2021年11月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 レビ記16章8〜9
    マタイによる福音書27章15〜26
●説教 「身代わり」

 
   レビ記
 
 今日は旧約聖書の個所として、レビ記の中から選びました。レビ記と言いますと、「あの退屈な個所か」と多くの方は思うでしょう。
 そのように、レビ記というと敬遠される傾向にありますが、実はそこにはキリストを指し示す予言が満ちている書物でもあります。前任地の教会でのことです。水曜日の祈祷会でちょうどレビ記を毎週扱っているときに、教会は初めてという女性が祈祷会に来始めました。私は、「ああ、最も分かりにくくて退屈な書物を扱っているときに、初めての人が来るとは!きっと、つまらないと思って次から来ないだろう」と思いました。ところがその方は、毎週夜の祈祷会に通い、やがて洗礼を受けました。あとからその時のことを聞くと、「あのレビ記が良かった」とおっしゃいました。神さまのなさることは、本当に人間の思いを超えて不思議だと思いました。
 さて、今日取り上げましたのは、そのレビ記の中でも不思議な個所です。それは、2匹の雄の山羊を、神さまを礼拝する幕屋の前に連れて来て、くじを引くんです。そしてそのくじ引きによって1匹は主のもの、もう1匹はアザゼルのものと決めるんです。そのアザゼルというのは悪霊のたぐいです。そしてアザゼルのものと決まった山羊は、荒れ野のアザゼルのもとに追いやられる。つまり悪魔のもとに追いやられるんです。そして聖書に書かれていませんが、伝説では、山羊は赤い糸を角につけて荒れ野に追いやられ、断崖から突き落とされて死ぬと赤い糸が白く変わり、罪が取り除かれるというんです。つまり、山羊は身代わりとなって罪を負ってくれるというわけです。
 これもイエスさまの十字架を予言しているような個所です。イエスさまが私たちの代わりに罪を負って下さり、命を捨てて下さる。一見、無味乾燥に思われるレビ記にも、そのようにしてキリストの救いが隠された形で予言されているということです。
 
   ピラトに見られる人間の罪
 
 さて、新約聖書マタイによる福音書のほうは、前回の続きです。ローマ帝国のユダヤ総督であるポンテオ・ピラトは、イエスさまが十字架刑になるような罪を犯していないことを知っていました。おまけに今日の個所で書かれているように、奥さんから「あの正しい人(イエスさま)に関係しないで下さい。その人のことで、私は昨夜、夢でずいぶん苦しめられました」(19節)と伝言がありました。
 夢というのは、聖書では神さまの御心を伝えるために、良く用いられています。なぜ神さまが夢で御心を伝えることがあるかというと、人間は眠っている時が一番すなおで謙虚な状態だからです。先入観も予断も偏見も眠っている。心がニュートラルになっているんですね。だから神さまの御心を伝えやすいんです。神さまは、そのようにピラトの奥さんを通して、イエスさまの裁判に関わらないようにメッセージを送られた。ですから、ピラトは、イエスさまが罪を犯していないことを知っていたばかりか、イエスさまを裁くことが神さまの御心ではないことも感じていたということになります。
 しかし結局ピラトは、イエスさまを十字架刑に処することに同意してしまいました。それは、イエスさまを訴えたユダヤ人指導者たちが群衆を動員して、イエスさまを十字架につけるように扇動したからです。そして、騒動が起こりそうなのを見て(24節)、ピラトは十字架刑にするためにイエスさまを引き渡したと書かれています。ローマ皇帝からユダヤの統治を任されている総督として、暴動が起きるというのは失態となります。現地をうまく治めていないということになる。そうすると、左遷させられます。それでイエスさまの無実を分かっていながら、さらに神さまにストップをかけられながら、ピラトはイエスさまを十字架刑にすることを決定した。それは保身のためだったことになります。我が身かわいさのゆえに。そして結局、神の御子であるイエスさまを十字架にかけてしまうことになる。罪とはそういうものです。
 ピラトは、イエスさまを十字架にかける前に群衆の前で手を洗って言いました。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」‥‥これは責任回避の言葉ですね。「おれは十字架の判決を出すけれども、あなたがたがそう言うから判決を出すのであって、おれの責任ではないからね」ということです。自分は悪くない。イエスを十字架につけろと言ったのは、この人たちだと。それはまさに、人類最初の罪である原罪の姿と同じです。創世記第3章です。エデンの園で、神さまが食べてはいけないとおっしゃった善悪の知識の木の実を食べてしまったとき、アダムは妻のエバが勧めたので食べたといいました。エバはエバで、へびが騙したので食べましたと言いました。責任転嫁です。なるほど自分も神さまの言葉に背いたけれども、それは自分を誘う人がいたからだ、自分が悪いんじゃない。そう言って、ちゃんと神さまと向き合わない。悔い改めにならないんです。
 私たちも同じではないでしょうか。本当は良くないことであると知っている。しかし、結局その良くないことをしてしまう。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で述べています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。罪とはそういうものです。
 前回、使徒信条でポンテオ・ピラトの名前が出てくるのは、イエスさまが十字架にかけられたことの歴史的証拠として名前が出てくると申し上げました。しかし、もう一つ、使徒信条にピラトの名前が出てくる理由があります。それは、私たち罪人である人間の代表者として名前が出てくるのです。ですから、使徒信条でイエスさまが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白されるとき、それは、「ポンテオ・ピラト」の名前の所を、私たちの名前に置き換えることもできるんです。「わたしのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と。
 私たちはイエスさまの十字架と無関係ではなくなる。私たちがイエスさまを十字架につけたということになります。そこで私たちの罪を自覚するように導かれるんです。しかし、イエスさまの十字架が私たちの罪と無関係ではなく、私たちの罪のゆえに十字架にかかられたということは、私たちの罪を断罪するだけではなく、同時にその罪人である私たちを救うことにつながる。そこに奇跡があり、福音があるんです。
 
