2021年10月31日(日)宗教改革記念日 逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記22章13
    マタイによる福音書27章11〜14
●説教 「返答」

 
   宗教改革記念日
 
 本日は10月31日です。「10月31日は何の日?」と教会外の人に聞いたとしたら、おそらくほとんどの人が「ハロウィーン」だと答えるでしょう。たしかに、むかしはほとんど聞いたこともなかったハロウィーンというものが、今では日本の年中行事の一つになりました。逗子教会の皆さんは、「10月31日は何の日」と聞かれたら、どう答えるでしょうか? もちろん、「宗教改革記念日です」と答えると期待しています。
 1517年、ドイツの司祭マルティン・ルターは、ヴィッテンベルグの教会の扉に、いわゆる「95箇条の提題」を張りつけました。それは、いわゆる「免罪符」(贖宥状)に反対し、討論を挑むものでした。こうしてローマ・カトリック教会に対する宗教改革が始まりました。
 このことについてお話しし出すと今日の説教が終わってしまいますので、ここでやめておきますが、私はマルチン・ルターという人は、本当の福音を取り戻した人であると思っております。本当の福音というのは、全くの罪人であるこの私という人間が、ただキリストを信じることによって本当に救われる、ということです。
 
   ポンテオ・ピラトのもとで
 
 さて、今日の聖書箇所ですが、ここを読んで思うのは、「神さまから答えをいただくためにはどうしたらよいか?」ということです。私たちも、神さま、イエスさまから答えをいただきたいということがよくあります。そのようなとき、私たちはどうしたらよいのか。本日の聖書から、恵みを分かち合いたいと思います。
 イエスさまを憎む、ユダヤ人指導者たちによって捕らえられたイエスさまは、今度はローマ帝国のユダヤ総督の官邸に連れて行かれました。その総督とは、使徒信条にその名前が出てくるポンテオ・ピラトという人です。
 私たちが礼拝で唱和している使徒信条。その短い文章の中で、名前が出てくる人は3人しかいません。一人はもちろんイエスさまです。もう一人は、イエスさまの母上であるマリアさまです。そしてもう一人は、このポンテオ・ピラトです。使徒信条では、イエスさまが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」というくだりで出てきます。つまりイエスさまを十字架につけた当事者として、まことに不名誉な形で出てきます。ただ、使徒信条はピラトを断罪するために名前を出しているのではなく、イエスさまが十字架につけられたという出来事は、確かに歴史上の出来事であることをはっきりと言うためにピラトの名前を出しているんです。ピラトがローマ帝国のユダヤ総督であったことは、ローマ帝国の記録上たしかなことだからです。つまり、「イエスさまが私たちの身代わりとして十字架につけられたのは作り話ではない。あのポンテオ・ピラトが総督の時、その裁判によって、たしかに十字架にかけられた。そしてたしかに復活された」ということを証言するために名前を出しているんです。
 ゲッセマネの園でイエスさまを逮捕したユダヤ人指導者たちである祭司長たちと民の長老たちは、真夜中に召集した最高法院で、神を冒涜したとの理由で、イエスさまを死刑にすることを決めました。そして彼らは、夜が明けると、イエスさまを総督であるピラトのところに連れて行きました。十字架の死刑の判決を出してもらうためです。夜が明けると直ちにイエスさまをピラトの所に連れて行った‥‥なにかイエスさまを慕う人々が気がついて騒ぎ出す前に決着をつけようという意図を感じます。
 なぜ彼らはイエスさまを自分たちで死刑にせず、ローマ帝国の総督であるピラトの所に連れて行ったんでしょうか?ローマ帝国に占領されているから、ユダヤ人指導者たちの手によっては死刑にできないからでしょうか?
 このことについて、もう少し詳しく書いてあるヨハネによる福音書のほうを見ると、18章31節でピラトは彼らに対してこう言っています。「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」(ヨハネ18:31)。それに対して、彼らはこう答えています。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。‥‥この答えは嘘なんです。ユダヤ人には人を死刑にする権限が与えられていないというのは嘘です。たとえば、使徒言行録の7章では、イエスさまを捕らえたのと同じユダヤ人指導者たちが、教会の伝道者の一人であったステファノを捕らえ、石打の刑にかけて殺害したことが書かれています。そのように、ローマ帝国に占領されていましたが、ユダヤ人が自分たちの宗教の戒律上の問題で死刑にすることは許されていたんです。
 しかし彼らは嘘をついた。というよりも、自分たちの宗教上の問題ではなく、ローマ帝国の法律上の問題としてイエスさまを死刑にしようとしたんです。なぜなら、自分たちがイエスさまを処刑してしまうと、イエスさまを信じた人々が大勢いましたから、その人々が怒り出すに違いないと考えたのです。つまり民衆の反発を恐れた。それで、イエスさまがローマ帝国の法律に触れることをしたということで、ピラトに訴え出たのです。自分たちの保身ですね。イエスさまが「ユダヤ人の王」であると名乗り、ローマ皇帝に反逆を企てていると言って。皇帝への反逆は死刑となります。それを狙ったんです。どこまでも、人間の罪深さが表れています。
 
