2021年12月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章4
    マタイによる福音書27章33〜38節
●説教 「十字架という王座」

 
   讃美歌2−52「われらは来たりぬ」
 
 一昨日はクリスマスイブ礼拝をいたしました。教会外からも多くの方が見えて、たいへんうれしいことでした。そしてイエスさまがお生まれになったときに東方から来た博士の物語を通して恵みを分かち合いました。そして今日はまたマタイによる福音書に戻ります。そうするとそこは、イエスさまが十字架につけられる場面となっています。
 クリスマス礼拝、イブ礼拝と、イエスさま御降誕のおめでたいことと、本日のイエスさまの受難の場面とでは、違いすぎるように思われます。クリスマスの後、いきなり十字架では、落差が激しすぎるようにも感じられるかもしれません。
 しかし、私はそうは思わないんです。マタイによる福音書は、数年前に最初から読み始めて、今日はちょうどこの場面を読んでいます。何かとくにこの場面を選んだのではなく、順番に読んできてちょうどこの箇所をきょう読んでいるわけです。そして今日の聖書の意味を考えたなら、これは神の導き以外の何ものでもないと思うんです。
 先ほど讃美歌第2編の52番「われらは来たりぬ」を歌いました。原作は、ジョン・ヘンリー・ホプキンス・ジュニアというアメリカの方が作った讃美歌で、曲名は英語で「Three Kings Of Orient」(東方の3人の王)となっています。博士ではなく、王。これは、博士と言うのは実は東の国の王様だったという説に基づいています。それはともかく、この讃美歌の4節をもう一度見てみたいと思います。これは讃美歌の本を見ると「第3の博士」の歌詞となっています。
 「我が持ち来たれる 没薬ささげて み苦しみの日に 備えまつらん」
没薬を献げて、苦しみの日のために準備していただくという歌詞になっています。これはいったい何を言っているのかと思われる方もいるでしょう。
 没薬というのは、モツヤクジュと呼ばれる木から取れる樹脂から作られるそうです。そしてそれは、お香の材料、そして鎮痛薬、さらに殺菌作用があることから死体をミイラにする時の防腐処理に使われたそうです。この歌詞は、英語の原作では「悲しみあえぎ、血を流して死なれ、冷たい石の墓に封じられる」となっています。つまり、十字架でイエスさまが死なれ、岩石でできた墓の中に葬られる、その時の備えとして博士の一人がこれを幼子イエスさまに献げたという歌詞になっています。
 もちろんこれは作曲家が作った歌ですけれども、たしかにベツレヘムにお生まれになったイエスさまを訪ねてきた東方の博士が、イエスさまに没薬を献げたという出来事は、想像をかき立てます。彼らは、イエスさまがキリストとして十字架で死ぬことを知らなかったかもしれない。しかしこの時献げた没薬が、いみじくもイエスさまが十字架で死なれて墓に葬られることを指し示していると言うことはできます。
 
