2022年1月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章5
    マタイによる福音書27章39〜44
●説教 「犠牲」

 今朝、インターネットのツイッターを見ましたら、世界最高齢者である田中カ子さんのツイートが目に付きました。ひ孫さんが発信しているようです。それによると、本日、119歳の誕生日を迎えられたとのことです。119歳を迎えられた人は世界で22年ぶりとなるそうです。そして田中さんはクリスチャンです。以前、120歳まで生きることを目標しているとおっしゃっていましたが、120歳というとモーセが120歳まで生きました。ぜひ120歳まで生きていただきたいと思いました。
 
   ののしる人々
 
 本日は、新年最初の主日礼拝です。その新年最初の主日礼拝の聖書箇所は、引き続き、十字架に張りつけになっているイエスさまの場面です。本日の聖書箇所では三つのグループの人が登場しています。一つは通行人たちです。二つ目は、祭司長・律法学者・長老たちです。三つ目は、イエスさまの隣の十字架にかけられた強盗たちです。この三つの人たちは、いずれも十字架のイエスさまをののしりましたが、なぜののしったかという内容が少しずつ違います。それで、その違いを見ていきたいと思います。
 
   (A)通行人
 
 通行人は、たまたまそこを通りかかった人たちですから、それは一般の人の感想だと言えるでしょう。つまり、そのとき多くの普通の人たちはそのように思ったと言うことです。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい。」
 イエスさまが捕らえられて十字架にかけられるまでは、イエスさまを信じる人々、慕う人々が多くいました。しかし今やそのような人々はおらず、多くの人々がこのようにイエスさまをののしるに至ったのです。
 これは、イエスさまがユダヤの多くの人々の期待を裏切った、そう思ったからだと言うことができるでしょう。これまで、多くの人々がイエスさまのなさる奇跡を見て信じるようになりました。イエスこそメシア(キリスト)である、救い主であると信じるようになったのです。ただしその場合のキリストとは、今、教会が信じているような意味でのキリストではありません。ユダヤの国が異教徒であるローマ人によって占領され支配されている。そのローマ人たちを追い出し、ユダヤの独立を勝ち取るための指導者がキリストであり救い主である。そしてそのキリストがイエスさまであると期待されていました。
 イエスさまは、これまで多くの病人を癒やしてこられました。死んだ人を生き返らせることさえなさいました。いわゆる「5千人の給食」のように、多くの人の空腹を満たすという奇跡もなさいました。このような方が指導者となれば、ローマ帝国と戦争になっても兵糧に不足することはないし、病人やけが人が出ても治してもらえるし、死んでも生き返らせてくれるのではないか。そうすると、ローマからの独立もできる‥‥。そんなふうに思っていたことでしょう。そういうキリスト、救い主として期待され、信仰を集めてきました。
 ところがどうでしょう。そのイエスが捕らえられ、無残にも十字架という死刑台にはり付けになっている。もはや死ぬのも間違いない。‥‥「なんだ」ということになった。十字架のそばを通りかかった通行人たちが、頭を振りながら「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」と言ってイエスさまをののしったのは、そういう人々の期待を裏切ったことへの失望が表れています。
 
   (B)祭司長・律法学者・長老
 
 次に、祭司長・律法学者・長老たちです。この人たちはユダヤ人の指導者たちでした。そして同時に、イエスさまを捕らえて総督であるピラトを脅し、十字架に追いやった張本人たちです。
 彼らはこう言ってイエスさまをののしりました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
 彼らはイエスさまを敵視し、神を冒涜する者として死刑に追いやりました。しかし一方、心の中のどこかでは、「もしかしたら、本当にイエスは神の子キリストではないのか?」という思いが、全くなかったかとは言えないでしょう。なぜなら、イエスさまのなさる奇跡を見聞きしてきたからです。彼らはそれらの奇跡について「イエスは悪霊の頭によって悪霊を追い出しているのだ」とレッテルを貼ってきましたが、しかし本音の所を言えば「もしかしたら‥‥」という疑問が拭いきれなかったのではないかと私は思うのです。
 しかし、今はその疑念も完全に払拭されたと彼らは思いました。なぜなら、神の子が呪いの木である十字架に張りつけにされることなどありえないことだからです。だから今や彼らは安心してイエスさまをののしっています。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」
 それは、奇跡を行わない無力なイエスさまに対する嘲りです。
 
   (C)一緒に十字架につけられた強盗
 
 3番目が、イエスさまと同じ時に十字架につけられた強盗です。自分も十字架につけられているのに、隣の十字架のイエスさまをののしりました。何と言ってののしったのか、マタイによる福音書にはその言葉が書かれていません。けれども、ルカによる福音書のほうを見ると、2人の強盗のうち、1人がイエスさまをののしったことが分かります。そちらによると、このように言ってののしりました。
 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(ルカ23:39)
 彼は強盗をしたことによって十字架の死刑となっているんです。つまり自分の犯した罪によって十字架にかけられている。それを救うというのは、この強盗にしてみれば、十字架というこの死刑台から降ろしてくれということでしょう。お前がメシア、キリストならば、自分自身を十字架から救い、ついでにこのオレも助けてくれと。
 しかしそれが罵りであったということは、それができないイエスさまをののしっているということになります。自分の願いをかなえることのできないキリストへの失望です。
 
