2021年10月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書46章12
    マタイによる福音書26章57〜68
●説教 「神を裁く」

 
   世界聖餐日
 
 本日は、世界聖餐日です。世界聖餐日は、1930年代にアメリカの長老教会において始められました。世界中のキリスト者が主の食卓につくことによって一致し、互いに認め合うことを願って始められたのが世界聖餐日です。聖餐は、カトリック教会では聖体拝領と呼ばれますが、イエスさまの最後の晩餐の席でイエスさまが弟子たちに分け与えられた主の晩餐であるという点で、全く同じです。私たちキリスト者が、教派を超え、国境を超えて、共に主の晩餐にあずかる。これは私たちがキリストにあって一つであることを思い起こさせるものです。
 現在、世界は再び分断と対立の時代を迎えていると言われますが、私たちは私たちの救い主であるイエス・キリストの晩餐にあずかることによって、人種や民族の壁を超えて一つであることを証ししたいと思います。
 また、ちょうど緊急事態宣言が9月30日をもって終わり、本日の世界聖餐日の礼拝で聖餐式を再開できますことを心から喜んでおります。
 
   ペトロ
 
 さて、本日の聖書の舞台は、当時のユダヤ人の宗教的にも政治的にもトップであった大祭司の屋敷となります。前回、夜のゲッセマネのオリーブ園で捕らえられたイエスさまは、この大祭司カイアファの屋敷に連行されてきました。そこで真夜中の裁判が行われたんです。
 聖書を見ると、使徒であるペトロが、連行されていくイエスさまに遠く離れて従って行き、大祭司の屋敷の中庭まで入り込んだことが書かれています。一度は他の弟子たちと共にイエスさまを見捨てて逃げて行ったペトロでした。しかし、やはり良心がとがめたのでしょうか、「ことの成り行きを見ようと」して中に入り、下役たちと一緒に座っていたと書かれています。イエスさまの一番弟子であったと思われたペトロが、今や第3者を装い、闇に紛れるようにして人混みに紛れて様子をうかがっている。そうすると、58節に書かれている「ペトロは遠く離れてイエスに従い」という「遠く離れて」というのは、実際の距離を書いていると共に、イエスさまと離れてしまった心の距離をも表しているように思われます。
 
   真夜中の法廷
 
 真夜中ですが、大祭司カイアファの屋敷には、律法学者や長老たちが続々と集まって来たと書かれています。サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人議会である最高法院。そのメンバーが招集されたのです。そうして真夜中の議会で法廷が開かれます。
 これはルールを無視したやり方でした。なぜなら、最高法院は夜中に開くことはできないことになっていたからです。しかし、それをあえて開いたということは、それが緊急事態であったことを意味しています。緊急事態の時には、超法規的な措置がとられるものです。昨年3月、コロナ禍が始まったとき、総理大臣より全国の学校の休校が要請されました。前代未聞のことでした。しかしそれは緊急事態ということで、批判は起きませんでした。そのように緊急事態、非常時の時には超法規的措置がとられます。
 それはつまり、捕らえたイエスさまの処置という問題が、彼らにとっては、それほどまでに緊急事態であったことを示しています。それはつまり、単に自分たちにとって不利益な人物を排除するという以上の事態であることを示しています。
 つまりは、イエスさまを裁くということが、神を裁く裁判であることを、彼らは無意識のうちに感じていたのではないかと思うのです。神を裁く。それは非常に恐ろしいことです。最高法院の議員たちは、宗教者であったり、彼らの宗教に熱心な人たちでしたから、神を裁くということが神への冒とくその者であることはもちろん分かっていました。ですから、もちろん彼らは、イエスという人物を裁くのであって、神を裁くのではない。そう思っていた。しかし心の中のどこかに、「ひょっとして、もしかして、イエスという者は、神のもとから来たのかもしれない」という思いが1%ぐらいなかったかと言えば、そうではなかったでしょう。いずれにしろ、彼らはそのようなわずかな心の迷いを吹っ切るためにも集まって来たと言えると思います。
 大祭司というのは、神さまと人々との間に立つ人です。神聖な神殿の奥、至聖所と言われる本殿に、ただ一人入ることのできる人です。言い換えれば、神に最も近づくことができる人です。その大祭司のもとで、真夜中の法廷が開かれる。大祭司にしてみれば、それは神に代わって裁判長の席に座っているということになるでしょう。
 その法廷が、イエスさまを裁く。神の子であるイエスさまを裁く。どちらが本当の神なのか。そういう緊張感がカイアファの屋敷を支配しています。
 
   何を裁く裁判か?
 
