2021年9月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記12章23
    マタイによる福音書26章26〜30
●説教 「盃をくみ交わす」

 
   アフガニスタン
 
 報道されています通り、アフガニスタンからアメリカが撤退し、代わってタリバンが政権を握りました。タリバンは「イスラム原理主義」の過激派と言われています。そして以前政権を握っていたときに、国民から人権を奪いましたので、今回もそのことがたいへん危惧されているのもご承知の通りです。とくに女性の権利を認めないことで有名です。さらに、女性以上に迫害の対象となることが確実なのが、キリスト教徒など違う宗教の信徒です。以前タリバンが政権を取っているときには、キリスト教徒はひどい迫害を受けましたし、とくにイスラム教徒がキリスト教に改宗した場合は、死刑を覚悟しなければならないという状況でした。すでに、スマホに聖書のアプリが入っていないかどうか、タリバンが一人一人を調査し始めたということが、キリスト教メディアで報道されています。
 私たちは、そのような危機の中に置かれたアフガニスタンのクリスチャンのために祈らなければなりません。なぜなら、私たちは兄弟姉妹だからです。クリスチャンに国境はありません。主イエス・キリストにあって、兄弟姉妹です。アフガニスタンの兄弟姉妹が守られるように、祈る者でありたいと思います。
 
   兄弟姉妹
 
 いま、クリスチャンはおたがいに兄弟姉妹だと申し上げました。そのように、教会では兄弟姉妹という言葉を使います。それはどうして兄弟姉妹かといえば、たとえば今日の聖書箇所がヒントになると思います。
 本日の聖書箇所で、イエスさまはぶどう酒の入った杯(盃)を弟子たちにお与えになり、「皆、この杯から飲みなさい」とおっしゃいました。その杯は、言わば義兄弟の杯にたとえられるものです。義兄弟などと言うと、むかし北島三郎さんが歌った「兄弟仁義」の歌みたいで、何か任侠道の方々を連想しますけれども、私たちはもともと兄弟姉妹ではなかったけれども、イエスさまの杯をいただくことによって兄弟姉妹となったわけですから、たしかに義兄弟となったのであります。
 
   主の晩餐
 
 そして今日の聖書箇所は、聖餐式が定められた個所でもあります。新共同訳聖書のこの段落の見出しには「主の晩餐」と書かれています。そのように、聖餐は主の晩餐とも言います。
 プロテスタント教会の礼拝の中心は、聖餐と説教です。しかし説教と言っても、それは牧師が勝手なことを語るのではなく、聖書に基づいて語られるものです。その聖書を読むときに、聖書にはいろいろな解釈があるわけですが、その解釈も牧師が勝手に解釈して良いというものでは決してありません。突き詰めて言えば、聖餐に基づいたものでなければならないのです。この聖餐が私たちに物語っていることから外れた解釈は、正しい聖書の解釈とは言えません。そのように、聖餐式は、何かのついでにおこなうというようなものではなく、礼拝の中心なんです。
 現在は、地域における新型コロナウイルス感染状況の悪化にともない、聖餐式を中止にしていますが、だからといって聖餐が中心ではなくなったということではありません。この聖壇の中央に聖餐卓が置かれているということが、礼拝の中心が聖餐にあることを示しています。
 本日の聖書箇所は最後の晩餐の席でのことです。そして、この夜のうちにイエスさまは捕らえられて、明日の朝十字架に張り付けにされる。そういう緊迫した状況です。しかしそのことは、イエスさま以外、弟子たちは誰も分かっていない。そしてこの最後の晩餐は、前回も申し上げましたように、ユダヤ人の大切な宗教行事である過越祭(除酵祭)の一環である、過越の食事というものでありました。
 過越の食事とは、その昔イスラエルの民が、神の奇跡によって奴隷にされていたエジプトから出て行くときにとった食事です。神さまは、神さまのなして下さった救いを忘れないように、子孫まで代々に渡って過越の食事を守るようにモーセにお命じになったのです。過越とは、小羊の血によって神の罰が過ぎ越したということです。小羊が犠牲となることによって、神の罰が過ぎ越した。命が救われた。そうして奴隷の国から解放された。そのことを子孫が忘れないように、ずっとこの祭りを守りなさいというのが、神さまの教えでした。そしてイスラエルの民は、それをずっと守ってきました。
 そしてイエスさまが十字架にかけられる前の晩の最後の食事が、この過越の食事であったわけです。すなわち、それは、イエスさまがおかかりになる十字架の意味を指し示すものとなりました。小羊が犠牲となって、神の罰が過ぎ越して救われたように、イエスさまが十字架にかかって、私たちに対する神の罰が過ぎ越して赦され、救われる。まさにイエスさまがその過越の小羊となって命を捨てられる。それが十字架なんだと。あらかじめ十字架の意味をそこに込めて、明らかにしておられるんです。
 
   命のパン
 
 さて、イエスさまはパンを手に取られ、それを裂きながらおっしゃいました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 驚くべき言葉ではないでしょうか。つまり、わたしを食べなさい、と言っておられるんです。
 このことを考えてみますと、そもそも、パンは何のために食べるのかということになります。パンは、この当時のイスラエルで言えば主食です。日本で言うご飯です。ご飯は何のために食べるのかといえば、それは生きていくために決まっています。食べなければ死んでしまいます。だから生きるためにご飯を食べる。イスラエルで言えば、パンを食べるわけです。そうすると、イエスさまがパンを手に取り「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われたのは、まさにイエスさまご自身が、生きるためのパンであるとおっしゃっているように聞こえます。
 そしてそれはその通りで、イエスさまはヨハネによる福音書の6章48で「わたしは命のパンである」とおっしゃっています。イエスさまは命のパンである。その命のパンであるわたしを食べなさい、ということになります。小麦粉で作られたパンは、肉体の命を保つために食べられる。それに対して、イエスさまは命のパンであると言われます。イエスさまがわたしたちの本当の命を生かすのであると。その命のパンであるイエスさまをあらわすのが、聖餐式のパンであることになります。
 もちろん、聖餐のパンそのものに永遠の命を与える魔法のような力があるわけではありません。具体的には、イエスさまを信じるということです。しかし単に「信じる」というと、ともすると何か頭の中だけのことのように思えます。そこから一歩踏み込むと言いますか、まさにそのイエスさまを信じて自分の中に受け入れるような、つまり神の命を受け入れるような言葉、それが「取って食べなさい。これはわたしの体である。」という御言葉であると思います。
 
