2021年10月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記7章16
    マタイによる福音書26章69〜75
●説教 「号泣」

 
   鶏鳴教会
 
 エルサレム旧市街地の南のほうに「鶏鳴教会」が建っています。それは、真夜中のイエスさまの裁判、そして今日のペトロの否認の出来事があった、大祭司カイアファの屋敷の跡地に建っています。そこもまた私の記憶に深く刻まれる場所の一つとなりました。それは人間の弱さというものを深く思わされる場所でした。
 その鶏鳴教会は、坂道を上って行く石の階段の途中にあります。エルサレムは昔から戦乱の地でしたので、昔の地面というのはだいたい現在の地面の下に埋まっています。石やレンが造りの家や建物が戦争で破壊されると、その上にまた建物を建てていくということを繰り返したために、昔の地面はだいたい地下に埋まっていくことになります。しかしその鶏鳴教会に続く石段は、坂であるために埋まることがなく、2千年前のままになっているそうです。つまり、ゲッセマネの園で捕らえられたイエスさまが、たしかにその石の階段を連れられて行ったんです。2千年前、たしかにイエスさまがここを歩いて行かれたんだなあ、今日のペトロもここを上って大祭司の屋敷に入っていったんだなあと、感慨深く思いました。キリストはたしかにこの世に来られた。そして十字架へ向かって行かれた。そのことをその石の階段は無言のうちに証ししていました。
 
   心が重いか
 
 マタイによる福音書はイエスさまのご受難の場面に入っています。12使徒の一人であるイスカリオテのユダがイエスさまを裏切る。イエスさまが逮捕される。弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げて行く。真夜中のでっち上げのような裁判で、イエスさまが死刑の判決を受け、はずかしめを受ける‥‥。そして今日の個所では、使徒ペトロがイエスさまを否認するということが起きます。
 こういう所を読んでいって、悲しくなり、心が重くなるという方もおられるかと思います。確かに聖書は、弟子たちがいかにして主であるイエスさまを見捨てたかを詳しく書いています。人間の弱さと罪深さが、生々しく記録されています。
 しかし考えてみると、このような書物が他にあるでしょうか? 小説ならともかく、これは事実の記録として書かれているのです。ペトロは、やがて誕生する教会のリーダーとなった人です。他の使徒たちも、みな教会の指導者となった人たちです。なのにイエスさまを見捨てたり、否認したりというような、みっともない、みじめで弱い姿を赤裸々に記録している。‥‥そんな書物は聖書ぐらいではないでしょうか。
 およそ、この世の歴史の記録というものは、みな自分の都合の良いように書かれているものです。どの国の歴史もそうです。都合の悪いことは、無かったことにしたり、都合の悪い人物は、いなかったことになるなどします。歴史の記録から消えてしまいます。
 それに対して聖書はどうでしょうか。旧約聖書も新約聖書も、良いことも悪いことも書いています。たとえば、旧約聖書で最も賞賛される王といえばダビデ王ですが、良いことばかり書いていません。ダビデ王が犯した過ちも書いています。とくに、バト・シェバ事件のように、恥ずべきスキャンダルもちゃんと書いています。それはなぜかと言えば、聖書は人間をほめたたえる書物ではなく、神さまを証しする書物だからです。そのような書物こそが信頼できる書物であると言うことができます。
 都合の良いことだけを書く記録は真実ではありません。都合の悪いことまで書いてこそ、人間の真実が明らかとなります。この世の中に、完全な人間など一人もいないからです。それで聖書は、イエスさまの復活ののち、誕生した教会のリーダーとなった人たちの真実の姿を書いているのです。その人間として弱い姿、罪人としての姿をちゃんと書いているんです。
 さらに大切なことは、イエスさまはそのような人間をお救いになるということです。だから、その罪の姿、弱い姿をそのまま書いているんです。人間を絶望させ、暗い思いにするために真実を書いているのではありません。そのような罪深い人間をイエスさまが救ってくださるということを明らかにするために書かれているんです。
 それは喜ばしいことです。その弟子たちの罪人としての姿は、そのまま私たちの姿でもあるからです。つまり、この私たちもまたイエスさまが救ってくださる。それゆえに、このような赤裸々の姿が書かれているんです。
 主は、福音を宣べ伝えるように弟子たちにお命じになりました。マタイによる福音書も「福音」を書いています。福音とは、喜ばしい知らせという意味です。主は弟子たちに、喜ばしい知らせを宣べ伝えるようにお命じになったんです。そして主は、この私にも「福音」を宣べ伝えるようにおっしゃいました。絶望させ、暗い思いにさせるためにではないんです。喜ばしい知らせを伝えるためです。真実の救いを伝えるためです。そのために、罪人の弱い姿、真実の姿を書いているのです。イエスさまの十字架によって救われることを明らかにするためです。
 お医者さんが病気を治すためには、その病気がなんの病気なのか、どこに病気の原因があるかをまず検査します。それがなんの病気か、分からないままでは治療することができません。たしかに検査というのはドキドキします。人間ドックを受けないという人がいます。人間ドックを受けると、深刻な病気が見つかりそうだから受けないと。しかし検査しないままでは、どこが原因で調子が悪いのか分かりません。治すことができません。
 それと同じように、もし私たちが力なく、喜びもなく、不安の中で生きているとしたら、それは何が問題かを調べなくてはなりません。もし私たちが、イエス・キリストの福音を聞いても、喜びを感じないとしたら、それは自分の真実の姿を見なければならないでしょう。そしてそれは、聖書を通してそれを見ることができます。今日の聖書箇所を通しても、それを見ることができます。
 
