2021年12月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント2
●聖書 イザヤ書53章1〜3
マタイによる福音書27章27〜31
●説教 「荊冠」
先週の日曜日から、アドベント、すなわち待降節に入りました。アドベントとはラテン語のアドベントゥスという言葉から来ていて、「到来」という意味です。到来とは、イエスさまが2千年前に人の子としてこの世に来てくださったことと、もう一つはイエスさまが再びこの世に来てくださる再臨のことを指します。ですからアドベントは、この世に人の子としてお生まれになったイエスさまを喜び感謝する時であると共に、再びお出でになるイエスさまのことを覚えつつ信仰生活を送る時ということになります。
そして教会の一年は、このアドベントから始まります。つまり、イエスさまをお迎えするところから始まります。そのアドベント入りとなる先週の日曜日は、神学校日を延期して実施したので神学生による説教でした。その前の週は「幼児祝福礼拝」として守りました。さらにその前の週は「召天者記念礼拝」でした。そういうことで、約1か月ぶりに再びマタイによる福音書の聖書箇所に戻ることとなりました。
それはちょうどイエスさまの受難の場面へと入っていく個所です。人の子としてお生まれになったイエスさまを喜び感謝する時であるアドベントなのにイエスさまが苦しみをお受けになる受難の場面を続けて読むというのは、何かふさわしくないように思われるかもしれません。しかし、イエスさまが人の子としてこの世に来られたのが、いったい何のためであったかということを考えますと、アドベントに受難の場面を読むということは、実は最もふさわしいことなのではないかと思えてまいります。
先週の神学校日の礼拝でも、神学生が説教した聖書箇所は、イエスさまの受難の場面でした。その聖書箇所は私が指定した聖書箇所ではなく、神学生が自分で決めた聖書箇所でした。そうすると、今年のアドベントに聖書のイエスさまの受難の場面を読むということが、主の導きなのだと思えてまいります。
辱められるイエスさま
さて、しかし本日の聖書箇所は、まことに心が痛む聖書箇所だと言わなければなりません。なぜなら、イエスさまが思いきりはずかしめを受けているからです。
前回のところでは、ローマ帝国のユダヤ総督であるポンテオ・ピラトによる十字架の判決が下されました。ピラトはイエスさまが死刑に当たるようなことはしていないことを知っていました。けれども、ユダヤ人指導者が動員した群衆の声に押されて、「自分には責任がない」と言って責任逃れをした上で、十字架につけるためにイエスさまを引き渡しました。そして今日の場面は、そのイエスさまの十字架が準備されるまでの待ち時間の出来事であると思われます。
死刑執行を担当するのは、ローマ軍の兵士です。彼らは、イエスさまを総督官邸に連れて行き、兵士たちを集めました。そして、イエスさまを十字架につけるために引いていくまでの間、イエスさまを辱めたのです。
それもまったくひどいものでした。イエスさまの着ている物をはぎ取り、代わりに赤い外套を着せました。この赤い外套というのは、ローマ兵が身につけているマントです。そして茨で冠を編んでイエスさまの頭にかぶせました。そしてイエスさまの右手に葦の棒を持たせました。これは、イエスさまを王様に見立てているんです。赤い外套は、王様が着る紫のマントに見立て、黄金で作られた王冠の代わりに茨の冠をかぶせたのです。そして葦の棒は、王様が持つ笏(しゃく)になぞらえている。そうしてイエスさまを王様に見立てている。そして彼らはイエスさまの前にひざまずいて「ユダヤ人の王、万歳」と言った。イエスさまを支持した人々は、イエスさまが救い主キリストであると信じていました。そしてキリストというのは、ユダヤ人の王であるとされていました。だから彼らローマ兵たちは、それをからかって「ユダヤ人の王、万歳」と言ったんです。悪ふざけ、侮辱です。そして、イエスさまにつばを吐きかけ、葦の棒でイエスさまの頭をたたき続けた。‥‥もう、見るに堪えない光景です。
茨の冠
さて、茨(いばら)の冠です。「いばら」というと、バラの花とバラのトゲを思い出すのではないかと思いますが、実はちょっと違います。いばらというのは、鋭いトゲを持つ灌木(低い木)のことを言うのだそうです。
イスラエルに行った時、みやげ物の店でこの茨の冠を売っていました。バラよりもはるかに長い、数センチもあるトゲを持つ植物の枝を丸く編んで造られたものでした。よほど買って帰ろうと思いましたが、カバンの場所を取りそうなのでやめました。しかし、こんなものを人間の頭にかぶせられたらと思うと、言葉が出ませんでした。
実は、逗子教会にも茨が生えました。川沿いの道に面した花壇の隅っこです。なんでそんなものが生えてきたのか知りませんが、おそらく鳥の糞に種が混じっていたのでしょう。逗子消防署が年に一度査察に来るんですが、ちょうど2階の非常口の外にある非常用梯子が降ろされた場合に引っかかるほどに、その茨が大きくなっていました。それで消防署の方が、「あれは切って下さい」と言いました。それで私は、後でノコギリを持っていって切りました。そして切った枝を捨てるためにポリ袋に入れました。トゲが指に刺さらないように注意深く入れていたはずなのに、指に刺さって少し血が出ました。痛いんですね。ほんのちょっとトゲが刺さっただけなのに、痛くて血が出る。イエスさまの場合は、王様がかぶる王冠の代わりに、いたぶるようにして無理矢理かぶせられたんですから、それはもうたまらなく痛かったし、血が流れ出たことでしょう。
ローマ兵たちが、そのようにしてイエスさまをいたぶった。悪ふざけにしても、度が過ぎているように思います。このローマ兵たちは、ユダヤ人ではありません。外国人です。ローマ帝国内の諸民族からなる人たちです。そしてユダヤに駐屯している。ユダヤ人というのは、たいへん治めにくい民族でした。自分たちは神から選ばれた民であるという自負がある。プライドが高いんですね。そして外国人、つまり異邦人を穢れた民であると見なしている。しばしば反乱や暴動が起きます。そういう民族を治めるのには、手を焼いたことでしょう。そういう日ごろの鬱憤がたまっていたかもしれません。そこに「ユダヤ人の王」と言われたイエスさまが死刑囚として、ここにいる。それで、そのような鬱憤やストレスをイエスさまにはけ口として、ぶつけたとも考えられます。
なんのために、誰のために?