   返答なし
 
 さて、総督ピラトの前に連れてこられたイエスさまは、総督がイエスさまに「あなたがユダヤ人の王なのか?」と問うと、「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。この答えは、前にも出てきましたが、口語訳聖書や新改訳聖書では「そのとおりである」となっていまして、要するに、「その通りなのだけれども、あなたが考えているような意味での王ではない」という微妙な言い回しです。このイエスさまの答えはその通りです。たしかに、旧約聖書で預言されていたユダヤ人の王であるけれども、人々が考えているような意味でのユダヤ人の王ではないわけですから。そのようにイエスさまはお答えになりました。
 ところが、ユダヤ人指導者である祭司長たちや長老たちから訴えられている間、彼らには何もお答えにならなかった、と書かれています。ピラトが不思議に思うほど、イエスさまはお答えにならなかったと。これはいったいなぜでしょうか?
 ヨハネによる福音書18章後半〜19章前半では、イエスさまとピラトとのやりとりがもっと詳しく書かれています。それによると、ピラトは総督官邸の中にイエスさまを入れて尋ねています。そして、イエスさまがユダヤ人の王であるということについて、もっと突っ込んで尋ねています。そしてイエスさまが「わたしの国は、この世には属していない」と答えられると、ピラトはそれをなんとなく理解するんですね。「それではやはり王なのか」と。つまり、イエスさまが王であるというのは、この地上の王国の王という意味ではなく、霊的な信仰の世界の王という意味であるということをなんとなく理解している。そしてイエスさまが、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われると、ピラトは「真理とは何か?」とさらに問うんですね。
 ‥‥問答はここで終わってしまっていて、その続きがどうなったのかは書かれていないのでわかりません。しかし少なくとも、ピラトはイエスさまの言葉に耳を傾けつつ、そこに神への恐れを感じつつ尋ねている。それに対して、イエスさまがお答えになっているんです。そして少なくとも「真理とは何か?」というピラトの問いは、真剣なものであったように思われます。
 
   聞く耳を持たぬ人たち
 
 それに対して、祭司長や長老たちは聞く耳を持っていませんでした。最初からイエスさまを死刑にすることを決めていました。このときから数時間前の、大祭司カイアファの屋敷での真夜中の協議もそうでした。イエスさまを死刑にするという目的だけがありました。イエスさまの言葉尻をとらえて、イエスさまを死刑に求刑することを決めました。つまり、イエスさまの言葉を聞くと言っても、死刑にするための口実を作るために、言葉尻を捉えるためだけに聞いていたのです。
 このようなことは、私たちにも経験があるのではないでしょうか。私には経験があります。私が大学生の時、新左翼でした。ノンセクトでしたが。そして対立するグループと論争するときは、まさにこれでした。相手をやっつけることしか頭にありませんでした。相手の言葉を聞くのは、何か言葉尻を捉えようとして狙って聞いているだけでした。そういうのは全く会話になりません。おたがいに言葉尻を捉えようとしているだけです。話してもムダということになります。
 それと同じように、聞く耳のない者に、主からの答えは与えられません。
 
   主の答えをいただくには?
 
 では、主からの答えをいただくには、どうしたらよいのでしょうか?‥‥聖書を読むと、純粋な心で、主に対してへりくだって求めるべきであるということがわかります。
 マタイによる福音書では、このエルサレムに来る前に、エリコの町で、二人の盲人との出会いがありました。彼らは、イエスさまが通りかかっていると聞いて、「主よ、わたしたちを憐れんでください。」(20:30)と叫び続けた。そうしてイエスさまは立ち止まってくださり、答えてくださいました。
 その前、19章16節からの所では、金持ちの青年がイエスさまの所にやって来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか?」と尋ねました。それに対してイエスさまは答えを与えてくださいました。ただしこの青年は、答えを聞いて悲しみながらイエスさまのもとを去っていきましたけれども。答えを与えられたことは事実です。彼は、イエスさまのことを先生と呼んで、へりくだって尋ねたからです。そのように、主イエスさまの前にへりくだって尋ねなくてはなりません。そうして主のお答えを待つんです。