   ペトロの否認
 
 使徒ペトロ。彼は、ゲッセマネの園で、イエスさまが捕らえられようとしたとき、剣を抜いてイエスさまを捕らえようとした人に斬りかかりました。しかしイエスさまが「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃったので、どうしたらよいか分からなくなりました。そして捕らえらたイエスさまを見て、他の弟子たちと同じく逃げて行きました。そのように一度は逃げて行きましたが、やはり気がとがめたのでしょう。イエスさまが捕らえられていった先の、この大祭司の屋敷に入り込みました。そして、夜の闇に紛れ、人混みに紛れるようにして、ひっそりとそこに座っていました。
 ところがそのペトロに、不意に言葉が投げかけられました。一人の女中が近寄ってきていいました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と。全く予想外のことだったでしょう。ペトロはドキッとしたことでしょう。第3者のふりをして、闇に紛れて座っていたのが、突然、第3者ではいられなくなったんです。舞台でいえば、単なる通行人のふりをしていたのが、突然スポットライトを浴びたようなものでしょう。
 それに対してペトロは答えました。「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と。「何を言っているのか分からない」‥‥それは否定でも肯定でもない。ごまかしたような言葉です。そしてそれは態度にも表れています。ペトロは門のほうに行ったんです。ごまかしたまま、その場を去ろうとしたように見えます。
 しかし、そこにさらに追い討ちをかける言葉がほかの女中からかけられます。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。まるで、お茶を濁したまま逃れようとするペトロのその裏切りの姿を、サタンが容赦なくあばこうとするかのようです。
 今度はペトロは、誓って「そんな人は知らない」と言ったということでした。「そんな人は知らない」‥‥ウソです。たしかにウソですが、まだペトロの心の中では自分で弁解する余地のある言葉かも知れません。それは、たしかに自分は、イエスさまがキリスト=救い主であると信じて従って来た。けれども、戦わないで従順に捕らえられてしまうようなキリストとは思わなかった。だからそんな方であるとは知らなかった‥‥。そんな苦しい言い訳を、自分の心の中でペトロはしていたかも知れません。
 しかし、背後にいるサタンが、そのような苦しい弁解さえも許さないかのようにして、追いかけてきます。しばらくして別の人たちが、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と言ったのです。言葉遣い。イエスさまもペトロもイスラエル北部のガリラヤ出身ですから、ペトロの話している言葉がガリラヤ地方の方言だということでしょう。
 この3度目の指摘に対して、ペトロは、呪いの言葉さえ口にして「そんな人は知らない」と誓い始めたと書かれています。呪いの言葉というのは、イエスさまを呪ったのでしょうか。あるいは自分が言ったことがウソなら、自分が呪いを受けても良いということでしょうか。いずれにしても、最大限の強さでイエスさまを知らないと言い、誓った。神さまに誓って否定したのです。イエスさまのことを知らないと、悲しいほど強く強く言ったのです。もはや疑いの余地なく、ウソをつき、イエスさまを否認し、裏切ったのです。
 それを聞いて、周りにいた人たちは、あっけにとられたことでしょう。何をこの男は、そんなにムキになってイエスの仲間であることを否定するのだろう、と。別にイエスの仲間だからと言って、この男まで捕らえるわけでもないのに、と。失笑した人もいたかも知れません。
 