   十字架から飛び降りたとしたら
 
 これら3つのグループの人たちが、イエスさまをののしった言葉をまとめてみますと、要するにイエスさまは人間の期待するような者ではなかったということでののしっています。結局、イエスという方が、人々が期待したとおりにしてくれない。そのとき、これまでイエスさまがなさってきた奇跡はどうでもよいものに見えてしまった。そういうことでしょう。
 では、仮にこの時イエスさまが、これらの人々が期待したとおりになさっていたらどうなったでしょうか? すなわち、十字架の釘を引き抜いて、十字架から飛び降りたとしたらどうでしょうか?
 人々は驚き、そして賞賛し、「イエスはやはり神の子であり、キリスト、メシアであった」と言うでしょう。そして次は、ローマ帝国に対して反乱を起こす指導者として祭り上げられるでしょう。異教徒であるローマ帝国から独立する、そして自由を得る。そして生活を楽してくれと言うでしょう。かつてのダビデ王、ソロモン王の時代のように、周りの国々を占領し、繁栄を取り戻してくれと要求するでしょう。そして次は、「イエスよ、あなたが今までしてきたように、国民から病人を癒やし、悪霊を追い出してくれ」と言うでしょう。そして、ヤイロの娘やラザロを生き返らせたように、死なないようにしてくれと言うでしょう。‥‥そのように、その要求は際限がないでしょう。人間の欲求はとどまるところがありません。満足することがありません。ですから、際限のない要求が次から次へと出てくることでしょう。そしてそれらの1つでもかなえられないと、また不満が出てくることでしょう‥‥。
 そうすると、キリストという存在は、自分たち人間の果てしない願いをかなえてくれるだけの存在になることでしょう。そうすると、人間が神で、神が人間の奴隷のようになってしまいます。人間が自らの罪を悟るということがなくなってしまいます。人間はそのまま、罪人のままでよい。むしろ神さま、キリストが、人間の言うことを聞けばよいのだと。人間が神になってしまいます。人間の不幸の原因は、神が人間の言うことを聞かないからなのだと、そういうことになってしまいます。
 
   自分自身の罪に対する無自覚
 
 しかし、聖書が語ってきたのは、人間の不幸の原因は、人間自身の罪に原因があるのだということだったはずです。そして人間が神さまの祝福を取り戻すためには、人間が自らの罪を悟り、悔い改めるという尊いことに至ることにあったはずです。神さまが悪いのではなく、人間のほうに原因がある。それが聖書がはじめから説いてきたことであったはずです。
 旧約聖書の最初の創世記を読むと、神さまはこの世界とその中に存在するもの、生きる者、そして人間を極めて良くお造りになりました。ところが人間が神さまにそむいて、悪が入り込みました。堕落したのです。その結果、人間は命を失い、死ぬこととなりました。神の祝福を失ってしまいました。
 そういう人間を救うための物語が聖書であったはずです。その人間の罪を、どうにかしなければ人間は救われないのです。そしてその人間の罪をどうにかするために来られたのがイエスさまであったはずです。そして、その人間の罪を全部背負ってくださるためにかかられたのがこの十字架でした。
 なのに、そのイエスさまに向かって、通行人は「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」と言ってののしりました。祭司長たちは、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と言ってののしりました。強盗も、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、イエスさまが十字架から降りることを求めてののしりました。
 みな、イエスさまに向かって、十字架から降りることを要求しました。そうすれば信じてやると。誰もイエスさまが何のために十字架にかかっておられるのかが分かっていない。それが、そのようにののしる人間を救うために十字架にかかっているということが分からない。それは自分の罪が分かっていないからです。
 かく言う私も同じでした。イエスさまによって命を助けられ、イエスさまによって守られ、祈りも聞いていただいたのに、不都合になるとイエスさまをして神を信じなくなりました。それは、自分自身の中にある罪、悪というものが分からなかったからです。だからイエスさまの十字架の意味が分からなかったのです。十字架につまづいたんです。
 しかし、もしこの時イエスさまが十字架から降りたのならば、誰も罪から救われることがありませんでした。みな、依然として神の怒りの対象となったままでした。誰も死の滅びから救われないままでした。悔い改めという、尊いことが起きません。
 
   示された救い
 
 今日もイザヤ書53章をもう一度見てみましょう。きょうはその5節です。旧約の預言者イザヤの預言です。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
 イエスさまが十字架に留まられたからこそ、私たちは救われたのです。この十字架のイエスさまを見て、私たちは、「ああ、この私の罪は、神の御子キリストがわたしの代わりに死ななければならないほどのものだったのだ」ということを知らなければなりません。そして、「神の御子が、わたしの代わりに十字架にかかって下さり、本当に救ってくださったのだ」ということを知らなければなりません。ですから、イエスさまが十字架から飛び降りることが奇跡なのではなく、神の御子がわたしを救うために十字架に留まり続けられたということが本当の奇跡なのです。
 そうしますと、祭司長たちがイエスさまをののしって言った、「他人は救ったのに、自分は救えない」と言った言葉は、いみじくも真実を言い当てていることになります。イエスさまは、自分を救わずに命を捨てることによって、他人である私たちを救ってくださったのです。このキリストの愛。その愛が今も私たちに注がれているのです。


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