   十字架
 
 キレネ人シモンと共に十字架を担いで歩いてきたイエスさまは、処刑場であるゴルゴタの丘に着きました。ゴルゴタというヘブライ語の意味は、聖書に書かれていますように「されこうべ」という意味です。名前からして不気味で殺伐とした感じがします。
 現在、このゴルゴタの丘はエルサレムの聖墳墓教会の建物の中にあります。そこには、ここにイエスさまの十字架が立てられたという場所が保存してあり、その穴に手を入れてみることができるようになっています。もちろん、私も手を入れてみました。ただ、そこが本当にゴルゴタの丘だったかどうかは分かりません。
 エルサレムには他にも、ここが本当のゴルゴタの丘では?という場所があります。それが、来年の当教会カレンダーの写真にしました「園の墓」のあるところです。その少し上の崖は、離れて見ると、開いた穴の具合から、「されこうべ(ドクロ)のように見えるんです。
 いずれにしても、そのゴルゴタの丘でイエスさまは十字架にはりつけとなりました。聖書には「彼らは(ローマ兵たちは)イエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い‥‥」と書かれています。「十字架につけると」と、一言で触れていますが、それは想像を絶するすさまじさに違いありません。
 イエスさまの生涯を描いた映画「ジーザス」を、以前よく授業中に学生に見せたものですが、それまでは居眠りしたり内職したりして、ちゃんと見ている学生はどれほどいるのかなと思っていても、イエスさまが横たえた十字架の木の上に寝かせられ、兵士たちがイエスさまの腕を押さえつけ、大きな太い釘を手首に当ててハンマーを振り下ろす‥‥その瞬間に「キャー」とも「わあ!」ともつかないような声が上がるのが常でした。それぐらいドキッとする、そして痛みがこちらまで伝わってくるような瞬間でした。ちなみに、釘で打ちつけられたのは、手のひらという説もあり、手首であるという説もあります。
 そのようにして、両手のひらまたは両手首と足首に太い釘が姦通して十字架という木に張り付けにされるわけです。それは想像を絶する痛さであり、見ているほうも血の気が引いていくような光景です。そして十字架にはりつけにされた死刑囚は、何時間もその十字架の上で苦しんで死んでいくのです。ことによるとなかなか死ねないで、死ぬまで何日もかかる囚人もいたとのことです。なぜこんな残酷な刑罰であるかといえば、それは見せしめの刑だからに他なりません。ローマ帝国にたてつくような犯罪を犯すと、こういう目に遭うのだぞ、というわけです。それで丘の上の、通り道の近くの、よく見える所に十字架は立てられたのです。
 イエスさまの十字架の左右にも十字架が立ちました。その十字架にはりつけにされたのは強盗であったと書かれています。つまりハタから見ると、イエスさまは普通の十字架の死刑囚の一人のようにしか見えなかったのです。それは神の子キリストの死刑には見えなかった。全くふつうの犯罪人の死刑のようにしか見えなかったのです。
 
   ユダヤ人の王
 
 ただ、十字架の縦の棒の頭の上に取り付けられた罪状書きだけが、他とは違っていました。その罪状書きには「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていました。この罪状書きは、ヨハネによる福音書のほうをみると、総督であるピラトが書いたことがわかります。ピラトは、イエスさまが無罪であることを知っていました。しかし、ユダヤ人の指導者たちが群衆を動員して圧力をかけたので、それに屈してイエスさまを十字架につけるために引き渡したのでした。ピラトはそれが悔しかったのでしょう。せめてもの腹いせに、イエスさまの罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いたのです。つまり、彼らユダヤ人は自分たちの王を十字架につけた、と皮肉ったのです。
 「ユダヤ人の王」‥‥私たちは一昨日のクリスマスイブ礼拝で、博士たちの口を通してこの言葉を聞いたばかりです。東の方から来た博士たちは、エルサレムのヘロデ王のところに来て尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」‥‥その「ユダヤ人の王」という名称が、今十字架につけられたイエスさまの頭上に掲げられている。そしてこの「ユダヤ人の王」という名称は、すなわち「キリスト」「メシア」「救い主」を意味するのでありました。
 すなわち、あの博士たちがはるばる旅をして尋ね求めてきた救い主である「ユダヤ人の王」は、今このゴルゴタの丘で十字架にはりつけになっているイエスであると! 博士たちが、ベツレヘムの馬小屋でひれ伏して拝んだこの方は、まさにこの十字架でユダヤ人の王として十字架にかかられているのであると、聖書は私たちに語りかけているのです。
 ここにおいて、あのクリスマスの博士たちの物語と、イエスさまの十字架とがドッキングしているのです。ユダヤ人の王であるキリストは、十字架につけられるためにお生まれになったのだと。神の御子であるイエスさまは、ゴルゴタの丘で十字架につけられるために、人となってベツレヘムの馬小屋の中でお生まれになったのだと。そのようにマタイによる福音書は、語りかけているのです。
 なぜ、そのように十字架で死ぬために、この世に来られたのか?‥‥それは私たちを救うためです。ただそれだけのためです。それは同時に、私たちはもはや神の御子が人となって十字架にかかって命を捨ててくださる以外、救いようがないということでもあります。繰り返します。イエスさまは、罪人である私たちを救うために、この世に来られたのです。私たちの身代わりとなって、十字架にかかってくださったのです。
 34節に、十字架に張りつけにされる前、兵士たちがイエスさまに「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」と書いてありました。このぶどう酒は、痛みを少しでも麻痺させるためのものでした。しかしそれをイエスさまは飲まれなかった。痛みをそのまま全部引き受けられたのです。つまり私たちの罪のゆえの痛みも全部引き受けてくださったのです。
 イザヤ書53章4節をもう一度見てみましょう。
"彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと、と。"
 周りで見ている人も、通行人も、隣の十字架につけられた強盗も、イエスさまをののしりました。私たちも、かつてイエスさまの十字架など無関心でした。そんな私たちを救うために、感謝もされないのに十字架にかかって命を献げられるなど、全くバカバカしい話です。しかしイエスさまは、それをなさったのです。私たちを滅びから救うためにです。私たちが神の祝福を受けることができるようにするためにです。
 それで、ピラトがあてつけと皮肉のつもりで書いた「ユダヤ人の王」という罪状書きが、実は本当であったということになります。私たちの本当の王である方です。そうすると、実は十字架は本当に王座であったことになります。神の御子である方が、この私たちを救うために命を投げ出されるという、愛の結晶した姿としての王座です。
 