   鶏鳴と号泣
 
 するとすぐ、鶏が鳴いたと書かれています。夜明けを告げる鶏の声です。その時ペトロは思い出しました。イエスさまが昨夜おっしゃった言葉をです。昨夜、イエスさまと弟子たちの食事が終わり、満月の夜をゲッセマネのオリーブ園に行く途中、イエスさまは、今宵弟子たちがイエスさまにつまづくことを予告なさいました。その時のやりとりを振り返ってみましょう。
(マタイ 26:33〜35)"するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。"
 ペトロは、このときのイエスさまの言葉を思い出した。そして外に出て激しく泣いたと書かれています。
 この涙はどういう涙だったでしょうか。自分の罪のゆえに、自分の弱さのゆえに泣く涙だったのだろうと思います。イエスのためには一緒に死ぬと誓いながら、たった今、逆にイエスなど知らないと言って誓った自分。その情けないほど弱い自分、罪深い自分、その自分に対する絶望的なまでに悲しい涙だったと言えるでしょう。
 しかし私は、本当に悲しみと絶望の涙だけで終わっただろうか、と思うんです。なぜなら、私もかつて自分の無力さ、弱さに悲しんで涙を流したことがあったからです。しかしそのとき、神さまの言葉を与えられて、その涙が途中から平安と喜びの涙に変えられたという不思議な経験をしたことがあるからです。
 ペトロは、たしかに自分の弱さと絶望的な罪深さに気がついて泣きました。しかし果たしてそれで終わりだっただろうか。昨晩、イエスさまがペトロに対して「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告なさった。つまりイエスさまは、ペトロがこの夜鶏が鳴く前に3度イエスさまのことを否認することをご存じだった。そしてそのことをご存じであったイエスさまは、ペトロを責めたでしょうか? ペトロのことを、もう弟子ではないと言って破門したでしょうか?‥‥そうではありませんでした。それどころか、イエスさまは復活の予告をなさり、復活して弟子たちよりも先にガリラヤに行くと約束なさいました。つまり、ガリラヤで待っていると。そして、ゲッセマネの祈りまでペトロたちを連れて行かれました。
 すなわち、イエスさまは、ペトロがイエスさまのことを3度も否認するほど情けないほどに弱く、イエスさまを見捨てることをご存じの上で、弟子としてくださっている。悲しみと絶望の涙のペトロの号泣は、そのことを思い起こして、イエスさまに対する感謝の涙へと変えられていったのではないか‥‥。私には、そんなふうにも読めるのです。もちろん、その感謝が、喜びへと変えられるのは、死からよみがえられた復活のイエスさまにお会いしてからのこととなります。
 自らの言葉を裏切ってイエスさまを見捨てたペトロ。それは絶望の地獄へ自ら落ちこんでいったようなものだったでしょう。自分自身の中の地獄を見たのです。しかし、そういうペトロであることをご存じの上で受け入れ、愛していてくださったイエスさま。このことを知ったとき、それは言いようのない感謝で満たされたことでしょう。
 それゆえ、私たちは、自分自身の中の罪深さ、闇を見ることになっても、恐れはないのです。それどころか、そういう私たちであることをご存じの上で、受け入れてくださり、愛してくださっている主のすばらしさを同時に知ることができるからです。それはかけがえのない喜びです。


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