2021年9月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書10章20
    マタイによる福音書26章47〜56
●説教 「崩壊」

 
   風雲急を告げる
 
 本日の聖書の場面は、福音書の中でも最もドラマティックな場面の一つだと言えるでしょう。口づけを持ってイエスさまを裏切るユダ、そしてイエスさまの逮捕、イエスさまを見捨てて逃げて行く弟子たち‥‥と、息を呑むような展開を見せています。
 満月が照らす、夜中のゲッセマネの園においての出来事です。イエスさまの3時間にもおよぶ、父なる神さまとの祈りの格闘がありました。そのゲッセマネの祈りが終わるのを待っていたかのように、イエスさまを捕らえに来るおおぜいの人々。その先頭には、イエスさまのもっとも近くに置かれていたはずの12使徒の一人である、イスカリオテのユダがいました。
 
   ユダのあいさつ
 
 満月の明かりの中を進んできて、イエスさまに近づいたユダは、「先生、こんばんは」と言って接吻をした‥‥。
 この「こんばんは」と日本語に訳されている言葉ですが、このギリシャ語を直訳すると「喜べ」という意味になるんです。「先生、喜びなさい」と言っている。しかしなぜこれを「こんばんは」と日本語に訳しているかというと、これはユダヤ人のふつうのあいさつの言葉だからです。夜のあいさつといえば「こんばんは」ですから、そう訳しているわけです。ユダヤ人のあいさつの言葉というと「シャローム」(平安)という言葉があるのは有名ですが、この「喜べ」という言葉もよく使われるあいさつの言葉だそうです。ユダヤ人は、「喜べ」「喜びましょう」と言って、日常のあいさつの言葉にしていたわけです。もちろん、この背景には、神さまがいることが前提となっています。
 接吻、つまり口づけも何か特別な意味がある行為なのではなく、ユダヤ人のあいさつのしかたです。日本人ならお辞儀をし、アメリカ人なら握手をするようなものです。そのように、ユダはいつものあいさつをした。「喜びましょう」とあいさつの言葉を述べ、親しみを表す口づけをした。
 しかしその儀礼的なあいさつは、その時のユダの行為ともっともかけ離れたものでありました。別の言い方をすれば、大きな皮肉になっていたのでした。そのあいさつの言葉も、口づけも、それはイエスさまを捕らえるための合図でしかなかった。言葉のむなしさを、これほどまでに感じる場面が他にあるでしょうか?
 しかしユダにとっては、これは皮肉を込めたわけでもなんでもなく、単なるあいさつを装っただけに違いありません。
 
