2021年10月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記3章24節
    ヨハネの黙示録22章1〜9
●説教 「礼拝、究極の世界」

 
 本日は、神学生が説教に来る予定でしたが、風邪を引いたため、来られなくなりました。コロナ禍前ならば、少々の風邪なら来てもらうということになったでしょうけれども、現在のコロナ対策の状況ですので、休んでいただくことにしました。
 それで急きょ、私が講壇に立つことになりました。のんびり構えていましたので、何もこういうときのことを考えておりませんでした。それで、どの聖書箇所を選ぼうかと神さまに祈り、考えましたところ、先ほど読んだ箇所に決めました。このヨハネの黙示録の聖書箇所は、水曜日の聖書を学び祈る会で読んだ所です。聖書を学び祈る会では、今年の3月24日からヨハネの黙示録を学んできました。そして先週の水曜日で、最後の22章を読み終えました。私は牧師になってから34年目を迎えていますけれども、ヨハネの黙示録を最初から最後まで連続して扱ったのは、今回が初めてのことでした。
 黙示録というのは、たいへん解釈が難しい個所としても知られています。なぜなら、そこに書かれているのは、物事がそのままストレートに書かれているのではないからです。象徴的な、そしてたとえのような、絵画でいえば抽象画のように書かれています。ですから、それにはさまざまな解釈の仕方があります。それで、黙示録に関する本を何冊も読むことになります。そういうわけで、たいへんな作業でしたけれども、またそれはたいへん恵みも豊かなものでした。
 それで聖書を学び祈る会は出席者も少ないので、せっかくですからその最後のところをここで分かち合うことにした次第です。黙示録の最後をちょうど終えて、今日の礼拝で説教者が来れなくなったというのも、今日ここで黙示録の22章を話なさいという神さまの導きであると思いました。
 
   ヨハネの黙示録
 
 きょう読んだ聖書箇所は、ヨハネの黙示録の最後となる22章全部ではなく、22章の前半だけです。それは、ちょうどヨハネが神さまから見せられた幻の場面が終わるところです。「幻」というと、なにか幻覚とか、はかない蜃気楼のように思う人もいるかもしれませんが、聖書で言う幻とは、そういうものではありません。聖書で言う幻とは、予言なんですね。映像による予言です。そして先ほど読んだ黙示録22章で書かれているのは、最後の審判が終わって、新しい世界、言い換えれば一般に天国と呼ばれるものについて書かれているんです。その天国は、黙示録では、新しいエルサレムの都として描かれています。最後の審判が行われ、現在のこの世に終止符が打たれ、神の都である新しいエルサレムが現れる。それは永遠の世界です。これが究極の世界であり、私たちに与えられる終の棲家でもあります。
 つまりそれは、私たちにとっては、私たちがどこに向かっているのかを知ることでもあります。たとえば、私たちがバスに乗っていたとして、行き先がわからないバスに乗っていたとしたらどうでしょうか? とても不安であるに違いありません。「どこに連れて行かれるのか?」と。しかし行き先がわかっているバスに乗るのなら安心です。窓の外の景色を楽しむこともできるし、他のことにも集中できます。イエス・キリストを通して与えられる終わりを知ることは、そういうことでもあります。
 この黙示録の予言を見せられたのは、イエスさまの12使徒のうち、最後まで生き残ったヨハネです。他の使徒たちは、すでにみな殉教して、ヨハネだけが高齢になるまで生き残ったのです。それは1世紀の終わりごろのことでした。当時、教会は、ローマ帝国のドミティアヌスという皇帝によって、激しく迫害されていました。教会は、ペンテコステの時に誕生してから、まだ60数年しか経っていませんでした。ですから、教会はまだ小さなグループに過ぎませんでした。ローマ皇帝のドミティアヌスは、その教会を激しく迫害しました。ある者は捕らえられて処刑され、ある者は競技場で猛獣の餌食にされました。また、キリスト信徒は村八分にされ、物の売り買いをさせてもらえないようになりました。兵糧攻めです。キリスト信徒は非常に苦しめられたのです。明日どうなるかわからないという過酷な状況でした。使徒ヨハネ自身、すでに80歳を超える高齢になっていたと思われますが、ギリシャと現在のトルコ(小アジア)の間のエーゲ海に浮かぶパトモス島という小さな島に、島流しにされました。
 そのように、圧倒的なローマ皇帝と、迫害にさらされた少ないキリスト信徒の群れ。もはや教会の運命は風前の灯のように見えました。そのようなとき、パトモス島に島流しの刑にされていたヨハネは、神さまからこの黙示録に書かれている幻を通しての予言を与えられたのです。そしてその幻は、これから起こることについて、そして世の終わりの時のことについての予言でした。それは本来、人間が知ることのできないことでした。しかし主は、このひどい苦しみと試練の中にある教会に対して、ヨハネを通して予言をお示しになり、慰めと励ましを与えてくださったのです。それを書き留めたのが、ヨハネの黙示録です。
 そのように、試練と危機の中で、主は御言葉をお与えになり、慰めと希望をお与えになったのです。そのように主は、私たちに対しても、危機と試練の時に、言葉と答えを与えてくださいます。私が主から慰めやみことばを与えられたのも、だいたい試練や困難に遭遇したときでした。イエスさまは山上の説教で「悲しむ人々は、幸いである。その人は慰められる」(マタイ5:4)とおっしゃいましたが、それは本当です。そういうことですから、今、試練や困難の中にある方は、どうぞ主に祈り、主のみことばを求めて下さい。
 
