2021年9月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編38編16
    マタイによる福音書26章36〜46
●説教 「究極の祈り」

 
   敬老祝福を覚えて
 
 本日は、コロナ禍の緊急事態宣言下ですから、ささやかではありますが、礼拝後に敬老祝福の時を持ちたいと思います。
 それに関して、一つ良いお話をしたいと思います。昨年、コロナ禍が始まる前に、当教会の修養会のために愛知教会の吉澤牧師に来ていただきました。「筋トレ」のことを教えてくださった先生と言えば、すぐに思い出されると思いますが。その吉澤先生が、鈴木祐さんというサイエンスライターの方が書いた『最高の体調』という本を紹介してくれました。その中に書かれていたことです。約7万5千人を10年に渡って調べたハーバード大学の調査では、週に1回のペースで教会の礼拝に参加した女性は、全く教会に行かない女性に比べて、その後16年間の死亡率が33%減少する傾向があったそうです。
 このことは、キリストの福音が語られ、神を礼拝するということが、健康の面からもすばらしいことであるということを証ししていると思います。本日も、マタイによる福音書を通して、イエス・キリストの恵みを分かち合いたいと思います。
 
   ゲッセマネ
 
 最後の晩餐を終えられたイエスさまは、弟子たちと共にゲッセマネという場所に行かれました。
 ちなみに私は今「ゲッセマネ」と申しましたが、聖書を見ると「ゲツセマネ」と、「ツ」が大きい字になっています。だから「ゲツセマネ」なんでしょうが、昔から「ゲッセマネ」と言ってきました。また、言語のギリシャ語を調べるとどちらともとれるような発音になっています。それで「ゲッセマネ」と申し上げることをお許し下さい。
 そのゲッセマネという場所は、エルサレムの町を囲む城壁を出て東側にあるオリーブ山のふもとにあります。そこはオリーブの木がたくさん植わっているオリーブ園です。「ゲッセマネの園」と呼ばれています。現在もその一部が残っていまして、その中のイエスさまが祈られたと言われている場所には「万国民の教会」という教会堂が建っています。私がエルサレム行きましたときに、もっとも印象に残る場所の一つでした。今年の当教会のカレンダーの写真になっています。
 イエスさまはそのオリーブ園に祈るために行かれました。時はちょうど満月の夜でした。そのゲッセマネの園に来ると、イエスさまはペトロとゼベダイの子二人、つまりヤコブとヨハネの3人以外の弟子たちをそこに待たせ、3人だけを連れてもう少し中に入って行かれました。そして3人を置いてやや離れた場所で、父なる神さまとの祈りの時を持たれたのです。
 どれくらいの時間祈られたか。最初に祈られて3人の所に戻ってこられたとき、「あなたがたはこのように、わずか一時でもわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」と弟子たちに言っておられることから、1時間の祈りを3回されたと考えられますから、約3時間の祈りの時を持たれたということになります。そのようにイエスさまは、捕らえられる前に、父なる神さまに熱心に祈る長い祈りの時を持たれました。
 
   悲しむイエス
 
 そしてまず私たちの印象に残るのは、イエスさまが「悲しみもだえ始められた」ということです。そして3人の弟子に「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃったことです。「死ぬばかりに悲しい」というのは、悲しみのあまり死んでしまいそうだということですから、イエスさまがそんなに悲しまれたというのは、私たちにとってたいへんな驚きです。何をそれほどまでに悲しまれたのか?と思わざるをえません。
 ちなみに他の福音書の同じ個所を見ると、次のようになっています。
・マルコによる福音書では「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(14:33)‥‥と、恐れられたことを書き留めています。
・ルカによる福音書では「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(22:44)‥‥と、苦しまれたことを書き留めています。
 そのように、それぞれの福音書がイエスさまの何に注目をしているかということが分かりますが、総合すると、このときイエスさまは、悲しまれ、恐れられ、苦しまれて父なる神との祈りに向かわれたということが分かります。
 そうすると、私たちはますます動揺します。「そのようにイエスさまが恐れられたとは、どういうことだろうか?」と。イエスさまは、ご自分が捕らえられて十字架に張り付けにされることをご存じでしたから「十字架の死を恐れたのか?」と思う人がいても不思議ではありません。いったいどういうことなのでしょうか?
 