   イエスの答え
 
 そのユダのあいさつに対して、イエスさまがおっしゃった言葉が50節です。「友よ、しようとしていることをするがよい」。‥‥これなんですが、「しようとしていることをするがよい」というのはかなりの意訳なんですね。この所は口語訳聖書では「友よ、なんのためにきたのか」と訳されています。全然違いますね。
 では原文のギリシャ語ではどうなっているかというと、これがまた難しいんです。「友よ」はこれで良いのですが、次の所が直訳すると、たぶん「あなたが来たことのために」というような言葉になっています。これでは、よく意味が分かりません。おそらく途中で切れているんです。つまり続きの言葉を言いかけたのですが、途切れていると考えられます。イエスさまを捕らえに来た人々がイエスさまに手をかけて、中断してしまったのかも知れません。リアルですね。
 そしてこれがユダに対するイエスさまの最後の言葉となりました。このあと間もなくして、ユダは自殺をして自ら命を絶ってしまうからです。
 「友よ、あなたはなんのために来たのか」と読める言葉。この言葉は私には、「あなたはこのように私を売り渡すために、私の弟子となったのではなかったのではないか?」という問いに聞こえるんです。「あなたはこのような結末のために、私に従って来たのではなかったのではないか?」と。
 そしてこの言葉は、私には、旧約聖書の創世記3章で、神さまがアダムとエバに対しておっしゃった言葉と重なって聞こえます。神によって大切な存在として造られた人間。その最初の人間であるアダムとエバ夫婦。エデンの園にて、神と共に生きていました。しかし、神さまが「園の中のどの木から取って食べてもよいけれども、善悪の知識の木からは決して食べてはならない」とおっしゃった、その善悪の知識の木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまった物語。それによって人間に罪が入り込んだと聖書は語ります。そして、主なる神さまが近づいて来られたとき、二人は神さまの顔を避けて、木の間に隠れました。それまで神と共に歩み、神に対しても何も隠すことがなかった二人が神から身を隠すようになってしまったのでした。そのアダムを神さまは呼ばれました。「あなたはどこにいるのか?」(口語訳)と。
 「あなたはどこにいるのか」。その神さまの言葉は、このような言葉に聞こえてきます。「あなたは、そのようにしてコソコソと隠れなければならないはずの者ではなかったのではないか?」「あなたはどうしてしまったのか?」
 そうすると、このイエスさまの言葉は、「あなたは、単なるあいさつではなく、本当に『喜びましょう』と言って生きるように、作られたのではなかったか?」「あなたはそのように生きるために、命を与えられたのではなかったのではないか?」‥‥そのような言葉として聞こえてきます。
 中断されたイエスさまの言葉。この問いの言葉が、ユダに対する最後の言葉となりました。それはまるで、イエスさまの十字架の意味が、途中で切れて分からなくなってしまったかのように見えます。そして復活の、愛と赦しのイエスさまを待つことなく、ユダは自ら命を絶ってしまいます。
 
   人間の手にゆだねるイエス
 
 祭司長や長老たちが遣わした群衆が、イエスさまを捕らえるために手をかけたとき、イエスさまの弟子の一人が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかり、片方の耳を切り落としました。ヨハネによる福音書では、その弟子はペトロであったと書かれています。
 しかしイエスさまは彼に言いました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は、剣で滅びる」(52節)。これは教会の外でも有名な言葉です。たしかに武力を使う者は、武力で滅びるというのは人間の歴史を見ても分かります。非暴力の抵抗運動でも使われたりします。しかしここでは何よりも、イエスさまが剣を取る道を選ばないということです。ここで剣を抜かない、抵抗しないということは、すなわちこのまま捕らえられて十字架まで一直線の道になるということです。すなわち、死です。
 しかもこの言葉は、イエスさまご自身がおっしゃっておられるように、他に道がないということではない。イエスさまが父なる神にお願いすれば、神が天使の大軍を送って救出してくださることもできるというのです。しかしなぜそれをなさらない、言い換えれば剣を取らないかと言えば、それでは「聖書の言葉がどうして実現されよう」と。聖書の言葉、神の預言者たちの言葉が実現するために、イエスさまは剣をお取りにならず、無抵抗のままに人間たちの手に身を任せられる。それは言い換えれば、完全に神の手に身を任せられたということでもあります。そちらの道をお選びになった。そしてそれが、この直前のゲッセマネの祈りに対する神の答であったと言えます。
 