 この裁判はまことにおかしな裁判でした。というのは、判決は最初から決まっていたということです。59節に書かれています。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとして‥‥」と。最初からイエスさまを死刑にすることが決まっている。ところが、死刑にするための罪が見つからない。証拠もない。罪状もなく、証拠もないのに、最初から死刑にすることが決まっているという、摩訶不思議な裁判です。それは形の上では裁判だけれども、裁判の体をなしていません。
 罪状がないというのも本当です。死刑にするためにイエスにとって不利な偽証を求めた、と書かれています。しかし証拠は得られなかった、と。なんの証拠を集めようというのでしょうか? その罪はなんでしょうか? 殺人罪に問われているのであれば、その殺人の証拠ということになるでしょう。窃盗罪に問われているのであれば、窃盗の証拠ということになるでしょう。またこれは宗教裁判であるとも言えますから、それであれば彼らの律法のどれかの規定に違反していることの証拠ということになるでしょう。しかし「証拠は得られなかった」というのです。
 最後に二人の人が登場して、イエスさまが「『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げました。イエスさまがこう言ったということは、マタイによる福音書には書かれていませんが、ヨハネによる福音書の2章19節に書かれていることで、たしかにイエスさまはそのようなことをおっしゃっています。しかしこの場合の「神殿」とは、エルサレムの神殿のことではなく、イエスさまご自身のことを神殿にたとえているんです。つまりご自分の十字架の死から3日目の復活のことを予告なさっているんです。しかし、そのイエスさまの言葉を二人の偽証人が証言したとして、それが一体何の罪に当たるかといえば、なんの罪にも当たらないでしょう。
 こうして、イエスさまを死刑にすべき、なんの罪も見つからなかった。
 私の恩師である清水恵三先生は、その著書『手さぐり聖書入門』の中で、このことについて次のように書いておられます。「偽証が次々に立てられる。そして崩れる。もともと証言などは必要がない。いったい神を殺すためにどんな証拠が必要だというのだろう。『信じない』とひとこと言えばそれですむことだ。」
 先生は、これは神を殺す裁判だと述べています。ならば証拠はいらない。「信じない」とひとこと言えばそれですむことだ、と。しかし、彼らは、自分たちがイエスさまを殺すことの正当性を見つけるために、おかしな裁判をしているわけです。
 
   沈黙のイエス
 
 この間、イエスさまは黙り続けておられたと書かれています。なぜイエスさまは沈黙なさっているのでしょうか? かつてイエスさまは、ファリサイ派と律法学者を厳しく批判なさいました。しかしこの場では沈黙なさっている。ご自分を裁こうとしているこの法廷では沈黙されている。
 イエスさまは、この法廷で問題となっているのが、イエスさまを信じるのか信じないのかということだけであることを、見抜いておられるのだと思います。
 そもそも、信じようとしない人たちに対して、どんな証拠を持ち出せば信じるのでしょうか。彼らは、これまで、イエスさまが病人を癒やしたり、目の見えない人の目を見えるようにしても信じませんでした。5つのパンと2匹の魚で、大勢の人の空腹を満たす奇跡でも信じませんでした。ラザロという人が、イエスさまによって生き返らせたことでも信じませんでした。奇跡を見聞きしても、信じなかったのです。
 何をしても信じない。それは、彼らが自分を神としていたからではないでしょうか。真の神を信じないということは、とどのつまり、自分を神としているのだということに違いありません。
 
   神を裁く
 
 しかしそのイエスさまの沈黙が破られるときが来ました。それが大祭司がイエスさまに対して、次の問いを発したときでした。(63節)「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシア(キリスト)なのか?」
 イエスは神の子キリストなのか?‥‥問題の核心は、まさにここにあると言えるでしょう。要はそういうことです。その問いに対して、イエスさまが口を開きます。
(64節)「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」
 「それは、あなたが言ったことです」とは、なにか中途半端な答えに聞こえますが、他の聖書では次のように訳しています。
 (口語訳聖書)「あなたの言うとおりである。」
 (新改訳聖書)「あなたの言うとおりです。」
 ずいぶん違う訳ですが、いったいどちらが正しい訳なのでしょうか? ギリシャ語学者でもあった織田昭牧師によれば、「それは、あなたが言ったことです」とは、「その通りだが、あなたの言う意味とはだいぶ違う」というような微妙な言葉であるということです。つまり、たしかに私は神の子キリストであるが、あなたの考えるキリストとは違う、ということになるでしょう。
 そしてイエスさまは続けて決定的なことをおっしゃいました。「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」 これはキリストの再臨のことを言っておられます。しかしそれは同時に、旧約聖書の預言書であるダニエル書の中の一節を引用して語っておられるんです。ダニエル書では、次の通りです。
(ダニエル書7:13〜14)「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」
 「日の老いたる者」というのは創造主なる神さまです。そしてこの「人の子」というのが、イエスさまご自身のことを指している。
 このイエスさまの言葉を聞いて、さすがは大祭司というべきでしょう。イエスさまが何を言っているのか、すぐに理解したんです。イエスさま自身が、ご自分を神の子キリストとしたことを。しかし大祭司カイアファにとっては、それは神を冒とくする言葉以外のなにものでもなかった。なぜなら、カイアファは、イエスさまを信じていないからです。信じない者にとっては、これは神を冒とくする言葉となる。自分の神を冒涜するものとなる。しかしそれは、自分たちの作り上げた神ですから、それを冒涜するということは、自分たちをイエスは冒とくしたのだ、とそう言っていることになります。それを、「神を冒とくした」という言葉によって覆い隠している。
 神を冒涜した者は死刑です。言い換えれば、自分たちを冒涜した者は抹殺しかないということになります。
 そして、この最高法院の議員たちは、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。まさにリンチです。しかし彼らの行ったこの暴行は、私には、イエスさまが神の子ではないことを確認しようとしている行為のように見えます。そこには、「もしかしたら本当にイエスは神かも」という思いが1%ぐらいはあった。しかしそれを打ち消し、イエスさまが神ではないことを確認するかのように、イエスさまに暴行を働いた。そして無抵抗のままのイエスさまを見て、「やはり神ではない」と確認している。そういう行為のように見えます。
 
   そのような私たちを救うために
 
 そしてそれは、神を信じなかったときの私たちの姿のようでもあります。しかしイエスさまは、そのような私たちを救うために、十字架へと進んで行かれます。無抵抗のイエスさまは、その罪をすべて引き受けたとおっしゃっているかのようです。このイエスさまによって私たちは救われるのです。
「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」そのような方が、私たちのところに来てくださり、私たちを治め、導いて下さる。ここに希望があります。そしてこのことを信じるように招かれています。


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