今日の聖書箇所を読むと分かりますように、イエスさまは一言も語っておられません。沈黙しておられます。黙って、これらの暴行を受けておられるんです。いったいなぜイエスさまは黙って、嘲りを受けているのか? 聖書によれば、イエスさまは天地の造り主なる神の御子です。福音書を読んでも、数々の奇跡をなさってこられた方です。ガリラヤ湖では嵐を静められた方です。
この日の前の晩、イエスさまはゲッセマネの園で捕らえられたわけですが、その時、弟子の一人が剣を抜いて、イエスさまを捕らえに来た人に打ちかかりました。そのときイエスさまはおっしゃいました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:52〜53)。そのように、イエスさまがお願いすれば、父なる神さまが直ちに天使の軍団を送って助けて下さる。そういう方です。なのにイエスさまは、なされるがまま、暴行されるまま、つばを吐きかけられるままにされておられる。私たちは叫び出したくなる思いです。「主よ、この人たちを今すぐなぎ倒して下さい!反撃して下さい!」と。しかし、イエスさまは黙って、身を任せておられます。
いったいなぜでしょうか? なぜ、黙っておられるのでしょうか? されるがままにされているのでしょうか?
それは他でもありません。私たちを救うためです。それだけのためです。「私たち」というと、何かその他大勢という感じがしますので、ていねいに言えば「私を救うため」であり「あなたを救うため」です。このあと、十字架を担いで処刑場であるゴルゴタの丘に向かって行かれるわけですが、もう十字架は始まっているんです。受難が始まっている。私たちの身代わりとなって、かかられる十字架。十字架は私たちを救うためにかかられました。そして今日のこの辱めも、私たちを救うために甘んじて受けられているんです。
他の言葉で言えば、ここですでに、私たちに代わって呪いを受けて下さっているんです。私たちの中で、思う人がいるかもしれません。「あ〜、自分は呪われている。」しかしこのイエスさまを信じるならば、呪われてなどいないんです。イエスさまを信じているのに、「自分は呪われている。ダメだ」。そんなはずはありません。もしそう思う時があれば、このときのイエスさまの姿を思い出して下さい。茨の冠をかぶらされ、葦の棒を持たされて、おもいきり嘲られているイエスさまの姿を。私たちの代わりに、すべてを神にゆだねて呪いを引き受けて下さったお姿です。
そうすると、私たちははじめ「イエスさま、なぜ黙っておられるんですか?この人たちをなぎ倒してください!」と思いましたが、実に尊いお姿であるかということが分かります。私たちを愛し、救おうとされているそのお姿であることが伝わってまいります。そのような方は、世界広しと言えども、このイエスさまの他にはいません。
預言されていた
しかも、このことは聖書であらかじめ預言されていたんです。イエスさまは、たまたまこのような目に遭わされたと思う人もいるかもしれません。「本当に、私たちを救うためにこのように耐え忍ばれているのか?」と思うかもしれません。しかし、このことはすでに預言されていた。つまり神さまのご計画の中にあったと言うことです。
きょう、もう一個所、旧約聖書のイザヤ書53章の中から読んでいただきました。このイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも、イエスさまの受難について、その意味をもっともよく預言している個所です。もう一度読んでみます。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ)53:1〜3)
もちろんこの後も続きがありますけれども、今後もしばらくは、マタイによる福音書とこのイザヤ書53章を合わせて読んでいきたいと思います。イザヤ書53章を読むと、イエスさまの十字架の意味が分かってきます。
また、今日の所で、イエスさまがローマ兵から嘲られて、赤い外套を着せられたと書かれていました。この赤い外套は、ローマ兵が身にまとうマントであったのですが、やはりイザヤ書1章18節に、次のように書かれています。
(イザヤ1:18)「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」
「緋」というのは「赤」色のことですね。そのように、私たちの罪、悪というものが、ここでは赤色で表されています。しかしこのイザヤ書1:18では、その緋のような罪が、雪のように白くなる、つまり赦されて清められると言っています。神の言葉です。
そうすると、今日の聖書箇所でローマ兵は、イエスさまをからかうために赤いマントを着せたのですが、それはいみじくもこのイザヤ書の預言を成就することになったということもできます。私たちの罪、悪が、緋色であったものが、イエスさまの受難によって洗い流されて、雪のように白くなるのだと。そのように、イエスさまの受難は、唐突なものではなく、あらかじめ神さまから預言されていたものであると聖書は語っているのです。
それはすなわち、この受難のためにイエスさまは人の子としてこの世に来られたということになります。クリスマスは、単に神の御子イエスさまが人の子として来られたことを喜びお祝いする時ですが、それは、このように私たちの罪を背負い、呪いを引き受けて下さるために来られたのです。そのことをあらためて深く心に留めたいと思います。イエスさまが、私たちの受けるべき呪いは代わりに引き受けて下さった。罪と悪を引き受けて下さったのです。それで私たちは呪われていないし、罪も赦されているんです。こうして私たちは、前に向かって歩んでいくことができるのです。
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