   私たちの身代わりに
 
 ここで私たちは、イエスさまがご自分のことを考えて悲しまれ、恐れ、苦しまれたのかということを考えてみなければなりません。イエスさまは、十字架と死が恐ろしくて悲しまれ、苦しまれたのでしょうか?
 それは違います。なぜなら、イエスさまがなんのために十字架にかかられたのかを考えてみれば分かることです。そのことをもっともていねいに予言していると言われるイザヤ書53章を見てみましょう。
(イザヤ書 53:4〜5)"彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。"
 そのように「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと、と。」‥‥と記されています。これが、その昔、預言者イザヤがキリストの受難について予言したことです。イエスさまが苦しまれたのは、私たちの痛みを代わりに負って下さったからだと言っています。しかし、私たちは、キリストは神の手にかかり、打たれたから苦しんでいるのだと思ったという。私たちの代わりに、十字架を負って下さったことが分からないから、キリストは勝手に苦しんでいるのだと思ったというのです。
 いかがでしょうか。ここに答があるのではないでしょうか。ともすると、私たちは「イエス・キリストが私たちの代わりに十字架にかかって下さった」聞くと、あまりにもよく聞く言葉なので、慣れてしまって、あまり深く思わないようになってしまいます。ですから、今日の聖書箇所のように、ゲッセマネの祈りの時に、イエスさまが悲しみ、苦しみ、恐れられたというと、他人事のように思ってしまいます。しかし、これはすべて、この私たちの罪を代わりに負って下さることについて、痛みを負って下さることについて、イエスさまが味わわれたことであると知ると、また全然違って見えてくるのではないでしょうか。
 私たちは、キリストが私たちの代わりに罪を負って下さったと聞くと、罪の重荷についてよく分かっていないので、あまりピンとこないのではないでしょうか。せいぜい、スーパーに買い物に行ってたくさん買い物をして、親切な人がその重い荷物を代わりに持ってくれた‥‥程度にしか想像できないかも知れません。
 また、我が子がひどい病気で苦しんでいるようなとき、親であれば「自分が代わってやりたい」と思うことでしょう。しかしいざ本当に代わることができるかといえば、まず物理的に実際に代わることができませんし、万が一神さまが、「じゃあ、あなた代わりなさい」とおっしゃったとしたら、ちょっと二の足を踏むのではないでしょうか。しかしキリストは実際に代わることができるし、代わってくださるというんです。
 しかも「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。」と書かれているように、私たちの罪咎(つみとが)を負い、代わりにその報いを引き受けられるというのです。罪を代わりに負うというのは、簡単なことではありません。神の御子が命を捨てなければならないのです。神の御子が、苦しみ、悲しみ、恐れられる。それほどのものが私たちの罪であり、咎であるということを、この場面から逆に私たちは教えられるのです。
 
   恐れ
 
 先ほどマルコによる福音書のほうでは「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(14:33)となっていることを申し上げました。「恐れる」というのは、何を恐れられたのでしょうか? 死を恐れられたのでしょうか?‥‥それは違うと言うことができます。なぜなら、イエスさまはここまでに、弟子たちに対して何度も「恐れるな」とおっしゃってきたからです。
 このことを解く鍵は、以前イエスさまがおっしゃった次の言葉にあります。
(マタイ10:28)"体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。"
 「魂も体も滅ぼすことのできる方」とは、もちろん神さまのことです。恐れるべき方は、ただひとり神さまであると言われました。私たちは神を恐れなければならないのです。
 現代の病は、神を恐れなくなったところにあります。文明は進歩したかも知れないけれども、あまり神を信じななくなった。したがって神を恐れない。それが現代のさまざまな問題を引き起こしています。人間のおごり高ぶり、罪の結果です。神を恐れないんです。神さまという方が、どんなに恐るべき方であるかを知らないんです。
 しかしイエスさまは、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃいました。神を恐れよ、と。ですから、イエスさまが恐れたのは父なる神さまです。神にそむき、罪を犯し続ける私たち人間の罪を引き受けたとき、人間の罪に対する神の怒りの大きさを感じられたに違いありません。神を信じないと、このことは分からないんです。
 
   選択
 
 イエスさまの祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」というものでした。
 「杯」とは、十字架を指しています。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」‥‥神の御子であるイエスさま。その神の御子が十字架にかかって死ななければならない。それほどまでに人間の罪は深いのか? 死ぬのが恐ろしくて、十字架の回避を願っておられるのではありません。何が私たち人間の救いのために、もっとも良い道なのか、父なる神に祈って答えを求めておられるんです。
 祈りの途中で、いったん3人の弟子たちのところに戻られて、眠りこけている弟子たちを見て、神の答を見たのではないでしょうか。「心は燃えても肉体は弱い」(41節)とおっしゃいました。私たち人間が罪を犯すのは、心が弱いからではないということです。肉体が弱いから罪を犯すのだと。弟子たちが、イエスさまのためなら命も捨てますと誓っておきながら、いざ自分の身に危険が迫ると逃げて行くのは、肉体が殺されることを恐れるからです。どんな高尚なことを言う人でも、いざ自分の身に不利益が降りかかるとなると、あっさりと撤回するんです。生活が、つまり体が損なわれることを恐れるからです。イエスさまは、人間の罪の本質を見抜いておられたんです。
 3度戻ってきて、3度とも眠りこけている弟子たちの姿を見て、そこに神の答を見られたのではないか。もはや人間の意思によっては救われない。神の御子、イエスさまが、神の怒りを人間の代わりに受けられて、十字架にかけられる他はないのだと。
 夜中のゲッセマネの園での3時間の祈り。悲しみ、苦しみもだえられて父なる神と格闘するかのように祈られました。それは、他でもない、この私たち一人一人を救うための祈りであった。この私たちのことを、そこまで思って、いのちをかけてくださる方がここにいるんです。その愛の姿が、今日のゲッセマネの園での、イエスさまの姿です。深い感謝をもって、この方を信じて行きたいと思います。


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