   命の木
 
 さて、今日の聖書箇所では、究極の世界である新しいエルサレムの都が現れ、その都の中の様子が描かれています。やがて現れる天国の実体である新しいエルサレム。そこに連れて行って見せてくれたのは、神の御使いでした。するとその都には、川が流れていました。それは「命の水の川」と呼ばれています。そしてそれは、都の中の「神と小羊の玉座」から流れていたと書かれています。
 玉座というのは王座のことで、小羊とはイエスさまのことを指します。とくに小羊と言った場合は、私たちを救うためにいけにえとして十字架にかかって下さったイエスさま、ということを表します。すなわち、その命の水の川は、天地の創造主なる神さまと、イエスさまの所から流れ出ていたのです。私たちの命の源は、天地の創造主である神さまと、私たちを救うために十字架にかかって下さったイエスさまにあるということを、この光景は表しているのです。
 そしてその命の水の川の岸辺には、「命の木」があったのをヨハネは見ました。命の木。それは永遠の命のことを表す木です。みなさん、聖書の中で、命の木は、ここともう一個所出てくるところがありますが、それがどこであるかご存じですか?‥‥それは、聖書の一番最初のほうです。創世記の2章と3章です。つまり「命の木」は、聖書の最初と最後に現れているんです。
 聖書は、ご存じのように、旧約聖書の創世記から始まります。神さまが天地宇宙とその中にあるすべてのものを造られたことから始まっています。そして、聖書の最後は、きょう読んだヨハネの黙示録です。それは、この世が終わって新しい世界に移るという所で終わっています。つまり、聖書は、世界の初めが記されている創世記から始まって、世界の終わりと新しい天地について記されいるヨハネの黙示録まで、ほぼ歴史の時間順にすべての書物が並べられているのです。
 そしてそれは、単に人間の歴史を書いているのではありません。神にそむいて罪人となってしまった人間を救う歴史として書かれているのです。
 聖書の一番最初である創世記を見ると、神さまはこの世界を極めて良い世界として造られました。人間も自由意志を与えられた上で、良く造られました。そして人間が最初に置かれた場所はエデンの園と呼ばれました。そのエデンの園の中央には、善悪の知識の木と命の木がありました。そして神さまは、どの木の実も食べてよいけれども、善悪の知識の木からは取って食べてはならないとおっしゃいました。しかし人間は、蛇(サタン)にそそのかされて、取って食べてしまいました。神さまの言葉を信じないで、サタンの言葉を信じました。それで神にそむいたわけです。これが罪です。その結果、人間は命を失うこととなり、死ぬこととなりました。そして神さまは、人間が勝手に命の木の実を取って食べることができないように、エデンの園から人間を追放なさいました。それが、最初に読んだ創世記3章24節です。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
 こうして、命の木は、見ることができなくなりました。それは人間が神にそむいた罪によって、命を失ったことを表しています。その命の木が、聖書の一番最後のヨハネの黙示録の最後のところ、つまり今日の聖書箇所で、再び現れているんです。すなわちそれは、神にそむいて罪を犯して、命を失った人間が、再び永遠の命を取り戻すということを表しています。人間の救いが成ったんです。
 