   二人のイエス
 
 ユダヤ人の祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放する習わしとなっていたと書かれています。ローマ帝国が、征服した国をうまく治める知恵だった。そうして現地の国民の反ローマ感情を和らげたんです。ピラトは言いました。「どちらを釈放してほしいのか?バラバ・イエスか、それともメシアと呼ばれるイエスか?」(17節)。
 マルコによる福音書のほうを見ると、バラバという人物は、暴動の時、人殺しをして投獄をされていた人であると書かれています。そのバラバもイエスという名前であった。「イエス」という名前は珍しいものではありませんでした。イエスはギリシャ読みであって、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語では「ヨシュア」となります。ヨシュアは旧約聖書の英雄ですから、その名前をつけた人はたくさんいたんです。
 「どちらを釈放してほしいのか?バラバ・イエスか、それともメシアと呼ばれるイエスか?」‥‥ここに、神の御子であるイエスさまと、殺人をしたバラバ・イエスが並べられています。そして、動員された群衆は、バラバを釈放するように叫んだ。イエスは十字架につけろと。
 
   ねたみ
 
 本当はピラトは、イエスさまを釈放したかったんです。それは18節に書かれていますが、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」
 ユダヤ人指導者たちがイエスを訴えているのは「ねたみのため」であったというんです!彼らは、イエスは神を冒涜したと言い、総督に対してはユダヤ人の王を自称して皇帝に反逆を企てているとして訴えました。しかし、本当の理由は「ねたみ」であったというんです。そのことをピラトは知っていた、と。非常に恐ろしいことですが、まさに人間の心の中のドロドロした闇が垣間見えるような言葉です。
 本人たちは、決して「ねたみ」のためにイエスを訴えたなどとは言わない。しかしピラトは分かっていた。それは、外野にいるとよく分かるのと同じです。本人たちはいくら隠しても、外から見るとよく見える。
 マタイによる福音書を振り返ると、これまでにも、それらしきことがあったのを発見することができます。
 9:34 "ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。"‥‥これは、悪霊に取りつかれて口の利けない人から悪霊を追い出し、人々が驚嘆したことについて、イエスさまは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ってケチをつけたわけです。なるほど「ねたみ」を感じます。自分たちには悪霊を追い出すことができない。しかしイエスさまは悪霊を追い出している。それをねたましく思う気持ちが見え隠れしています。
 そして、イエスさまを殺す相談を始めたときのことが、12:14に書かれています。 "ファリサイ派の人々は出ていき、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。"‥‥これは、イエスさまが安息日に手の萎えた人を癒やされたことについて反発したんです。安息日に手を治すというのは、律法の規定違反であると。しかしこれも、本当に律法の規定違反であるから死刑にしようと相談したのかどうか。やはり、自分たちにできない奇跡をイエスさまがしたことについて、ねたみを感じたのではないか。そして民衆が、イエスさまを慕っていることにねたみを感じたのではないでしょうか。
 こうして、「ねたみ」が増大していって、ついにイエスさまを捕らえて十字架という死刑台に送ることに至った。そしてピラトにはそのことが分かっていた。
