2021年12月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教/クリスマス礼拝
●聖書 サムエル記7章16
    ルカによる福音書2章8〜14
●説教 「恐れと喜び」

 
 クリスマスおめでとうございます。新型コロナウイルスのパンデミックが始まってから、2度目のクリスマスを迎えました。現代に生きる私たちが直面するとは思ってもいなかった、まさかの災害の中に置かれています。しかしそのようなこの世の中に、神様がひとり子イエスさまを送ってくださったことを思うと、本当に慰められ、力を与えられます。
 
   羊飼い
 
 今年のクリスマス礼拝のために選んだ聖書箇所は、野宿をしていた羊飼いのところです。クリスマスのたびに、もう何度も扱った聖書箇所ですが、読むたびに違うメッセージが与えられるのも聖書が神の言葉である証拠だと思います。
 この羊飼いたちは、神様が御子の誕生を知らせるために選んだ人たちです。天地宇宙の造り主である全知全能の神様が、私たちを救うために送ってくださった神の独り子であるイエスさま。そんなに大きな出来事であるのに、世界から見たらとても小さな目立たないできごとでした。彼らは、全くふつうの庶民でした。名前も記録されていません。それは全くふつうの人たちであったことを示しています。
 羊飼いという職業は、イスラエルの伝統的な職業でした。もともとイスラエルは、先祖のアブラハムもそうでしたが、羊や山羊を飼う遊牧民でした。イスラエルの民が定住してからは、農業がおもな産業となりましたが、それでも羊はあちらこちらで飼われていました。しかし羊の所有者はともかく、直接羊の世話をする羊飼いは、とてもたいへんな仕事でもありました。羊という生き物が相手ですから、なかなか休むことができません。
 牛を飼っている酪農家の方にお話しを聞いたことがあります。その人は、家族で旅行などしたことがないと言っていました。誰かが残って牛の世話をしなければなりません。
 羊飼いも同じで、昼は羊を草のあるところ、水のある所に連れて行かなければなりません。羊を狙ってくる泥棒や、野獣にも警戒しなければなりません。そして夜も羊の群れの番をしなければなりませんでした。そういうことで、ユダヤ教の律法も満足に守ることはできませんでした。週に一度の安息日も、羊飼いには守ることができません。宗教家から見たら、まさに羊飼いは落第点をつけられるような存在でした。また、当時の羊飼いは貧しく、良い行いをしたり施しをすることもなかなかできません。そういうことですから、羊飼いたちは自分のことを「とても神様に認めていただけない」と思っていたことでしょう。神様は遠い存在に思えたことでしょう。
 
   天使の告知
 
 それで彼らは、いつものように夜が来て、いつものように羊飼いたちを囲いに入れ、野宿をして羊の群れの番をしていました。そこに、まさかの天使、神の使いが現れたのです。主の栄光があたりを照らしました。主の栄光とは、神さまがそこにたしかにおられるというしるしで、光り輝いているものです。今までそういう経験をしたことがなかった羊飼いでしたが、それでも天使が現れ、神の光で照らされている状態を見て、それが神の使いであることが分かったに違いないのです。
 羊飼いたちにとって、それは驚き以外の何ものでもありませんでした。いつものように羊を養い、夜を迎えて羊の群れの番をしながら野宿をしている。このいつもの普通の毎日を過ごし、夜を迎えている。そのいつもの平凡な日常の中に、突然神さまが飛びこんできたのです!
 そしてその神の使いが、メシアと呼ばれるキリスト、救い主の誕生を知らせたのです。それは、神の御子のところへの招きでした。この夜、このようにして神さまによって、ベツレヘムでお生まれになったイエスさまの所へ直接招かれたのは、この羊飼いたちだけでした。
 現在、世界の人口は75億人以上いるそうですが、イエスさまがお生まれになったときは約3億人だったそうです。この野宿をしていた羊飼いたちは、何人だったのでしょうか? 仮に3人だといたしますと、世界の3億人の中の3人。そうすると、選ばれる確率は1億分の1ということになります。これは言ってみれば、日本でただ一人選ばれるような確率です。宝くじの1等賞に当たるどころの騒ぎではありません。
 そうすると、いよいよ、神さまはなぜこの羊飼いたちを、ベツレヘムにお生まれになったイエスさまの所に招待なさったのか、不思議に思われます。
 