   罪人である人間を救う歴史
 
 つまり聖書は、神にそむいて罪を犯し、死ぬことになった人間を、滅ぼすのではなく、救うための歴史として書かれているんです。神にそむいて罪人となってしまった人間を、神さまは滅ぼして、もう一度最初から作り直すこともできたはずです。しかし神さまは愛ですから、人間がそのまま滅びてしまうことを良しとされず、なんとかして救おうとされる。それが聖書に書かれている救いのための歴史です。それで聖書がこんなにページ数が多くなっているんです。滅ぼさずに、救うために神が人と共に歩まれるんです。
 そしてその救いのための歴史の真ん中に、イエス・キリストの十字架が立っている。これが聖書の救いの歴史です。イエス・キリストの十字架によって、罪人である私たちが救われるということを力強く指し示しているんです。
 これは、私たち一人一人の人生の歩みにも重なっています。つまり、私たちはみな、神さまによって造られ、神さまから命を与えられました。しかしその神さまを信じないで、迷い出ていきました。しかしそういう私たちを神さまは放っておかれず、聖霊を通して神さまの所に帰ってくるように導いて下さっているんです。それは、イエスさまが十字架にかかって、私たちの罪をあがなってくださったからです。罪人である私たちを、神さまにとりなしてくださっているからです。そのイエスさまを信じることによって、イエスさまが神の都へと導いていって下さる。
 
   神を礼拝せよ
 
 このあまりにもすばらしい、神の都を見て、使徒ヨハネは思わずその天使の足もとにひれ伏して拝もうとしました。すると天使が言いました。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕えるものである。神を礼拝せよ。」
 聖書では、ただ神さまだけを礼拝するのであって、その他のものを拝んではなりません。しかしヨハネは、やがて行くべき神の都があまりにもすばらしいので、思わず天使を拝もうとした。だから天使がそれを止めた。そのように読めます。
 しかし天使が言った「神を礼拝せよ」という言葉は、まことの神さま以外のものを拝んではならない、という意味だけではありません。「神を礼拝せよ」というのは、全聖書をつらぬく聖書全体のメッセージです。
 つまり、私たちにとって、神を礼拝するということが人生の目的であるということです。ふつうは、神さまを拝む人は、なぜ神さまを拝むんでしょうか?‥‥神さまを拝むと、御利益があると思って拝むのでしょう。商売が繁盛したり、大学に合格したりするような御利益があると思って神さまを拝む人が多いでしょう。つまり、その場合は、自分の願いをかなえてもらう手段として、神さまを拝むわけです。
 しかし聖書では違います。神さまを礼拝することは手段ではなく、目的です。このように神さまを拝むこと自体が私たちの目的なんです。その証拠に、天国、新しいエルサレムでは何がなされているか? 先ほどの聖書に書かれていました。3節4節です。
 「もはや、呪われるものは何一つない。神と子羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」
 終の棲家である神の国では、創造主なる神さまと小羊なるイエスさまと直接お会いして、直接礼拝しているんです。これが究極の世界です。私たち教会は、その天国の礼拝を先取りして、礼拝しているんです。
 神の僕たちの額には、神の名が記されていると書かれています。むかし、奴隷が売り買いされるときは、買った人の名前が奴隷の額に記されたそうです。その人が買ったということが分かるためにです。しかしここでは、神の名が記されている。神さまが、「あなたはわたしのものだ。たしかにわたしのものだ」と言ってくださるということです。私たちが神さまの者となるための代価は、イエスさまが十字架にかかって支払ってくださったんです。
 私たちが名実共に神のものとされ、直接イエスさまの前で礼拝をする。私たちは、そういう世界に招かれています。


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