2021年12月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント3
●聖書 イザヤ書53章4
    マタイによる福音書27章32
●説教 「十字架を担いだ人」

 
   イエスさまの十字架を担いだ人
 
 本日のマタイによる福音書は、1節のみを取り上げました。たいへん短いです。しかし、たいへん大きな恵みが詰まっています。そんな箇所です。
 十字架刑が決まったイエスさま。その総督官邸から、処刑場であるゴルゴタの丘まで、死刑囚が十字架を自ら背負っていくのがならわしでした。見せしめであります。しかし今日の聖書箇所を読むと、イエスさまの十字架を、シモンという名前のキレネ人が背負ったと書かれています。
 「キレネ人」と書かれていますが、これはキレネ人という民族がいたのではありません。シモンはユダヤ人です。つまり、キレネに住んでいるユダヤ人ということです。キレネというのは、北アフリカのリビアにあった町です。ユダヤ人は昔から、国外のあちらこちらに住んでいる人がいました。シモンはその一人です。しかし、この時はちょうどユダヤ人の過越祭でしたので、その祭のためにエルサレムに来ていたのでしょう。
 そのシモンが、たまたまそこに居合わせたのです。それでローマ兵によって、イエスさまの十字架を無理に担がされた。どうしてイエスさまの十字架を担がされたかということですが、イエスさまにはもはや十字架を一人で担いでいく力が残っていなかったものと思われます。なぜなら、イエスさまはこのときまでに、ひどくムチで打たれていたからです。そのことは26節に書かれています。「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
 ひと言で済ませていますが、実はこれはすさまじいムチ打ちだったのです。ムチというと、私たちはズボンのベルトのようなものを想像するかもしれませんが、そんな生やさしいものではありません。柄には皮のヒモが何本もついていて、しかもその皮のヒモには動物の骨や鉛のような金属片が取り付けられていました。それで人間の体を鞭打つんです。何度も何度も。ですから体の皮膚も肉も裂け、血がほとばしる。あばら骨も折れる。だから痛いなんていうものではありません。それだけで死ぬ囚人がいたと言われています。イエスさまは、十字架を担ぐ前に、そのような刑罰を受けているのです。ですから、もう一人で十字架を担ぐ力は残っていなかったのです。
 前任地の教会で、新会堂を建てる時、聖壇の壁に取り付ける十字架を新しく作りました。実物大はちょっと無理なので、実物の3分の2ほどの大きさの木の十字架を作りました。その新しい十字架を取り付ける前、しかもまだ十字に組む前の縦の棒だけを担いでみました。ずしりと重かったんです。材質が樫の木であったせいもあると思いますが、ずしりと重かった。私は「あ〜、ボロボロの体で、こんな重いものをイエスさまはかついだんだなあ‥‥」と思うと、胸が熱くなりました。
 
   誰が十字架を担いだのか
 
 さて、結局十字架は誰が担いだのか?‥‥マタイ、およびマルコによる福音書では、イエスさまお一人で担がれたように読めます。しかしヨハネによる福音書では、イエスさまが自ら十字架を背負っていったと書かれています。また、ルカによる福音書では、「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」と書かれています。つまり、途中からシモンに交代したように読めます。
 いったい、事実はどうだったのか? それぞれの福音書は、注目している所が異なっているんです。マタイとマルコの福音書は、キレネ人シモンが担いだことに注目をしている。ヨハネの福音書は、イエスさまが担いだことに焦点を当てている。そしてルカの福音書は、最初はイエスさまが担いでいったが、途中からキレネ人シモンが担いだというところに注目をしていると言えます。ルカ福音書では、シモンに十字架を背負わせ「イエスの後ろから運ばせた」とあります。それで、このことを描いた中世の絵などを見ると、イエスさまが十字架のクロスしている部分を担ぎ、シモンが十字架の縦の棒の最後の部分を抱えて運んでいる絵が多く見られます。しかし「後ろから」というのは、十字架の後ろの方ということではなく、「イエスに従っていく」という意味であると考える人もいます。
 メル・ギブソンが監督となって制作された映画『パッション』では、最初イエスさまが十字架を担いで歩いていくのですが、やはり鞭打たれたボロボロの体ですから、途中で倒れてしまう。そこでローマ兵の隊長が、たまたま道端で見物していたシモンを見つけ、イエスさまと並んで十字架を担がせていくという形で描いていました。私もそんなところではないかと思いました。ちなみに、この『パッション』という映画は、たいへんリアルにイエスさまの受難を描いた映画で、ドキドキして見たものです。
 
   ヴィアドロローサ
 
 そのように、ひどくムチで打たれたイエスさまは、シモンの手を借りて処刑場であるゴルゴタの丘に向かって歩いて行かれました。このマタイ福音書は、たった1節で書いているわけですが、総督官邸からゴルゴタの丘までの間を、ラテン語で「ヴィアドロローサ」=「悲しみの道」と呼んでいます。それは十字架の道行きとも呼ばれます。
 私もエルサレムに行きました時、このヴィアドロローサを歩いてみました。この十字架の道行きは、途中から狭い路地になっていて、アラブ人の商店が軒を連ねて並んでいました。私は、イエスさまが十字架を担いで行かれたことを黙想しながら静かに歩いてみたいと思っていたのですが、その商店の売り買いの声や、多くの人が行き交う雑踏のような感じで、黙想どころではありませんでした。
 しかし、ふと、イエスさまが十字架をシモンと共に担いで行かれた時も同じだっただろうと思いました。イエスさまの時も、過越祭のために各地からエルサレムに集まってくるユダヤ人で混雑していたでしょう。さらに、十字架にかけられる死刑囚が通るというので見物する人々が集まって来たことでしょう。さらに、イエスさまを慕う人たちも沿道で悲しみながら見ていたことでしょう。それらごった返すような人々に対して、ローマ兵たちが群衆に道を空けるように怒鳴りながら進んでいく。そういう状況だったでしょう。
 
