2021年9月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編53編3〜4
    マタイによる福音書26章31〜35
●説教 「砂上の楼閣」

 
    オリーブ山からゲッセマネの途上にて
 
 イエスさまは最後の晩餐を終えられ、弟子たちと共にその家を出て行かれました。どこに行かれるかというと、それは次の場面になるわけですが、オリーブ山の麓のゲッセマネというところで祈るために出かけられたのです。時は夜。ちょうど満月でした。その満月の光が照らす中を、歩いて行かれます。その時弟子たちと交わした会話が、今日の聖書箇所です。
 そこでイエスさまが弟子たちに告げられたのが、まさにその夜、弟子たちがイエスさまにつまずくという予告でした。具体的には、イエスさまを見捨てて逃げて行くということです。そういう衝撃的なことをおっしゃいました。「今夜」というのですから、数時間のうちにそのことが起こるということになります。
 それを聞かされた弟子たちは、どんなに驚いたことでしょうか。ここまでずっとイエスさまに従って来た弟子たちが、どうしてイエスさまを裏切るというのか?
 それについてイエスさまは、「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」と、旧約聖書の言葉を引用なさったのです。この言葉は、旧約聖書のゼカリヤ書13章7節に書かれている言葉です。ゼカリヤという人は預言者ですから、これは預言の言葉ということになります。ですからイエスさまは、そのように預言されていることだからだと、おっしゃったんです。
 つまり、イエスさまは、これまで弟子たちをご覧になってきて、「ああ、この者たちは私を裏切りそうだな」と思ったから、弟子たちがイエスさまを見捨てるとおっしゃったのではない。あらかじめこのことが旧約聖書によって預言されているからだ、とおっしゃったことになります。そして、実際に、このあと弟子たちはイエスさまを見捨てることになります。
 
   聖書が予言となるには
 
 そのように、イエスさまは聖書にこう書いてあるから、あなたがたは今夜つまずくんだとおっしゃったわけですが、その聖書、今申し上げましたようにゼカリヤ書13章7節が、どうして何百年も後のその日の夜の弟子たちの逃亡のことを預言しているのかと、ふと思います。ちょっと細かいことですが、気になりますね。
 そうしてゼカリヤ書13章7節を見ると、このようになっています。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」
 なんだか不思議な言葉ですし、後の時代のイエスさまの弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げて行くことの予言のようには読めません。またゼカリヤ書を開いて、この言葉の前後を見ても、この時とは全く関係ないことが書かれているようにしか読めません。イエスさまは、なぜこの言葉が、この夜の弟子たちのつまずきのことを予言しているとおっしゃったのか? 不思議に思います。
 このことを考えていて、自分自身が聖書から答をいただいたことを思い出しました。以前もお話ししたことですが、私が若いとき、私が伝道者になるべきなのかどうか、答えを神さまに求めたときのことです。具体的には、聖書を最初から読み進め、神さまの答えを祈り求めました。しかしいくら読んでも、神さまからの答えはありませんでした。答えを祈り求めつつ聖書を読み始めて数ヶ月経った頃、半ばあきらめていたときのことでした。旧約聖書のダニエル書12章9節の言葉が、私の胸に強く響いてきました。当時は口語訳聖書を使っていましたが、そこにはこう書いてありました。「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。」‥‥この言葉は、今から2千5百年も前に神さまが御使いを通してダニエルという人に語られた言葉です。ですから、私に語られた言葉ではないし、本来全く関係ない言葉のはずです。しかしその時、なぜかその言葉が、神さまがあたかも私に語られた言葉のように聞こえてきたのです。神さまがその聖書の言葉を通して直接語られたように聞こえました。そしてそれと同時に、私はものすごい平安で満たされてしまい、涙が止まらなくなったんです。神さまが私に語られたと思いました。「行きなさい」と。‥‥そのことを思い出しました。
 聖書の言葉は、時にはそのようにして、直接私たちに語られた言葉となります。それには、私には数ヶ月の答えを求める祈りが必要でした。私たちは、いつも人間の言葉ばかり聞いています。人と会話して、あるいはテレビやラジオを通して、新聞やインターネットを通して‥‥すべて人間の言葉です。神さまの言葉に耳を傾けようとするのは、1日の間の祈りの時間の時、そして教会の礼拝の時だけです。だから、聖書を通して神さまの言葉を聞こうと思っても、なかなか心が神さまに向かないんですね。
 しかしイエスさまは違います。イエスさまは、しばしば朝早く弟子たちよりも早く起きて祈りに行かれました。神さまに心を向ける時間を持たれたわけです。夜も、時には遅くまでひとりになって父なる神さまに向かう時間を持たれました。日中、人々に教えられるときはもちろん、歩いておられるときも、食事をされるときも、いつもイエスさまは父なる神さまの方に心が向いておられたに違いありません。そうすると、聖書の言葉を通して答が与えられるとか、示されるということが普通にあるのだと思います。
 本日の個所で、このゼカリヤ書7章3節は、そのような中で、今日のこの夜の出来事を予言しているということを、父なる神さまから示されたのであると思います。もちろん、イエスさまは神の子ですから、何でもご存じであると言ってしまえばそれまでですが、イエスさまは人の子としてこられたわけですから、そのように聖書のみことばを通して神さまが示されるということがあったのだろうと思います。
 
