他なりません。神が独り子であるイエスさまを愛する愛と等しい愛で、私たちを愛してくださっている。私たちを救うためにです。その愛の表れが、イエスさまが見捨てられるということなのです。
 
   イエスこそ神
 
 中には、十字架のイエスさまを見て、このように神に見捨てられたと言って苦しみ叫ぶ者など神ではないと言う人もいるでしょう。しかしどうでしょうか。本当に、苦しみ叫ぶ神など神ではないのでしょうか?
 私は、苦しみ叫ぶこのイエス・キリストこそ、まことに神なのだと思います。この方こそ真の神であると。私のために苦しみ、叫んでくださる神、私のために父なる神さまからさえも見捨てられるイエスさま。この方こそ、本当に私の神なのだと思います。真の神だからこそ、苦しまれたのです。愛があるからです。愛は苦しみをともなうものだからです。
 私たちも苦しみ、もだえる時があります。絶望する時があります。神さまから見捨てられたと思う時があります。しかし、それでも私たちは見捨てられていません。なぜなら、イエスさまが代わりに見捨てられてくださったからです。三位一体の神のお一人であるイエスさまが、その父なる神から見捨てられてくださったんですから、それはたしかなことに違いありません。私たちは絶対に見捨てられていません。私たちの絶望や苦しみは、全部この十字架のイエスさまが担ってくださったのです。
 そのことを信じた時、私たちの苦しみや絶望も、何かの意味があるものとなります。そして十字架で死なれたイエスさまを、父なる神が復活させてくださったように、私たちにも復活を経験させてくださることとなります。


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