   恐れ
 
 主の天使が近づいてあたりを主の栄光が照らした時、羊飼いたちは「非常に恐れた」と書かれています。この恐れはなんだったのでしょうか?
 一つは、単にビックリ仰天したという「恐れ」だったということが考えられます。たとえて言えば、幽霊を見た時に恐れるような恐れです。しかし、どういうそういう恐れであったとは考えにくいものがあります。幽霊は、ぼーっと現れて怪しげな所が不気味なわけですが、この天使は神の栄光である明るい光に輝く中に現れているからです。ビックリしたとしても、幽霊を見た時のような「恐れ」というものではなかったのではないかと思います。それは、幽霊でもなく悪魔でもなく、神さまの表れなんだということが直感的に分かる。神さまの光というのはそういうものだからです。
 そうすると、もう一つ考えられるのは、神さまの使いが来られたことが瞬間的に分かったとしたら、それは自分たちを裁くために来られたのではないかと恐れたのではないか。先ほども申し上げましたように、羊飼いたちはおよそ神さまとは無縁な生活をしている。宗教家が言うような、戒律を十分守ることもできないし、施しをするなど良い行いをたくさんして神さまに喜ばれるようなこともしていない。そんな自分たちの所に、まさか神さまが来られるとは思えない。もし来たとしたら、それは自分たちに裁きを下さすために、罰を与えるために来られたのに違いない。‥‥そんなふうに思ったに違いありません。そういう恐れです。
 ところが、天使が語ったのは「喜び」でした。天使は言いました。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」‥‥喜ばしいことを告げるために来たのだと言われたのです。それは救い主キリストがお生まれになったということであると。これが民全体に与えられる大きな喜びであると、天使は語りました。「民全体」ということは、世界のすべての人々ということです。世界のすべての人々に神さまが与える大きな喜び。それが救い主キリストの誕生なのだと言われます。
 そんな世界中の人のためのビッグな知らせを、なぜこの羊飼いたちに告げられるのでしょうか?
 世界中の人々のためならば、世界中の人々に知らせる力のある人に告げるべきなのではないでしょうか? たとえば当時の世界帝国であるローマ帝国の皇帝とか、あるいは商売のために世界を巡り歩く貿易商人とかにです。今日で言えば、アメリカの大統領とか、テレビのニュースキャスターに告げて招く方が、よほど効率よく世界中に伝えられるのではないでしょうか?
 しかし考えてみますと、こんにちでは、すでに世界中の人々がクリスマスの出来事を知っています。クリスマスがイエスさまの誕生をお祝いする日であることも、多くの人が知っています。日本でも、全国どこでもクリスマスが祝われます。しかし、だからと言って、知った人がみな信じるわけではありません。御子イエスさまの所に、すなわち教会に来て礼拝するわけではありません。そうすると、大統領やニュースキャスターに知らせたとしても、それによって人々が神の御子を信じるようになるわけではないことが分かります。そのへんに、神さまがなぜこの無名のふつうの羊飼いたちをお招きになったのかが分かるヒントがあるように思います。
 
   たとえ
 
 先日、関東学院から送ってきた広報誌を見ておりましたら、大学宗教主事の先生が書いておられた文章の中に、哲学者であり神学者であるキルケゴールのたとえ話を引用なさっていて、とても分かりやすいお話しでしたので、私も引用させていただきます。それはこういうお話しです。
‥‥ある国にたいへんりりしい王子様がいました。彼は、自分の妻になるのにふさわしい女性を探していました。ある日、父親の用事で貧しい村を通りかかりました。馬車から外を眺めていると、その村に住む農夫の娘が目に止まりました。それからも、たびたび彼女の近くを通りかかりました。やがて王子は彼女に恋をしました。しかし、どうやって彼女の気持ちを自分に向けることができるだろう?と考えました。王子ですから、権力を使って彼女を自分と結婚させることもできたでしょう。けれども、そのように強制されてではなく、自分のことを心から愛して結婚してほしかったのです。王子ですから、すばらしい衣装を着て、宝石や金貨を持って、彼女の前に現れることもできたでしょう。しかしそれでは、彼女が本当に自分のことを愛したのかどうか分からない。ただ彼の持ち物のすばらしさに心を奪われてのことかもしれない。それで、彼はそういうこととは違う道を選びました。
 彼は、来ていた王子の服を脱いで普通の服に着替えました。そして彼女のいる村に移り住みました。自分の身分を知らせずに、彼女と知り合うことにしたのです。王子は村の人たちと共に住み、彼女と友だちになって、互いに趣味や考えていることや悩みなどを語り合いました。この娘は、王子の人柄が良かったので、そして王子が自ら真剣に彼女を愛してくれたので、徐々に王子を愛するようになっていった。‥‥そういうお話しです。
 このことは、なぜ天地の造り主である神さまが、そのひとり子をこの世に送られたのか、ということをよく説明していると思いました。そのひとり子は、名もなく貧しい庶民のマリアとヨセフの間の子として、すなわち人の子としてお生まれになった。しかもおよそきらびやかな王の宮殿とはほど遠い、家畜小屋でお生まれになった。それは、力づくで人に神を信じさせるためではなく、神の愛を知った人間が心から神を愛するようになるために、そうなさったのです。
 そしてこのお話は、なぜ神さまが、ひとり子イエスさまの誕生を、この羊飼いたちにお知らせになり、生まれたばかりのイエスさまの所にお招きになったのか、ということも同時に説明していると思います。それは、心からの喜びを与えるためです。そもそも「喜び」というものは、脅されたり、力づくで喜べるものではありません。神が、この私のような者にも心を留めていてくださる。そして、なんとひとり子キリストのもとに招待してくださっている。「恐れるな」と言ってくださる。そして、その無名で無力な羊飼いたちが語るキリストに出会った喜びを、人々が信じる時というのは、力づくでもなく、損得勘定でもなく、本当の喜びが伝わった時でしょう。そのように、見た目や形ではなく、神さまの与える本当の喜びが伝えられていくために、ということができます。
 
   恐れるな
 
 天使は「恐れるな」と言いました。実はこの「恐れるな」という言葉は、その時だけの「恐れるな」という言葉ではないんです。つまり、突然天使が現れてビックリしたことについて「恐れるな」という意味ではないんです。その時だけ、一回限りの「恐れるな」ではない。この言葉のギリシャ語の文法で言うと、その後も続けて「恐れるな」というような形なんです。つまり言ってみれば、「もう恐れる必要はなくなった」というような形なんです。「もうあなたがたは恐れなくてもよくなった。これから恐れずに生きていける」‥‥言わばそういうことです。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストの所に招かれるということは、そういうことなのです。
 そしてその神さまの招きは、すべての人に与えられている招きです。その喜びを、この羊飼いたちは最初に託されたのです。
 平凡で単調な毎日の生活の中に、突然飛びこんで来て「恐れるな」と喜びのメッセージを伝えた神さま。その神さまは、私たちをも招いてくださっている。そしてキリスト・イエスさまと共に歩む時、もう恐れる必要はなくなるのであります。


[説教の見出しページに戻る]