   打ち消す弟子たち
 
 さて、そのように弟子たちのつまずきを予告なさったイエスさまに対して、弟子たちはそれを否定いたします。まずペトロが口火を切りました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。‥‥私は絶対につまずかない、どこまでもイエスさまに従って行くという強い決意表明のことばです。たしかにペトロは、イエスさまによって最初に招かれて弟子となった人です。そして、イエスさまのことを「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と告白した人です。他の誰よりも、自分はイエスさまを第一に従っていると思っていたに違いありません。ですからそのように答えるのも当然でしょう。
 ところがイエスさまは、そのペトロに追い討ちをかけます。それは、具体的にペトロがどうやってイエスさまにつまずくかということをおっしゃったのです。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」‥‥あなたは、まさにこのあと、私のことを3度も知らないというのだと。
 ここまで具体的に言われては、ペトロは引き下がるわけにはいきません。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、強くイエスさまの言葉を否定いたします。しかし事実はどうなったか。皆さんもよくご存じの通り、イエスさまの予告なさったとおりになりました。ドラマであります。人間の、生々しいドラマです。現実のドラマです。
 ペトロは、ウソを言ったのでしょうか? 本当は心の中では、イエスさまを見捨てるかも知れないと思っていたのに、ウソをついたのでしょうか?‥‥私は、ペトロは本当のことを言ったと思います。ペトロはこの時、本当にイエスさまと一緒に命を捨てる覚悟をしたんだと思うんです。
 ペトロの言葉のあと、「弟子たちも皆、同じように言った」と書かれています。他の弟子たちも同じ思いだったのです。そしてそれもまたうそ偽りのない、弟子たちの気持ちであったのだと思います。
 たとえば、トマス。ヨハネによる福音書の11章を見ると、イエスさまがラザロという人が死んだことを知り、そのラザロがいる村に行こうとおっしゃったとき、トマスは他の弟子たちに言いました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と。イエスさまは死ににいくのだと勘違いしたんですね。しかし、自分たちも行って一緒に死のうとトマスは言いました。そのように、ペトロだけではなく、他の弟子たちもイエスさまのために命も捨てると、同じように思っていたに違いないのです。
 
   弱さを包み込んで
 
 しかし実際はどうだったか。イエスさまの予告通り、皆イエスさまを見捨てていきました。なんという情けない弟子たちか、と思います。あまりにも弱くてみっともない。口では勇ましいことを言っても、実際にその時になると見捨てて逃げて行ってしまう。あまりにも弱い。
 「忠臣蔵」を思い出す人もいるでしょう。かつては日本人の国民的な物語と言われた忠臣蔵。主君、浅野内匠頭の仇討ちを果たすために、吉良上野介邸に討ち入った大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士47人は、死を覚悟の上で討ち入ったではないか。そしてみな、切腹したではなかったか。なのに、神の子イエスさまと共に命を捨てた者は一人もいなかったばかりか、そのイエスさまを見捨てて逃げてしまい、一番弟子のペトロに至っては、「お前もイエスの仲間だな」と言われて「そんな人は知らない」と3度も否認してしまう‥‥。あまりにも情けない。目を覆いたくなるばかりの惨状です。
 しかし私は、そこにイエスさまのものすごい愛を見ることができるんです。そもそも、イエスさまは、なぜこのとき、弟子たちのつまずきを予告なさったのでしょうか? 「お前たちは私を見捨てることになる、どうしようもない奴らだ」と嫌みを言うためでしょうか?‥‥そんなことは絶対にありません。断罪するためでしょうか? 地獄に落とすためでしょうか?‥‥そんなことも絶対にありません。
 なぜ「絶対にない」と言えるかと申しますと、それはイエスさまの復活の時のことを見れば分かります。十字架で死んでから3日目にイエスさまがよみがえられたあと、イエスさまは弟子たちの所に来られました。そのとき、イエスさまは一言でも弟子たちを責めておられないんです。それどころか、何事もなかったかのようにして、教会を弟子たちに託されるんです。
 
   なぜ予告なさったのか
 
 すなわち、イエスさまは、いざというときにイエスさまを見捨てて逃げて行くことをご承知の上で、この人たちを弟子にしたことが分かります。そしてそのようにイエスさまを見捨てるような、情けないほど弱い弟子たちを受け入れたまま、十字架へ向かわれる。そのことを明らかにするために、この時弟子たちのつまずきを予告なさったに違いありません。このような情けないほどに弱く、罪深い弟子たちを、そのあなた方を救うために十字架へ行くのだと。
 このとき弟子たちは、まだ本当の自分の姿を知っていません。自分が、師であり主であるイエスさまを裏切って見捨てるほど弱い人間であり、罪深い人間であるという、その自分の本当の姿を知っていないんです。だから強がっています。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのはそのためです。しかし彼らは、まもなく、そのような自分の決意であるとか、信念であるとか、そういう自分のものが何も役に立たないことを知ることになります。逆に、自分という人間がどんなに惨めで、弱く、罪深い者であるかということを知ることになります。十字架のイエスさまを見たときに、思い知ることになります。
 しかし、そのイエスさまがよみがえられ、会いに来てくださったときに、そんな弱い自分たちを愛し、招いてくださったことを知ることになるのです!
 きょうの個所でイエスさまは、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」とおっしゃっています。もちろんこのとき弟子たちは、「復活」とは何のことなのか分からなかったでしょう。耳に入っていなかったでしょう。「つまずく」という言葉があまりにも大きすぎて。「ガリラヤ」‥‥それは、この12弟子のふるさとです。かつて、そこで彼らはイエスさまによって招かれ、弟子となりました。復活したあと、イエスさまはそこに行くと言われる。
 あの日、あのとき、あなたがたを招いて弟子にした。その時から、あなたがたのことはすべてを知っていたんだよ。その上で、あなたがたを弟子にした。共に歩んできた。‥‥イエスさまはそのようにおっしゃっているかのようです。このイエスさまによって、私たちも救われることができるんです。
 私たちもイエスさまに招かれている者です。私たちの弱さも、罪深さも、何もかもご存じの上で、招かれたんです。その私たちを救い、祝福で満たすために歩んで行かれるイエスさま。そのイエスさまを信じて行きたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]