 もう亡くなりましたが、カトリックのシスターの渡辺和子さんのベストセラー、『置かれた場所で咲きなさい』に次のようなことが書かれていました。「悩みは、嫉妬に似ているとわたしは思っています。初めは小さかった悩みも、そこにばかり目をやっていると、どんどん雪だるまのように膨らんでいく。そして、転がりながら小さな悩みさえもくっつけて、自分ではどうしようもないほどに大きくなっていく。」
 嫉妬はすなわち「ねたみ」です。「悩みは嫉妬に似ている」‥‥ということは、ねたみも同じように、初めは小さかったねたみも、どんどん雪だるまのように膨らんでいく。自分ではどうしようもないほどに大きくなっていく。そしてイエスさまを十字架にかけるに至る。そいういうことになったのです。
 そして、ねたみというものは決して外に出しません。「私は、あの人をねたんでいます」などとは絶対に言わないでしょう。なぜなら、それは人間の最も醜い面であることを自分でもよく分かっているからです。それで、ねたみであることを隠して、他のもっともらしい理由をつける。それもまた人間の罪です。
 殺人を犯したことに表れているバラバの罪。ねたみによってイエスさまを十字架につけるよう求める指導者たちの罪。そして、イエスさまが無罪であることを知りながら、十字架刑を宣告してしまうピラトの罪。‥‥そういう、あらゆる人間の罪、悪が折り重なって、イエスさまに十字架の死刑が宣告される。そして、その真ん中にイエスさまが無言で、たしかに立っておられるというのがこの場面です。
 
   身代わり
 
 きょうの説教題は「身代わり」と付けました。イエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったと、教会ではくり返し教えられます。しかしその「身代わり」を身をもって体験した人は、今日の登場人物ではバラバであると言えます。
 なにしろ十字架という死刑になるはずだったのが、その寸前で釈放となったのです。こんな幸運はないでしょう。日本では、死刑囚の死刑執行は、その日の朝に告げられます。すると死刑囚の多くは、泣き叫んで、全力で抵抗を試みると言います。それはそうだろうと思います。それほどの恐怖です。
 ところが、このバラバという男は、十字架にかけられるために引き出されたと思ったら自分は釈放され、代わりにもう一人のイエスという人が十字架につけられることになったという。そのように死刑を免れたということは、信じられないような、夢でも見ているような気持ちになったことでしょう。
 しかしそれは、聖書が説くところによれば、バラバだけに起こったことではありません。私たちも同じなんです。私たちも罪人であり、やはり滅びに向かっていました。神の裁きを受ける身でした。ところがそれをイエスさまが代わってくださったというのが、聖書の語るところです。バラバが身をもって感じたであろう信じられないような感動の原因となった、イエスさまが身代わりになってくださった、ということが、この私たちにも起こっているんです。これは、感謝をもって喜んで良いことだと聖書は語っています。
 私たちの罪も赦されいます。たしかに赦されているんです。なにしろ、神の御子が身代わりとなってくださったからです。これ以上の救いはありません。このあと歌う『讃美歌21』の256番は、クリスマスの讃美歌ではないかと思われるかもしれませんが、本日の聖書箇所を読んで、私たちを救うためにこのピラトの裁判の場に立たれているイエスさまの恵みを、深く思うことができます。感謝をもって歌いたいと思います。


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