   キレネ人シモン
 
 さて、キレネ人シモンに戻りますが、このシモンは、のちにキリスト信徒となったようです。なぜそのことが分かるかというと、今日のことと同じことが書かれているマルコによる福音書の15章21節にこう書かれています。「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と。二人の息子の名前が書き加えられているんです。なぜわざわざ息子の名前が書き加えられているのか。おそらく教会の中でよく知られている人ということだろうと思われるのです。つまりマルコは、「ほら、我々の仲間であるアレクサンドロとルフォスの父のシモンだよ」というようなつもりで書いているのではないかと。
 そのことは、さらに使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙16章13節でも分かります。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」‥‥ルフォスの母というのは、キレネ人シモンの妻ですね。伝道者であるパウロは、その人に大変お世話になったようです。すなわち、シモン自身ももちろん主の弟子、クリスチャンとなったと言えるのです。
 今日の聖書箇所で、シモンがローマ兵によってイエスさまの十字架を担がせた。おそらくシモンが力持ちに見えたのでしょう。ローマ兵には、いつでも誰でも人を徴用することが許されていました。だから文句は言えません。シモンは、「なんてついていない日なんだ」と思ったことでしょう。死刑囚の死刑台を担ぐわけですから。しかし、仕方なく担いだ。なぜそのシモンが、クリスチャンになったのでしょうか?不思議です。
 シモンは、先ほど述べたように、イエスさまと共に十字架を担いで歩いて行きました。そして処刑場であるゴルゴタの丘に着きました。そして、そのあと、十字架に釘で打たれ、張りつけにされるイエスさまを見たことでしょう。普通であれば、それは単なる犯罪者、死刑囚の処刑の光景でしかありません。
 シモンは何を思ったでしょうか。何も書かれていないから分かりません。いつまでそこに留まったかも書かれていないから分かりません。イエスさまが息を引き取ったあとに、ローマ兵の隊長が「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)と言ったようなことが、シモンにも起こったのかもしれません。
 そしてシモンがイエスさまを信じる者になったということは、自分の罪をイエスさまが代わりに負ってくださった、自分の悪、呪いもイエスさまが代わりに負ってくださったということを信じるに至ったということです。シモンが十字架を担いで歩いている時に、形としてはイエスさまを助けて重い十字架を担いでいったことになるでしょう。しかしのちに、実はその重い十字架は、自分の罪、自分の悪の重さであることを悟ったのだと思います。そしてそれをイエスさまが引き受けて、十字架にかかってくださったのだと。そのことが分かったのだと思うんです。
 そして、シモンは、そのイエスさまの救いを手伝うという、尊いことをさせていただいたのだ、と。そのことが分かったのだと思います。
 
   苦しみも恵み
 
 クリスチャンにとって、苦しみは罰ではありません。私が初めてそのことを知らされたのは、水野源三さんという人を通してのことでした。ご存じの方もいると思いますが、水野源三さんは、子どもの時に高熱を出してそれが原因で脳性マヒとなり、体の自由が奪われました。起きることも、手足を動かすことも、話すこともできなくなりました。ただ、目と耳だけは残った。つまり見ることと、話しを聞くことだけは残りました。それで、自分の意思を他の人に伝える手段として、「あいうえお」の50音の表をお母さんが指で順番に指し、源三さんがまばたきで合図をして意思表示をするという方法を編み出しました。そのようにして、水野源三さんは亡くなるまでに4冊の詩集を出版しました。私はそれによって、苦しみもまた恵みであるということを教えられたのです。その詩の一つが、『新聖歌』292番に載っています。こんな歌詞です。
 「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった」
 その苦しみというのは、水野源三さんの場合は全身麻痺という重い重いものです。その苦しみが自分になかったとしたら、私は神さまの愛を知らなかったと歌っているのです。だから苦しみは感謝であると。このようなことは、本当に苦しみ、本当にキリストに出会った人でなければ言えない言葉です。しかし水野源三さんには、そのような出会いがあったに違いありません。
 世間の人は言うでしょう、「そのような目に遭ったのは先祖のたたりである」とか「呪われている」と。しかしキリストを信じた時、先祖のたたりも呪いもありません。全部イエスさまが負ってくださったからです。十字架を担いだシモンは、そのことを悟ったに違いないと思うのです。ゆえに感謝が生まれます。
 ちなみに、先ほどの『新聖歌』292番の2節、3節は次のようになっています。
 「2 多くの人が 苦しまなかったら 神様の愛は 伝えられなかった」
 「3 もしも主イエスが 苦しまなかったら 神様の愛は 現われなかった」
 主イエスの苦しみ。世の人々を、そして私たちを救うための苦しみです。その、世の人々を救うための苦しみの一部を担わせていただいている。その苦しみを、実際に十字架を担いだシモンは、身に染みて分かったことでしょう。そのイエスさまの救いの業の、お手伝いをさせていただいたのだ、それがあの十字架の道行きだったのだと。それゆえ、私たちの受ける苦しみも、世の人々を救うためのイエスさまの働きの、お手伝いをさせていただいているのだと言うことができるのです。


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