 次に、主のお答えは、いくつかの方法によって与えられることを知っておいたほうが良いでしょう。
@聖書の言葉によって
 チイロバ先生こと、榎本保郎牧師は、‥‥聖書を読んでいて、その聖書の印刷された言葉が、あたかも自分に向かって語られたかのように響いてくることがある、それが聖霊の働きだ‥‥とおっしゃいました。若いとき、私はそれを聞いて、自分が仕事を辞めて伝道者となるために献身するべきかどうか、神さまから答えをいただこうとしました。そうして聖書の最初の創世記から読み始めました。しかし答えがありません。そうして数ヶ月経って、あきらめかけた頃、それでも聖書を続けて読んでいると、ダニエル書12章9節(口語訳聖書)の言葉が大きく心に響きました。そしてものすごい感動と平安が与えられました。それはたしかに私に語りかけた言葉として聞こえました。そして私は仕事を辞めて、東京神学大学へ行くことにしたんです。
A礼拝の説教によって
 上京して東神大に入って、神学生の間に通う教会を三鷹教会に決めていました。FEBCラジオで親しんだ清水恵三先生の教会に行きたいと前から思っていたからです。ところが、その最初の日曜日を迎える前に、学生寮の先輩が、その教会は行かないほうが良いと言いました。私は動揺しました。何しろ神学校の先輩の言葉ですから。それで私は最初の日曜日、主の答えを祈り求めつつ、三鷹教会の礼拝に出席しました。「主よ、ここが通うべき教会でしょうか?」と。礼拝説教は、ヨブ記の最後の方の個所の説教でした。初めて直接聞く清水先生の説教でしたが、その中で先生が「神の主権」という言葉をおっしゃったんです。その言葉が、私の心にズシンと響きました。それはあたかも主が次のようにおっしゃっているかのように聞こえました。「あなたは人間である先輩の言葉を聞いて何を迷っているのか。あなたはただ神である私に従いなさい。神の主権に信頼しなさい」と。そのように、説教を通して答えが与えられました。答えが与えられた次の瞬間、迷いが完全に吹っ切れて、ものすごい感動と平安がやって来ました。涙が流れました。そして私は4年間、三鷹教会に通い続けたのです。
B確信と平安が与えられることによって
 これは今回、逗子教会の会報である「ぶどうの木」の巻頭説教で書き始めたことです。教会の移転先の土地を2つの候補地のうちのどちらにするかで、教会内が分かれました。本当に困りました。分裂の危機でした。そこで、教会員と共に聖書全巻を読んで神さまから答えを与えていただくことにしました。全書の最初から最後まで、丸4日間、昼も夜もぶっ通しで聖書を読み続けたのです。空いている時間は交代で仮眠しましたが。そうして答えを与えられました。それは、特定のみことばを通して与えられたのではありませんでした。しかし、「このようにしなさい」という主の答えを与えていただいたと確信できました。なぜなら、このときも、迷いが吹っ切れ、喜びと平安が与えられたからです。そうして実際に、信じられないほど教会は一致を取り戻すことができ、すべてが整えられていったのです。どういう答えが与えられたかについては、次の号をおたのしみにして下さい。
 そのように、特定のみことばではないけれども、聖書を読んで、答えが与えられたと確信できるという形で、あるいはなすべきことが分かるという形で、主の答えが与えられる場合があります。
Cまた、これは預言者がそうですけれども、主から直接答えを与えられることがあります。心に神の言葉が与えられるんです。このようなことは、めったにありませんが、主が本当にその人に必要だと思われたら、そのようにして言葉が与えられることがあります。この場合も、すごい慰めと平安が与えられます。
D状況によって、主の答えがわかるという形で、答えが与えられることもあります。これはけっこう多い形だと思います。これは、主の答えを祈り求めていて、聖書の言葉が与えられるのではないけれども、道が開かれるという形で答えが与えられます。
E思いが与えられる(変えられる)
 これは先週、インターネットのSNSサイトであるツイッターで見たことを例に挙げます。そのツイッターの中で、あるクリスチャンの人が、作家の百田尚樹さんのツイートを引用していました。その百田さんのツイートは次のようなものです。=「先日、95歳の母から聞いた話。私が一歳の頃、母は家庭のことや生活のことで悩みに悩み、死ぬことも考えて、私を連れて淀川の河川敷に行った。クリスチャンの母はそこで1時間くらい祈ったが、神からの答えはなかった。しかし草むらで遊んでいる私を見て、頑張って生きようと思ったという。」
 この百田さんの記述について、それを引用したクリスチャンの人は、次のように書き込んでいました。=「頑張って生きようと思ったというのが神の答えではないか。それが聖霊の働きなんだよ。」‥‥私も、その通りだと思いました。そのように、神さまに祈ることによって自分の思いが変えられるという形で、答えが与えられるということも、よくあることです。
 
 他にも主の答えが与えられるという形はあると思いますが、今は代表的な場合をあげてみました。いずれにしても、主から答えをいただくには、この祭司長や民の長老たちのような高慢な態度では、主は何もお答えになりません。主のお答えをいただくには、へりくだって主の言葉に耳を傾けることが必要です。疑わないで、へりくだって主に求めるのです。
 どうか、主の答えを必要としている兄弟姉妹に、主が答えを与えてくださいますように。


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