   契約の血
 
 そのことが、杯でもっとはっきりします。イエスさまは、ぶどう酒が入った杯を手にしておっしゃいました。(28節)「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」赤いぶどう酒の入った杯。それを「罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血」とおっしゃったんです。その契約の血は、やはりこのあとかけられる十字架で流される血を指しています。
 その血を表すぶどう酒を飲めと言われたとき、弟子たちはたいへん驚いたと思います。なぜなら、ユダヤ人にとって血を飲むということは厳禁だからです。今日もう一個所読んだ旧約聖書の申命記12章23節にそのことが書かれています。「血は断じて食べてはならない」と。血を「食べてはならない」というのは日本語として変で、「飲んではならない」でしょうが、それはその掟が、清い動物の肉は食べることができるが、血はダメだと、これもその昔神さまがモーセにおっしゃった掟であって、イスラエルの人々は堅くそれを守ってきたからです。なぜ血を飲んではならないかというと、「血は命」であるからと。たしかに血は命です。血が失われれば、人は死んでしまいます。だから血を飲んではならないと、昔主なる神さまはモーセに命じました。それが掟となりました。だから弟子たちは、イエスさまの血であるぶどう酒を飲みなさいと言われたとき、どんなに驚いたかと想像できるのです。
 ではなぜ旧約聖書で、命である血を飲んではならないといわれてきたのか。それは、この時のためだと言うことができます。このイエスさまの言葉を待つためにです。血は命である。そして本当に私たちが受けるべき命は、イエスさまの命だけである。そのことを予言するために、旧約聖書の掟では、血を飲んではならないと言われてきたのであると思います。イエスさまが十字架で流される血。その命の血を指し示すために、そのクライマックスを迎えるためにです。
 真の命を与えることのできる方はイエスさまだけだということです。このあとイエスさまが十字架で流される血、命は、あなたがたに与えるために流すのだ。それを受け取りなさい、いただきなさい‥‥と。そのように言われている。
 さらに興味深いのは、イエスさまはここで「契約の血である」とおっしゃっている点です。「契約」の血。たとえば不動産契約。土地を売買するときなど、厳密な契約書が交わされます。そこには、こういう条件で、こういう金額で不動産を売買するということが書かれています。そして双方が合意して署名捺印され、契約が成立します。そのように、双方が合意して契約が成り立ちます。
 しかしここでイエスさまがおっしゃっている「契約」という言葉は、独特です。それは双方の合意に基づいてなされるという契約ではありません。片方が一方的に契約を宣言し、一方的に履行の義務を負うという契約です。ここで言えば、イエスさまが弟子たちに対して一方的に契約を宣言し、イエスさまがそれを守る義務を負うというものです。イエスさまが契約を果たす責任を負って下さるというものです。イエスさまの一方的な決定です。あなたがたの罪が赦されるように、あなた方を救うために、私は血を流す、命を捨てるという一方的な決定です。だから飲みなさい、罪の赦しと命を受け取りなさいと言われるんです。
 
   聖餐式
 
 私たちは、この主の晩餐にくり返しあずかりながら、そのイエス・キリストの恵みを味わっていくんです。その聖餐にあずかるために、洗礼を受けるといっても良い。イエスさまの約束を信じて受け取りますというのが、洗礼です。だから洗礼を受けた者が聖餐にあずかるんです。
 私は聖餐式を執行する側ですが、聖餐式の時には本当に感動してしまいます。配られたパンをいただくとき、今日のイエスさまの言葉、「取って食べなさい」というお言葉が、なにか「私を食べなさい」とおっしゃっているようで、心にジーンと来るんですね。もちろん、人を食べることはないわけですが、もし食べたとしたらその人は死んでしまうことになります。つまり、私が食べて生きる代わりに、イエスさまは死なれる。それが十字架だと。私たちを生かすために、イエスさまが命を捨てて下さる。その十字架の意味があざやかに伝わって参ります。「あなたを生かすために、私は十字架で命を捨てる」とおっしゃっている。
 そして、命の血である杯のぶどう汁をいただく。「あなたの罪を赦した!」と一方的に宣言して下さるイエスさまがそこにおられます。しかも、今日の聖書を読みますと、イエスさまは、パンを手に取られたときに「賛美の祈り」を唱えておられます。また杯を手に取られたときには、「感謝の祈り」を唱えておられます。そのように、賛美と神への感謝をして、そのように言われる。父なる神さまを賛美し、感謝して、私たちに命を与えてくださるのです。ご自分の命に代えて、です。
 
   感謝
 
 そして29節の言葉を忘れてはなりません。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」わたしの父の国、神の国です。神の国でまた新たにこの杯を飲むと。地上ではこれが最後になるが、神の国で再び一緒に飲むと言われます。神の国の約束です。神の国に連れて行くと。
 こうして、福音書で語られた神の国の喜ばしい知らせ、福音が、凝縮し、実体となって私たちに差し出されているのが、主の晩餐です。キリストの命と共に差し出されています。


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