   見捨てて逃げて行く
 
 そのイエスさまの言葉を聞いて、弟子たちが皆イエスさまを見捨てて逃げて行ったと、このマタイによる福音書では書かれています。
 私は、弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げて行ったのは、自分たちも捕まると思って怖くて逃げたのだと思っていました。しかし今回、この聖書箇所を黙想していて、ふと「逃」という漢字を漢和辞典で調べてみました。すると、おもしろいことが分かりました。中国の古代の漢字である篆文では、「逃」という字の中の「兆」という字は、もともと占いの時に現れる割れ目の象形文字で、はじき分かれるの意味だそうです。それにしんにゅうが付いて、分かれ去る、逃げるの意味になったということです。そうすると漢字で言うと、ふつうに逃げて行くという意味よりも、もともとは分かれて去っていくという意味があることが分かります。
 そのことから私は思いをめぐらしたわけです。このとき弟子たちは、たしかに恐ろしくて逃げて行ったということもあるだろうけれども、むしろ、イエスさまと別れて去っていったということではなかろうかと。つまり、マタイが、ここで剣を抜いて大祭司の手下の耳を切り落としたのがペトロであるとは書かずに、「イエスと一緒にいた者の一人が」と書いているのは、ペトロだけではなく他の弟子たちも同じ思いであったということを言いたかったのではないか。そしてそれは、たしかに怖くて逃げて行ったという面もあるだろうけれども、むしろ、これ以上イエスさまに従って行くことに疑問を持ち、分かれていったということではないかと思ったのです。
 剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかったペトロは、なぜ剣を抜いたのか?‥‥それは、イエスさまを捕らえに来たユダヤの権力者に対して、いまこそ決起すべき時が来たと思ったのではないか。弟子たちが期待するキリスト、メシアとは、自分たちを支配しているローマ帝国やそれと結託しているユダヤ人指導者たちを倒して、革命を起こし、独立をかちとる指導者だと。武力をもってローマ帝国の支配を倒す指導者。それがキリストというものだと期待していた。そしてそういうキリストこそがイエスさまだと信じて従って来た。だから、イエスさまを捕らえるためにこの人たちが来た、今このときこそ、剣を取って決起すべき時であると思って剣を抜いた。今は多勢に無勢だけれども、イエスさまの奇跡をもってすれば、ここで勝つことができる。朝になれば、イエスさまを支持する多くの民衆がイエスさまと共に剣を抜いて立ち上がる。その先陣を切って、ペトロは剣を抜いた。‥‥
 ところが、イエスさまは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃり、さらに続けて「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」などとおっしゃって、無抵抗のままに捕らえられて行くと言われる。‥‥弟子たちの考えたキリストの姿と、実際のイエスさまが違ったのです。それで弟子たちは、ここでたもとを分かった。十字架へと向かって行かれるイエスさまから去った。そう考えることができます。
 
   すべてを包み込んで行かれるイエス
 
 これは、このときの弟子たちだけの話ではありません。多くの人もそうです。ある人は、イエスさまが革命家であることを期待しました。しかしそうではなかったと失望して去っていきました。ある人はイエスさまに、自分の願いを自分の願い通りにかなえてくれる方だと期待しました。しかしその願いがかなえられなかったと言って、去っていきました。また、イエスさまの言葉が理解できないと言って去って行く人もいます。おもしろくないと思って去って行く人もいます。‥‥
 そのように、多くの人がイエスさまに対して、「こういうイエスさまであってほしい」「このようなキリストであってほしい」と期待し、願い、やがて自分の願ったイエスさまとは違うと言って去って行きます。かくいう私自身も、去っていった一人でした。
 しかし、イエスさまのほうはどうでしょうか?そう言う私たちから去って行かれるのでしょうか?‥‥そうではありません。
 このあとイエスさまは真夜中の裁判、そしてローマ総督ポンテオ・ピラトのもとでの裁判を経て、十字架にかけられます。そうして死なれます。そして墓に葬られます。これですべてが終わったと思われました。しかし、よみがえられました。復活です。その復活のイエスさまは、イエスさまを見捨てた弟子たちを迎えに来られました。イエスさまは、去っていった弟子たちを、大きく包み込んでおられたのです。
 そのように、イエスさまは、イエスさまにつまずく多くの人々の勝手な思い、罪を丸ごと抱えて十字架に行かれる。そして私たちを大きく包み込んでいてくださる。そして復活のイエスさまが、再び私たちに近づいてきてくださっていることを知ることになるのです。このような弟子たちであっても、包み込んで下さっている。このような私たちであっても、包み込んでいて下さっている。そして今このときも、イエスさまは共におられて、主と共に歩むように招いてくださっています。


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