   祝福されている私たち
 
 このあと、讃美歌158番「天(あめ)には御使い」をご一緒に歌います。ご存じと思いますが、これはベートーベン作曲の交響曲第9番の第4楽章「歓喜の歌」の中の有名なフレーズの部分です。第9といえば日本の歳末の風物詩とも言えます。それで、「今日は今年最後の礼拝だから第9か」と思われるでしょうが、それは否定しません。あるいは「イエスさまの十字架の聖書箇所と、第九の歓喜の歌では、合っていないのではないか?」と思われるかもしれませんが、それはちょっと違います。
 それは、イエスさまが十字架にはりつけになり、苦しまれている、それが何のためであったかということに目を向けたいのです。先ほど申しましたように、それは私たちを救うためです。そのために身代わりとなっておられるんです。その愛の結晶した姿が、十字架という王座に就かれたイエスさまのお姿です。それは、私たちの罪を赦し、私たちがイエスさまを信じて神の子となり、神の子としての祝福を受けるためです。そのために御自分を献げられたのです。
 マタイによる福音書は、イエスさまの系図から始まっていました。そしてマタイによる福音書は、新約聖書の最初ですから、新約聖書はイエスさまの系図で始まっていることになります。そのマタイによる福音書の最初の言葉は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まっていました。イエスさまが、アブラハムの子孫としてお生まれになったことを書いていました。それは、イエスさまがアブラハムに神さまが約束した、その約束の実現であると言っているのです。
 そしてその人の子としてのイエスさまの先祖であるアブラハムに神さまが約束なさった言葉は、創世記12章1節〜3節に書かれています。その3節を見てみましょう。
 「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
 この「あなた」というのは、アブラハムの子孫である方、すなわちイエス・キリストを指しているというのがマタイによる福音書が語り始めたことでした。「地上の氏族はすべて」というのは、世界中の人全部ということです。世界のすべての人は、イエス・キリストによって祝福に入ると。そしてそのイエス・キリストは、十字架にかかられることによって私たちを救われたのです。それによって、私たちは祝福に入ると。
 ですから、私たちは十字架のイエスさまを見て、単に「おいたわしや、イエスさま」ということであってはならないことになります。たしかにそれは「おいたわしい」姿です。しかしそのことによって、私たちの罪深さを知らされる。そして、その罪を赦していただき、悪から救ってくださったという祝福を受け取らなくてはなりません。深い感謝をもって、その祝福を受け取るのです。それはイエスさまを信じることによって受け取ることができます。
 今年一年、不本意であったという方もいるかもしれません。つらいことが多かったという方もいるでしょう。しかし、あらためて、悔い改めてイエスさまを信じる時、私たちは赦され、祝福されているのです。「私はイエスさまによって祝福されている」ということを、何度でも繰り返して感謝したいと思います。
 念のために申し上げておきますと、讃美歌158番の歌詞に出てくる「君」というのは、という意味です。私たちを救うために十字架で苦しみを受けられたイエスさま。しかしそれは、たしかに私たちの真の王であることを証明するものです。君なるイエスさまにすべてをゆだねて、前に向かって進んでいきたいと思います。


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